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読書メモ 岸見一郎・古賀史健「幸せになる勇気」

 大ベストセラーになった「嫌われる勇気」の続編、アドラー心理学の本ですね。
 いつもどおり完全に自分用のメモです。
 今回はほとんどの部分をメモするような事態になってしまい、かなり分量が多いです。本そのものを読んだほうが良いかもです(^o^;)


幸福は、その場にとどまることで享受できるものではない。
→行動は必須。

宗教と哲学の相似点
・「科学」と異なり、人間にとっての「真」「善」「美」までを取り扱う。

宗教と哲学の相違点
・「物語」の有無。宗教は物語によって世界を説明する。
 哲学は物語を廃する。
・真理の探求の道の半ばで、自分なりの真理をみつけて途中で進むことをやめ、独自の理想を展開していく→宗教
・歩みを止めず、永遠に真理を探求し続ける→哲学

哲学とは学問ではなく、「知ることを愛し続ける(愛知学)「生きる態度(生き方)」である。
→「知っている」と思った瞬間に哲学者としての歩みは止まる。
 哲学者は永遠に「知らない」者である。


教育について

・カウンセリング=再教育
 カウンセリングも子供の教育も本質的には同じ。
 →教育は、「自立」を最終目標としている。
 →教育は、「介入」ではなく、自立に向けた「援助」。
 ・共同体の中でどのように生きるのか
 ・他者とどう関わればよいびか
 ・共同体の中に、居場所を見つけるにはどうすればよいか
「わたし」と「あなた」を知ること=「人間知」

●行動面の目標
 ①自立すること
 ②社会と調和して暮らせること

●心理面の目標
 ①私には能力がある、という意識
 ②人々はわたしの仲間である、という意識


教育(指導・援助)の入り口は、対象への「尊敬」。
教える側が、教えられる側を敬う気持ちをもつこと。
根源にあるのは「人間への尊敬」。特定の他者ではなく、あらゆるたにんを尊敬する。

「尊敬」とは何か?
→人間の姿をありのままに見、その人が唯一無二の存在であることを知る事。
 その人が、その人らしく成長発展していけるよう、気遣うこと
 (エーリッヒ・フロム)

・変えようとしない、操作しようとしない、条件をつけない。
 ありのままのその人を認める。
・ありのままを認め、尊敬されること=勇気づけの原点

従来考えられていた「尊敬」のかたち
・対象に憧れ、自分もそうなりたいと思う事。
 →それは恐怖・従属・信仰である。
 対象の本質を見ておらず、その権力・権威に怯え、虚像を崇めている。

・自分の価値観を押し付けず、その人が「その人であること」に価値を
 置き、その成長と発展を援助する=教育。
・教育の対象が変わる(学ぶ)かどうかは、対象の問題。自分の問題で
 はない(課題の分離)。
・「尊敬」と「愛」は、強要できない。
 →互いの間に「尊敬」が存在しなければ、「関係」も存在し得ない。
 →強要しても「あなた」ではなく「権力」に服従するだけ。


他者の関心事に関心を寄せる
・自分の価値判断基準で「役に立つ」ものや「価値のあるもの」を強制。
 彼らの行為を諌め、書物や玩具を没収し、自分が「価値がある」と認
 めたものだけを与える→多くの教育者が犯す過ち。
 尊敬を欠き、対象との距離を遠ざけるだけ。

  ・相手の世界(どんな低俗なものでも)に関心をもち、どんなものかを
 理解しようとし、場合によっては共に遊ぶ(遊んであげるではなく)。
 それにより、対象は自分が認められている(尊敬を得られている)と
 感じる。
・他者の目で見て他者の耳で聞き、他者の心で感じる。

もしも自分が対象と同じ心と人生をもっていたら?
・「なぜこの子は勉強しないのだろう?」
 →自分の心で考える=「なぜ勉強しないんだ?(理解できない」
 →対象の心で考える=「この人と同じ課題に直面するだろう」
→「自分も、この人と同じようなやり方で対応するかもしれない」
 想像力ではなく、「共感」。
 同調≠共感
 共感=他者に寄り添う技術→「共感は技術!」


臆病は伝染する、勇気も伝染する、尊敬も伝染する

変化=過去の自分の死

死を選ぶ(自己否定)ことは難しい

現状肯定のために、過去をも肯定する
(いろいろあったけと、これで良かったのだ)
↓(できない人は)
現状の自分に満足できていない


人間は「自分」という物語の編纂者であり、過去の自分の歴史は、「現在の自分」の正統性を証明するために、「現在の自分」によって自由に書き換えられていく。
「現在の自分」が過去を決めている。


アドラー心理学=「使用の心理学」


不遇な現在の辛さを緩和するために、不幸な過去を自らが必要としている。

注力すべきは
「悪いあの人」
「かわいそうなわたし」
の2面ではなく
「では、これからどうするか?」

民主的な手続きでたてられたものではない法やルールは、「私たちのルール」として守れない。
誰かの独断で制定されたルール、特に
運用不幸平がある場合には、反発が起きる。

反発をおさえるために、為政者は様々な「力」を行使する必要が生じる。


人間の問題行動には

1.称賛の欲求
褒められたい、いい子を演じる、従順性・やる気をアピールする。
→褒めてもらうこと、共同体内部で特権的位置を得ることが目的となる。
→褒められなければやらない。褒めてくれないと、適切な行動をしない。
罰を与える人がいないならば、不適切な行動もとる。

特別な「いいこと」、をした時ではなく、日頃の些細な言動行動関心に注目し、共感を寄せていく。


2.注意喚起
褒められるようなことをする勇気も根気もない(勉強のような正攻法ではできない)ので、褒められなくてもいいから、目立とうと考える(必ずしも「悪いことをしよう」ではない)。
→目立つことで共同体内部で特権的地位を得たい・居場所を確保したい。

積極的な子=出来ない子、ダメな子として振る舞う。→何故なら無視されるよりはマシだから。


3.権力争い
特権的地位を得るため、誰にも従わず「力」を誇示する。

積極的な子=反抗する、挑発する、癇癪を起こす、暴れる。

消極的な子=不従順

そこで教える側が怒りをぶつけるのは、挑発に乗ることになり、更に嬉々として反抗し返してくる。

察知したら、同じ土俵に立たないこと。
腹をたてることすらしないこと。


4.復讐
権力争いに挑んだが、歯が立たなかった。負けてしまい、特権的地位を得られなかった。相手にもされなくなった。
→一旦引き下がり、復讐を画策し始める。

「自分」を認めてくれなかった人に「愛の復讐」を始める。
1〜3の欲求の充足が不可能になると、一転して「憎悪」を求める。
→「オレを憎め! 目をそらすな」
憎悪で注目を集めようとする。相手が嫌がることを繰り返す。
ex.ストーカー行為、自傷、引きこもり
→自分の肉体や価値を毀損することで「こうなったのはお前たちのせいだ!」と訴える。
→親・教師が心配してしまえば、復讐は成功してしまう。
(この段階まできたら、二者間の解決は不可能。第三者の協力が必要)

5.無能の証明
「これ以上期待しないでくれ!」
人生に絶望する、自己嫌悪、不当に低く自己を評価。
自分がいかに無能かをアピールする。
→無能な自分に課題を与えるな。無能な自分には解決できない。
→最初からできないと思った方がラク
→「無能な自分」がセルフイメージとして定着してしまう。

言葉にしているうちは、ただの自嘲。それすらなくなると、精神疾患に陥る。
何かにトライする、自分で考えることをしようとすると、自分でブレーキをかけてしまう。
叱られることも織り込み済。
叱られることで注目される→特別なことをした。
→全ては共同体への所属感(帰属感)を確保するという目的に根ざしている。


伝えること=コミュニケーションの入口。
最終目標は「合意の形成」。

→最後に選択するコミュニケーション手段が「暴力」
暴力は、低コストかつ安直な手段。人として未熟な手段(声を荒げる、泣く、威圧する等も)。

「怒る」も「叱る」も、「暴力」を使って押さえつける点で同じ。
むしろ「自分は良いことをしている」という意識になる分悪質。

暴力をコミュニケーション手段として利用する→「この人は未熟な人間だ」と思われる。

怒りは、人と人を引き離す。
変えられないものではなく、自分でコントロール可能なもの(変えられるもの)にフォーカスする。

他者の承認ではなく、自分の「貢献感」に幸福を見出す。
幸福の本質は「貢献感」。

「褒める」=能力が高いものが、低いものに下す評価=操作。

なぜ褒めてはいけないのか?

リーダーが独裁する共同体(学校のクラス、中小のワンマン企業、家庭等)では、構成員の行動が、独裁者(立場が上のもの)による賞罰に左右されるようになる。

褒められること、ヘタをこかないことが目的になる。

(独裁者の望む)賞罰を目指した競争原理に支配される。

なにをもって「勝ち」とするかの判断が不明瞭な独裁的共同体の中では、足の引っ張り合いが起こる。
競争のあるところには駆け引きや不正が生まれる。

ライバル≒敵。ライバルと競争してはいけない。
→共に切磋琢磨し、目的の達成を目指すはずが、「この人に勝つ」ことに目的がすり替わってしまう。盟友が敵に変わってしまい、嫉妬や劣等感を感じるようになる。

競争原理(縦の関係)ではなく、協力原理(横の関係)


不完全な存在である我々は、誰しもなんらかの劣等感を抱えている。

人間は弱さ故に共同体をつくり、その中で協力しあって生きている。
→単独で生きていけないほどに弱い存在が人間。
 →他者との強固な繋がりを希求する「共同体感覚」が人間には内在しており、アイデンティティと深く結びついている。

人の最も根源的な欲求は、「所属感」である。
→共同体の中でしか生きられない存在である人間にとって、孤立は死につながるので、孤立したくない。「ここにいてもいい」と実感したい。
社会的な死は、生物的な死につながる。
共同体内で「所属感を得る」こととは「その他大勢」にならないこと。

承認(欲求)には終わりがない。
→「承認」を外側に求めると、永遠に他者に褒められることに依存することになる。
 →自分の意思で、自らを承認する。自分の価値を他者ではなく自分が決める=「自立」
→「普通の人」である自分を認める勇気。「人と違う」ことではなく「わたしである」ことに価値を置くのが「個性」。個性とは相対的なものではなく、絶対的なものである。

あらゆる行動言動には「相手」が存在する。

承認欲求とは「依存」である。

人生のタスク=仕事・交友・愛
全ての悩みは対人関係の悩みであるが、喜びもまた、対人関係から生まれる。
交友することから、他者の目で見、耳で聞き、心で感じることを学ぶ=共同体感覚の定義。

交友とは、友人関係にとどまらない。友人とは呼べない仲であっても「交友」関係を結ぶことはある。

信用=相手を条件付きで信じること(担保が必要)
信頼=他者を信じるにあたり、一切の条件をつけないこと(その人自身を信じる)

他者への信頼は、「その人を信じる自分を信じる」ことにつながる。
→自己信頼あっての他者信頼

【仕事】と【交友】は、それが【信用】か【信頼】かの違い。
仕事とは信用関係であり、交友は信頼関係
→無条件の信頼とは、その人が嘘を語っていたとしても「嘘をついてしまうそのひとごと信じる」こと。
→信頼とは、受動的なものではなく、能動的な働きかけである。
→自分を信じて欲しいならば、まず先に自分が相手を信じる(たとえ相手が信じようとしなくても)。

信じることは強要できない。「相手が自分を信じようと信じまいと、自分は信じ続ける=無条件に信じること


【仕事】

人と他の動物の群れと違う点は「分業」を行うこと。
単純な労働のタスクを個々がそれぞれに行うのではなく、他者とのつながりを前提とした「分業」であり、分業のために社会を築いた。
→仕事とは対人関係の課題である。

分業の根源は、「利己心」

得意なことに専念することで、他の人の得意なことをサポートできる→そのリターンとしての報酬を得ることができ、利益が最大化される。
(狩りの上手い狩人のために、手先の器用なものが優秀な弓をつくる→狩人は、より多くの獲物を捉えられる→弓をつくる人は、より多くの報酬のリターンがある)
→集団で狩りをするよりも、分業の方が合理的。
分業社会では、利己を追求することが利他の増大につながるので、誰一人自分を犠牲にすることがない。

すべての仕事は「共同体内の誰かがやらねばならないこと」であり、我々はそれを分担しているにすぎない→職業に貴賤はない。
人間の価値は、どんな仕事に従事するかではなく、「どのような態度で取り組むか」によって決まる。

すべての仕事は等価(高利貸であっても聖職者であっても)であり、善悪での評価はできない。
善悪で評価しようとしたときに、「正義への介在」がおこる。

何が与えられるかではなく、与えられたものをどう使うかが重要。
自分の決心一つ。


仕事(信用)によって認められるのは、「あなたの機能」であって「あなた自身」ではない。上位互換が現れればそちらが選ばれる。
→「信用」の関係では、所属感は得られない。
→「信頼(交友)」に踏み出す必要がある。

他者をコントロールすることはできない。コントロールできるのは自分だけ(課題の分離)→相手の考えが「わかる」ことは決してない。

わかりあえないからこそ「信じる」しかない。
→全体の一部である自分が、最初の一歩を踏み出す。
→なんでもない日々こそ試練であり、「今、ここ」の日常に大きな決断をもとめられている。それを避けて通る限り、幸せは訪れない。
→与えることで与えられる。与えてもらうことを待たず、先に与えることで与えられる。

フロイトは「タナトス」や「ディストルドー」といった「死の欲動」があると提唱した。
一方、アドラーは逆に「共同体感覚」を提唱した。

【愛について】
・観念的な「神の愛」
・本能的な「動物の愛」
・「人間の愛」
→「愛すること」とは、「なにもないところから意志の力によって築き上げる」こと。

落ちる愛→獲得し、所有し、制服したい
アドラーの言う愛→「めでたしめでたし」のあとの「関係」
 →「愛される技術」ではなく「愛する技術」
(The Art of Loving「愛の技術」)

仕事=仲間たちと成し遂げる課題。利己を追求した結果、利他に繋がる。
交友=ひたすら信じ、ひたすら与える。
愛=ふたりで成し遂げる課題。「わたしたちの幸せ」を築き上げる。
  →成し遂げるミッション=幸福=貢献感

利己的でも利他的でもない「わたしたち」という上位の主語のもとでは「わたし」は消えてなくなる。
→愛とは、「わたし」からの開放である。

赤ちゃんは、己の弱さによって大人たちを支配している。
(「わたし」という世界に君臨する独裁者)
→「弱さ」は対人関係において協力な武器になり得る。
→不幸や傷、不遇、トラウマ等を武器にして、他者をコントロール(支配)しようとする。(甘やかされた子供)

自活できないが故に「世界の中心」で「自己中心的」に生きるしかない。
→しかし世界の中心にい続けることはできない。自分は世界のいちぶであることを了解しなければならない。

自立=自己中心性からの脱却=「わたし」からの開放。

愛によって「わたし」から開放され、「自立」でき、「世界を受け入れる」ことができる。

親子関係では、命に直結した生存戦略として、「親に愛されるためのライフスタイル」を選択する。
他者の注目をあつめ、「世界の中心に立つ」ための行動なので、必ずしも「いい子」ではなくてもよい。

気をつけるべきはひとりっ子の両親の臆病さ。
→「経済的にも労力的にもこれ以上のこどもをそだてることができない」
 →人生に臆病で悲観的。家庭内も不安に満ちていて、こどもに過大な重圧がかかる。
→際限のない愛は、しばしば子供を支配する道具になり得る。

「愛されるためのライフスタイル」からの脱却には、「愛すること」に飛び込むしかない。
→担保のない愛に踏み出せないのは「劣等コンプレックス」であり、劣等感という課題をかいけつしない言い訳に使っている。

「運命の人」はいない。「運命の人」を求めるのは、「すべての候補者を排除するため」=だれかと関係を結ぶ勇気を出さなくて済む。
→我々は以下なるひとも愛することができる。「運命だと信じることを決意する」ことで。

誰かを愛するとは、決意であり、決断であり、約束である。

幸せになりたい≠楽になりたい
「楽」の追求では、束の間の快楽は得られても「幸福」はえられない。
他者を愛する↓→自己中心性から開放される→自立する
 共同体感覚にたどり着ける

「わたしたち」という主語で生きられるようになれば、生きていること自体に貢献感を感じることができる。

「最良の別れ」に至るために、不断の努力を続ける。

サポート頂けましたら、泣いて喜んで、あなたの住まう方角へ、1日3回の礼拝を行います!