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“他人の言葉を借りて発信することに意味はない”のかしら…

■今の私には影響力がない


現在生まれて23年と5ヶ月ってところだ。
保育士としてのキャリアも3年。

“私”という人間に対する価値はこれからつけていく、いわば“発展途上”の人間である。

でも考えはある。

現状、キャリアがないから信用されない。
というか、信用するためのリソースがない状態なのか…


■信用してもらうためのリソースを準備する

そのリソースが、
自分と近い考えの影響力のある人の言葉だ。


いろんな本を読んでみたり、実際人と関わるなかで思ったけれど、人は内容よりも誰が言ったのかを重視する傾向がある。
なぜならば、その事柄に対して深く考えることをしたくないからだ。キャリアのない人の言葉を選ぶにはそれなりの理由を揃えたくなる。キャリアがある人はその理由は考えなくてもみんなからの評価があるってところで無条件に受け入れる。ない人の理由を考えるのがめんどくさいのだ。偏見や、色眼鏡と言ってもいいかもしれない。

■“考える力”の衰退と未発達

そうやって自分で考える力が衰退していくのだ。そんな大人が、子どもたちに考える力を育みたいなんてお戯れが過ぎませんか?って。もちろん、全てのものに二面性があるから一概にこう!とは言えない。目に見える信頼のある人を信頼するのはもちろん、大事なことでもある。ただ、なんでもかんでもキャリアだけになっていないか?

大事なときに自分の力で考えて判断する力がなかったらキャリアのない人、つまり、部下からの信頼はどんどこ落ちていくと思う。部下は上司の良いところも悪いところもよくよく見ています。いざとなったときに足下をすくわれてしまう。普段から対等に、組織としての構図は大事だが、上司も部下ももともとは人と人。まずは相手に敬意を尽くす。それが人間界で生きていくルールではないだろうか。年齢やキャリアに左右されない“自分”としての物の見方、相手一面から見るのではなく、多角的に見ることが必要だと考えている。

■まずは“自分を知る”こと

第一歩はやっぱり“自己理解”である。

自分がどんな時に感情的になりやすいのか?どんな考え方のクセがあるのか?を知っておかなければならないとおもう。なぜならば、知らず知らずのうちに偏見が強くなっていくからだ。

いわゆる自分独特の固定概念を崩してみない限り、相手をフラットに見ることはできない。気づかないうちに自分の見たいようにしか世界を見られなくなっていく。そうだとしても構わないが、自分はこんな思いグセがあるということを知っておく必要がある。そうすることで無駄な争いは回避できる。

私はこう見るけれど、もしかするとこうなのかもしれないというらあらたな選択肢が増える。そうすると心に余裕を持つこともできる。

“考える”という行為は物理的に時間も生む。
ヒートアップした脳ミソもプシューっと落ち着く。

■そのために

もっともっと自分を知る機会が増えるといいな…
学校教育の場でもそんなことができると社会はまた変わってくるんじゃないかな…

未来を創るのは子どもたち。

私はその大切な将来を担う子どもたちに、いかにして“共に生きる”ことへ希望を持つかっていうところを伝えていきたい。

私1人に出来ることは限られているけれど、この世界にはたくさんの人がいる。きっと協力してくれる人がいる!


まずは私からそんな希望を抱いて生きていく。

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