夢の中でも、写真を撮っている。
夫と散歩をしていた。街を流れる小さな川沿い。そこにかかる橋のたもとに、大きな枝垂桜が1本、たたずんでいた。満開の桜が、春の優しい風になびいている。その姿はひっそりとしているが、たいへん立派である。
日が暮れゆく。空のグラデーションは、静かに夜を連れてきた。街にぽつりぽつりと、明かりが灯る。川沿いの街灯がぼうっと枝垂桜を照らした。
「今日はここで撮ろう」
わたしは三脚を引き伸ばし、カメラをセットした。横で夫も三脚を伸ばした。
どのレンズにしようかと、バッグの中をごそごそと漁る。今日はこいつかなあと、選んだレンズをカメラにつける。
ハイアングルで桜を前景に。橋の向こうを歩いている人を画面の隅に捉えよう。「三脚使うの久しぶりだなあ」と思いながら、ああでもないこうでもないとフレーミングする。
近くの学校で、部活動が終わった学生が帰宅し始めた。賑やかな笑い声が響く。
「すみません、ちょっとこれ見ていてもらっていいですか?」
突然、男子学生3人に話しかけられた。もちろん知らない子たちだ。わたしが「え?」と驚くと、彼らは荷物を置いて、走ってどこかへ行ってしまった。
見ていてほしいものとは、彼らのカバンや運動靴だった。急いでいたようだが、忘れ物でも取りに行ったのだろうか。
学生時代、わたしは運動とは無縁だった。走るのも投げるのも泳ぐのも苦手、体育の授業は嫌いだった。しかし、彼らのそれを見ると、何故か懐かしいものがこみ上げてきた。
「見ず知らずのひとに荷物預けるなんて、不用心よね」とわたしが言うと、夫は「ほんとだね」と笑った。
彼らの荷物のそばで、写真を撮り続けた。設定を変えるときダイアルを触る感覚、シャッター切るときボタンを押す感覚、ファインダーを覗く感覚、すべてが好きだ。
夢中になっていると、いつの間にか月が昇ってきていた。そろそろ違う場所でも撮りたいのだが、荷物番を任されてしまったため、動くこともできない。
男子学生3人は帰ってこない。「どこ行っちゃったのかな」と夫と話す。一体、今何時だろう。ああ、それにしても綺麗な桜だなあ。
夢だった。また、写真を撮る夢を見た。
目覚めたそこは、暗い寝室。夫の寝息が響いていた。朝はまだ来ていない。そっと寝返りを打った。
写真を撮る夢を、よく見る。
ある日は、街中でスナップをしていた。シャッタータイミングを逃して悔しい思いをした。ある日は、海辺で友人を撮っていた。わたしの手は、レンズの質量を確実に感じていた。
あの感覚は、たしかにリアルだった。シーンごとにカメラも使い分けている自分がいた。
現実世界、わたしは週の半分ほど、シャッターを切っている。それでもまだ、夢の中で写真を撮っていた。
高校時代、英語の先生が言っていた。「英語がとても上達すると、夢の中でも英語で会話ができるようになるんだよ」と。当時のわたしは、そんなことがあるか、と思った。
今なら、それもわかる気がする。英語圏で生活したり、英語を熱心にインプット・アウトプットするひとは、相当な時間、英語に触れているはずだ。それは、身に染みつくほどだろう。
とはいえ、わたしの写真が上達しているかは、甚だ疑問だ。わたしが考える「写真の上達」は、「自分がイメージした写真を完成させること」である。そう考えると、まだまだ未熟者だろう。
しかし、身に染みつくほど写真に触れているのは、事実なのかもしれない。わたしは、ただの平凡な写真愛好家だ。平凡な写真愛好家は、寝ても覚めても写真のことを考えている。撮ることも、見ることも、写真が好きだ。
生きているうちに、これほど夢中になれるものに出逢えた。夢の中と書いて、夢中。わたしは今、夢の中にいるのかもしれない。
思考があやふやになり、再び眠気が襲ってくる。
静かに目を閉じる。
夢の中で出逢った男子学生たちは、戻ってくるのだろうか。
それともわたしは、他の見知らぬ場所でカメラを構えるのだろうか。
意識が遠くなる。朝まで眠ろう。
起きたらきっと、また写真のことを考えている。だって、夢中だから。
それじゃあ、おやすみ。
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