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第6回 球(5900字)

 おはようございます。2024年8月16日、朝の6時29分です。

 今日は昨夜からの雨が続いていて、外へは出ていない。昨日と一昨日は起き抜け、といっても洗面等を済ませてコーヒーを淹れたりしてから、海沿いの駐車場に行っていた。第4回と第5回で書いた通りだ。
 私はこれまで、意識的には特に意図とか目的とか、そういうものを持たずに、書かれるがままに、だ・である調で書いたり、です・ます調で書いたりしてきた。自分の(顕在的な)意図や計算でそれを選ぶのではなく、自覚的には選んでいない状態で何がどう書かれるか、ということを、です・ますやだ・であるを含めて、観察と記述をしてきた。
 今は、ある程度、こうして書かれているだ・である調を、自覚的に選んで書いている。四時半頃に起きてこうして書かれ始めるまでの間、ずっとではないが、私はだ・である調とです・ます調の違いというのか、それぞれの役割、効果という言い方もいいかもしれない、そういうのが気になっているのを感じていた。
 私の記述に特徴というものがあるとすれば、私はおそらく他の多くの書き手、あるいは文章に限らずに言えば、人、ということになるが、私は他の多くの人に比べて、いわゆる“自分の意見” とか“自分の気持ち” と言われているものと、距離を置いている。先程も使った、そしてわりとよく使っている、“観察” という語で私が言おうとしていることともおそらく関係があるか、あるいはまさしくそれのことだと思う。

【前略】私はだ・である調とです・ます調の違いというのか、それぞれの役割、効果という言い方もいいかもしれない、そういうのが気になっているのを感じていた。

第6回「球」

 文の構造上の主要な部分だけを抜き出す。

【前略】私は(…)そういうのが気になっているのを感じていた。

第6回「球」

 「私は◯◯が気になっていた。」と記述したり、そのように感じたりするのが一般的だと思う。(そう書きながら、何を“一般的” とするのかいちいち自信がない、ということを私は感じているーーというこの記述もまさに、である。)
 たった今書かれた丸括弧内の記述を取り上げる。“彼” とすると考えや記述を進めやすそうな予感があるので、一般的には“私” とするであろうところを、この先は(今までもいくらでもあっただろうが)、“彼” とか“この人” といった表現をする可能性があることを、予め指摘しておく。
 それで、二つ前の段落で私は「何を“一般的” とするのかいちいち自信がない」と言ったわけだが、この人は、「いちいち」と言っている。ということは、この人は、その文を書きながら、“今、自信がない” と、“以前書いた時も自信がなかった” を、同時に見ている。いわゆる肉眼での「見ている」ではないので、本当は鉤括弧なりなんなりの記号を付けてもいいのかもしれないが、こういう“見る” の使い方もそれなりに一般的だと思うので、今は付けなかったーーという文において、私は、「一般的だと思う」ということを、まぁ、直前に「それなりに」を付けて、それほど強気ではないことを示しながらも、そして「と思う」も付け…と“観察” していくと、当初は「ぉ、自信持って“一般的である” とか言ってんじゃん。」と思っていたが、その文の“観察” と“記述” が進むにつれ、「ぁ、やっぱ自信ないのかも……」といった具合に、観察者自身も自信がなくなっていくーーという過程をここまで記述しているうちに、「入れ子構造」の層がどんどん増していく。入れ子構造とは、タイトル未定のシリーズの第13回「風」で述べた、「箱の中に箱があり、その箱の中に箱があり、その箱の中に…」のことだ。

【前略】私は(…)そういうのが気になっているのを感じていた。

第6回「球」

 こういうのも、極めて簡易的ではあるが、入れ子構造といえば入れ子構造なんだろう。別の比喩で、“螺旋階段” というのが今思い付いたが、上がっているのか下がっているのかはわからない。よく、自分の状態なりなんなりを眺め、その思索をすることを“潜る” と表現するが、“潜る” は“下がる” と相性がよさそうだ。しかし“俯瞰する” とか“俯瞰的に眺める” となると、“上がる” だろう。「どっちなんだ?」、「決めんのか?」、「何書くんだ?」と思って数秒、指が止まっていたのだが、私は文章を書いている、入力している真っ最中よりも、文と文の間や、語と語の間で立ち止まった時に、いかにも“私” というものが噴出するのを感じる。(擬音で言うと、ぷはっ、だ。)
 私は「文と文の間や、語と語の間で立ち止まった時に」と入力していた時の、特に、「立ち止まった時に」を入力している最中に、一瞬、指が止まった。エンジンはかかりっぱなしで、アクセルとブレーキが同時に踏まれている、とイメージしてほしい。その時に私は、「方向を見失っている」という言葉が浮かび、その直後、ほぼ同時で、「全ての方向が見えている」とも思った。

 話を戻してみたい。ここまで書いたからこそ戻れる、と考えると、それは「“戻る” ではなく、“進む” では?」とも思える。
 ちなみに今書いた鉤括弧は、一般的な文章作法(ということになっているであろうもの)に従うなら、直前の「それは」も括弧内に含まれねばならないだろう。「それは“戻る” ではなく、“進む” では?」である。
 私は、おそらく、“一般的(ということになっているであろう何か)” と、“それ以外” を、同時に見ている。そして、これもおそらくだが、両者の線引きが出来ていなかったり、それをするのに自信がないーーということは、「線は自分で引くもんだ。」と思っているということになる。つまり私は線が引かれていない状態を眺めていて、「いちいち」自分で線を引く……と書いてみて初めて、「あぁ、だから『いちいち』決めんのめんどくさかったり、自信なかったりするのかぁ。」と思っている。
 しかし、ここまで気付けただけでも、だいぶよかったです。(です・ますになると、雰囲気が変わって、いかにも、「思索が終わった」という感じがします。)一旦、休憩します。

 午後になりここを書き始める前に、今日書いたここまでを読み返してきました。と書いて、「ぁ、だ・である調なんだった。」と思った。では、だ・であるで書く。

 私は、おそらく、“一般的(ということになっているであろう何か)” と、“それ以外” を、同時に見ている。そして、これもおそらくだが、両者の線引きが出来ていなかったり、それをするのに自信がないーーということは、「線は自分で引くもんだ。」と思っているということになる。つまり私は線が引かれていない状態を眺めていて、「いちいち」自分で線を引く……と書いてみて初めて、「あぁ、だから『いちいち』決めんのめんどくさかったり、自信なかったりするのかぁ。」と思っている。

第6回「球」

 この引用部で言われている「線が引かれていない状態」というのを、仮に、円だとする。平面の、円だ。(と書いている時、すでに私は立体としての球をおぼろげながらにも感じていて、「そうではなくーー」というつもりで、「平面の、円だ。」と加えたのだろう、という推測ないし理解が、その「平面のーー」が書かれ始まって一秒後くらいに行われ始めていると感じていた。しかしここまでのこの丸括弧内の記述が長いので、もうその感触はすっかり遠退いている。)

 丸括弧があまりに長いので、仕切り直します。

 この引用部で言われている「線が引かれていない状態」というのを、仮に、円だとする。平面の、円だ。その円に、直径をなぞって線を一本入れよう。すると、二つの半円に分かれる。一つは、「“一般的(ということになっているであろう何か)” 」であり、もう一つは、「“それ以外” 」だ。
 私はこの二つの半円が、二つの半円として分かれる以前の姿としての円を見ているんじゃないか、とさっき書いたと思うので、そこを探して引用してみる。

 私は、おそらく、“一般的(ということになっているであろう何か)” と、“それ以外” を、同時に見ている。(…)つまり私は線が引かれていない状態を眺めていて、【後略】

第6回「球」

 これはこれで、おそらく、間違っていない。「おそらく」とうっかり書いてしまったが、おそらくではなく、間違っていない。しかし今、「おそらくではなく、間違っていない。」と入力するのは、少し大変だった気も、わずかではあるが、するといえばする。後でまた検討されるかもしれないが、「部分的には正しい」と入力すればよかったのだろう。現に今はすんなり入力できた。ということで、引用部で指摘されている内容は、部分的には正しい。
 私はたしかに、「線が引かれていない状態」、すなわち「二つの半円が、二つの半円として分かれる以前の姿としての円」を見ている。だから迷うし、「みんなどーやって割ってるんだ?」が幼い頃から気になっている。
 以前、どこかで書いたエッセイで、学生時代の年度始めの授業なんかでよくあるアンケートで、「あなたの長所は?」「短所は?」という質問があるが、それを書かされている時の気分をnote で書いたことがある。
 手短に言うと、「一人の人間の持つ資質や傾向を、“長所” なり“短所” なりのレッテルを貼って分類するのはおかしい。全部受け入れろ。分類とかマジやめろ。これを教育の名の下に行うとか、マジで狂気。」といったことを、もう少しコミカルな雰囲気で書いていたと思う。
 こういうエピソードも、「二つの半円が、二つの半円として分かれる以前の姿としての円」を子供の時から見ていたことの紹介になるだろう、とそこまで強く思っていたわけではないが、そう書くと収まりがよく、社会的な合意も得やすいだろう、というのは、それなりによくわかっているつもりだ。これもまた、“社会的な合意を得やすいであろう記述” と “それ以外” を同時に眺めているということだろう。

 私はアスタリスク明け少し経ってからここまでを、球の話がしたいと思いながら書いてきたし、今もそのつもりでいる。なかなか出てこないのは私の記述のせいでもあるが、流れを無視して強引にぶち込むようなことをやっても意味がないどころか、逆効果だ。私は私の意図を入れずに書かれた文章にこそ、私にとっての本当の意味での“意図” 、これはすなわち“真意” ということだが、そういうものが現れると思っている。
 もう一度、球に言及された箇所を見てみよう。

 この引用部で言われている「線が引かれていない状態」というのを、仮に、円だとする。平面の、円だ。(と書いている時、すでに私は立体としての球をおぼろげながらにも感じていて、「そうではなくーー」というつもりで、「平面の、円だ。」と加えたのだろう、という推測ないし理解が、その「平面のーー」が書かれ始まって一秒後くらいに行われ始めていると感じていた。しかしここまでのこの丸括弧内の記述が長いので、もうその感触はすっかり遠退いている。)

第6回「球」

 書いている最中には感じていないのだが、こうして改めて読んでみると、すさまじいほどの入れ子構造だ。そう書いてみて、「どこがどう入れ子構造かな?」というつもりでもう一度読んでみると、あんまり入れ子構造という感じがしない。「これ、球なんじゃないか?」という気がした。「では、どのように球であるか」とか、「なぜ球であると言えるか」となると、わからない。球であるということをどうやって言語化したらよいかを考えようにも、それを考えようとすると、むしろその“考える” という行為自体が停止する感じがする。“存在が止まる” とでも言えばいいだろうか。日本語としておかしいのは百も承知だが、とてもじゃないが、既存の文法や語法の範囲内に収まった言葉遣いでは表現できないか、それかそもそも言語を受け付けない。「ーー受け付けない。」とあっさりと断定口調で入力できて、べつによい意味でも悪い意味でもなく、キョトンとした。この感じが、私は球という感じがする。
 実はさっきから、ほぼ一文書く度に、指が止まっている。考え込んでいるというより、さっきの、“存在が止まる” の感覚だ。この段落はまだマシだ。マシだがしかし、それにしても言語化しにくい……と書きながら思ったが、しにくいのは言語化だけでなく、あらゆる活動じゃないか、とも思ったが、しかし呼吸はなんの問題もないし、全身の機能は普段と変わりないと思う。あぁ、なんか、手も足も出ない……と書きながら「球だからか……」とも思う。こんなに説明が出来ないのは初めてじゃないかと思う。

 ここ数日、何度か言及させてもらっている伊藤雄馬氏が、球の話をよくする。詳細はうまく思い出せないが、雄馬さんはワークショップを開いて受講生たちの前で球の説明をしていた気がする。私も参加していたはずだが、「どうやって言語化していたんだ?」という気持ちに今、なっている。

【前略】私はさっきの、海辺の駐車場でのやりとりを書く、あるいは描くのは、今書いているこのような文章や、引用してきた昨日の文章のようなものを書くのとは、なんだか、違うところもあるような気もします。現に、こっち、今書いているような文章は、ほとんど休みなく指が動きます。

第5回「海を眺めて(2)」

 私は今、指、ほとんど休んでいます。いや、休んですらいない。“休む” すら、やっていない。マジで、それが、球……あぁ、くじけてきた。
 引用部の次の段落を引用する。

 一方、描写は、といっても“描写” と“描写以外” の線引きも明確には私は出来ないと思っていますが、描写は、書くのに時間がかかります。途中でアスタリスクを打たずに会話の終わりまで通しましたが、執筆をしている私は実は途中でお昼休憩を挟んでいます。まぁ、ゆっくり書いている、あるいは、ゆっくりにならざるをえない、ということを言いたいわけですね。

第5回「海を眺めて(2)」

 引用された段落の全体に、スピード感がみなぎっているのがわかる。どーやってやったんだろうか。たぶん出来るだろうが、出来る気がしない。矛盾も破綻もどーでもいいし、どーでもよくないとも言えるし、言えないし、私は動きたくないし、動けないし、動けるかもしれないし、動けないかもしれない。ばたん、球。

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