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にがうりの人 #67 (果ての鬼畜)

「もしもし、俺だ。津田沼だ」

 普段の津田沼とは思えぬ、低い地を這うような声だった。その疲弊感は受話器ごしでも伝わって来る。
「お前ももう知っているかもしれないが、落ち着いて聞いてくれ」
 胸がざわつく。私は既に泣いていた。それがどんな感情なのかは分からない。それでもとめどなく溢れ出る涙を抑える事は出来なかった。嗚咽を繰り返し、うわ言のように父を呼ぶ私を津田沼はなだめつつ、乾いて掠れた声で事の顛末を話し始めた。

 父は十九時頃、塾生である高木徹弘の自宅を訪問した。私の母は生前、その塾生の家族と懇意にしていたが父が何故そこに現れたのかは分からない。二十時過ぎ、津田沼は父からの電話を受け言葉を失う。

「人を殺めてしまった」

 津田沼は高木の自宅へと急いだ。しかし、彼が到着した頃には既に赤色灯を回したパトカーが何台も押し寄せ、野次馬達が騒いでいた。
 とにかく父に会わなければ。
 そう思った津田沼は制止する警官を振り切り、門扉までたどり着いた。そして両脇を抱えられるようにしてうなだれながら玄関から出てくる父を目撃する。両手には冷たく光る手錠がかけられていた。  

 その後津田沼は警察署で事情を聞かされ、再び絶句した。

 父は不在だった長男である高木徹弘を除く家族三人を刃物で滅多刺しにした。
 理由は分からない。だからこそ父を止められなかった自分が情けないと津田沼は吐露し、そして私を気遣い電話を切った。

✴︎

 もはや私に考えも感情も残ってはいなかった。母が自らの命を絶ち、そして父は殺人を犯した。現実味は全くない。だがそれが事実であり、私は独りになったのだ。
 もはや父が母がどのような理由で自らの行く末を選んだのかはどうでもよかった。とにかく残酷なこの世から逃避したかった。
 だが、本当の地獄はそれからだった。マスコミは有名作家の成れの果てと囃したて、嫌がらせの応酬が続き、布団の中で耳を塞ぐ日々が続いた。

 結局父は高木徹弘の両親から塾の経営に口を出された事が発端で口論となり、かっとなって犯行に及んだと自白した。なぜそんな軽率かつ短絡的すぎる動機で父は殺人を犯したのか。
 なぜ。

 私の頭の中はまるでこぼれた砂をかき集めるようで一向にまとまらない。何に対してなのか杳として知れない後悔の念を抱いていた。腑抜けた私を見兼ねてか津田沼は頻繁に訪れ、励まし面倒を見てくれたが、私は惚けたように日々をやり過ごすしかない。
 限界だったのだ。           

 そんな折、一人の男が私の前に現れた。

続く

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