【しをよむ112】まど・みちお「さくらの はなびら」——私の全部は世界のひとひら。

一週間に一編、詩を読んで感想など書いてみようと思います。

まど・みちお「さくらの はなびら」

(田中和雄編『ポケット詩集』(童話社)より)

前に読んだ「ぼくが ここに」が、あらゆるものが占める唯一無二の空間の詩だとしたら、
これはあらゆるものが辿る唯一無二の時間の詩と言えそうです。

つぼみがふくらみ、ほころんで、咲いて、散っていく。
その花びらはだれかに拾われ、あるいは土に還り、あるいは川に流れ。
さくらのひとひらはまるで砂時計の砂ひとつぶのように春をカウントダウンしていきます。

外から見れば無数にあるはなびらのひとつですが、
「そのはなびら」が枝から離れるのは一度きり。

話は少し変わりますが、ちょうど今日、シェリー・ケーガン『「死」とは何か』を読み始めました。
今ならAmazon Prime Reading 対象です。
ヒトがヒトとして在り始めて以来、生まれてきたヒトは必ず死にます。
ヒトとして生きる以上、死は例外なく訪れるものだし、考えのうえではそれを十分わかっているはずなのに、
どうして死を怖いと思ってしまうのでしょう。
本書を読んでそんなことを考えていたのですが、この詩になぞらえると
「去年も一昨年もはなびらが散っていったのは知っているし、今年まわりのはなびらが散るのも見送ったけれど、自分自身が枝から離れるのは一度きりだから」ということになるのかもしれません。

蛇足ですが、私個人としては、怖いのは死そのものではなくて、死をもたらす痛みや苦しみだと思っています。
夢の中で2回ほど死んだことがありますが、その時は安らかだったので寂しくはあれど怖くはありませんでした。

私の主観では、世界の認識は「私」と「そのほか」ですが、
ある人の主観では、世界の認識は「その人自身」と「(私を含めた)そのほか」で、
私にとって「そのほか」で認識されているひとつひとつ、一人一人が、
少なくとも私が持っているのと同程度の主観をもって自身やそのほかを認識している、という想像は、折に触れて思い出しておきたいです。

お読みいただき、ありがとうございました。
来週は石垣りん「表札」を読みます。

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