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第6回 産声(実感至上主義宣言・改題)(5100字)

 言葉が言葉としてのテイをなす、まとまりらしいまとまりになるまで入力をやめてはいけない、という衝動とも思い込みとも言える、それに従って私は書かれた言葉の持つ流れ、あるいは言葉が含まれている流れ、それの行き先を確かめるように言葉を書いて、繋いで、「こう思ってないんじゃないか?」という言葉をある意味書き足すことによって言葉らしい言葉、意味をなすまとまり、そういうものを作りながらいかにも文章と言える文章を書いているから、だからそうではない、断編とか詩とか歌、短歌、俳句などなど、そういうものの必然、なぜそれがあるのか、生まれたのか、という、比喩かもしれないが「誕生だか発生だかの現場」を見たような気にもなって、比喩かもしれないと思う私は比喩じゃない可能性も感じている。そして事は詩や歌に限らない。あらゆるものごとの発生の現場、あるいは瞬間。私はいつも同じ話を繰り返すこととその都度作ることとその都度発見することを同時にやると書くことで三つに分け、書かない世界ではそれらを一つとしてすることすらなくその「一つ」すらも起こらない、それを今日もこうして書くと書かないが同時に互いに貼り付いている。
 二つのものが互いに混ざり合って、例えば絵の具を二色、パレットの同じ区画に垂らして混ぜる、しかしちょっとしか混ぜない、すると混ざり方にムラがある、そういう混ざり方でどちらの色とも言えないし言えるし言えそうだし言えなそうだしそもそも無理に言葉にしなくてもよさそうだし、「渾然一体」で片付ければよさそうで、しかし完全に一体化しているわけでもないので、なんて言ったらいいかわからないーーという、そういう混ざり方だってあるのに私はつい、「書く」と「書かない」を並記した時に、絵の具が混じるようなイメージではなく、確固として独立したそれぞれがそれぞれの輪郭をしっかりと持った状態で互いにピタッ、と「貼り付いている」、そういうイメージをしてそれから言語化した、つまり書いたのだが、その「そういうイメージ」が実は言語によって作られたものであって、だとすれば、そうではなくて、〈言語→イメージ〉という順序が本当は正しいんじゃないか? というこれこそがさっき言った、というか結果的に今も言っている、「それぞれがそれぞれの輪郭をしっかりと持ったーー」のことなのだが、私はそれがどうもおかしいーーという主張が、そう書いた瞬間に「主張」という輪郭を持つ、そういう現場をいちいち作ったり発見したり、を繰り返すことと初めて体験することを同時にやっている。

 私はここまで書いてそのまま場所は移動せずに寝っ転がったままタバコを吸って休もうとした、実際に体は休めたのだが、声とも言えない声はずうっと聞こえ続けていて、それを書いてもいいが書かなくてもよくて、私は今「それ」と言って、つまり「それ」は書き写すことが出来るような言い方をしたわけだが、しかし「それ」は書こうとした瞬間に、あるいは同時に、もう、「それ」ではなくなっている。
 私はその連想、ということなのか、なんだか、音楽を考えた。音楽の発生、あるいは、必然。人は音楽を鳴らした。鳴らされたものや、鳴らした人、鳴っている空間。なんだかわからないしどれだかわからないが、そうやって分けられる以前に、鳴っていたものがある。それを鳴らした者がいる。書くことは出来なかった。「書く」とは言語を「書く」こと。それは言語ではなかった。だから書けなかったし、そもそも「書く」という発想もしなかった。だから鳴らした。やがてそれは音楽と呼ばれるようになったーーという文の主語の「それ」に、私は鉤括弧を付けるかどうか、一瞬、迷ったような感じで、止まった。私はその瞬間が、音楽の発生の瞬間、つまりこれから発生するのでまだ発生していない、しかし発生させるだけの源ではある、「ある」のか「ない」のかわからない、それをずうっと確かめたり確かめそこねたりを延々繰り返すことが、もしかしたら、「鳴らす」ということなんじゃないかーーという結論めいたものが見えた時に、私は音楽なのかどうかもわからない「それ」が止むような気がするーーという感触を鳴らすことで、人為的にそれを立ち上げた、鳴らした、とも言えて、やはり「鳴らした」のか「鳴っている」のかわからないし分けられない。

 一旦、いなくならないと、書けない。そういうことにして、今、これを書き始めている。「創造の前に、破壊あり。」という言葉がある。私は、「と誰かが言った」と書きそうな衝動を横目に、「という言葉がある」と、選んで書いた。人をなくした。しかし、「なくした」というのは、感じて、感じてから、消した。なくした。そういうことかもしれない、とこう書きながら思うのが、「創造の前に、破壊あり。」ということなのかもしれない。一方、そうやって、「創造の前に、破壊あり。」の解釈を定める、決める行為が、「それじゃあ、破壊じゃないじゃん。」ということにもなって、どちらにも取れるが、取らなくてもよくで、分かれた後を眺めながら分かれる以前を感じる、以前と以後が混在していて以前も以後もヘッタクレもない、しかし共にある、それを眺めるともなくただ眺める、それは「眺める」ではなく、ある、と呼ぶ。私はその「ある」のことを冒頭、「一旦、いなくならないと、書けない。」と書いたんじゃないかーー書かれた言葉、話された言葉、その言葉に流れているものや、その言葉が流れている、いや、その言葉が乗っているあるいは含まれている流れ、と言った方がよい。私はそういうもの、流れが見たくて感じたくて、「眺める」をやめて静まった時に感じられる「眺める」にとどまる。私はそれを「私」と呼んでも「流れ」と呼んでもいい。

 今は午後四時十六分だ。先程、パートナーが私の家に来て、三日前の記事、「生まれることもなく死ぬこともなく眠る」を読んでいた。私は二人で食べた食事に使った食器などをシンクに下ろし、私も一緒に私は私のスマホで、彼女は彼女のスマホでそれを読んでいた。私はその場面をこうして書いている時の「焦点の合わせ方」とでも言おうか、そういうものがさっきまでの段落とは、なんだか、違う気がしている。それだけだ。戻る。
 「戻る」というのは「あ、話逸れちゃったね、ごめんごめん、戻るね。」という「戻る」なのかもしれないが、私は私で書きながら感じたことをそのまま、と言ってよければ、そのまま、書いたので、それで「話逸れちゃったね」というのは、間違っているとは言わないけれど、同時に、逸れてはいない、と言うことも出来るんじゃないか。私は「流れ」について書きたいが、「流れ」があるから書けているとも言えるわけで、言葉を出すことによっていろんな種類の流れがあるようにも、そう書くことで、ないようにも見せられるし、感じている。その「感じている」の、源泉、とか、源、とか、そうやって特定の名詞をあてがうことによって「うん、わかるよ。」にも、「うーん、わかるような、ちょっと違うような。」という、そのどちらを言う人にも感じられている流れがあるんじゃないか、と書けることが、あるということの証明になっている、という言語化によってズレてくる。私はこの揺らぎを「流れ」と呼んでいるかもしれない。

 夕飯を食べて、片付けた。時刻は、二十一時三十七分です。
 客観的な事実、ということになっていて、私自身も抵抗なく、疑いなくその前提、すなわち「これは、客観的事実ですよ。」「現在、時刻は、◯時◯◯分ですというのは、客観的事実ですよ、よろしいですね?」という問いに気付かず、また、「はい、よろしいです。」と答えている自覚もなくそう書いている時、私はすんなりと「時刻は、二十一時三十七分です。」と、何時何分であっても、そう書くことが出来る。
 私は、「*」の時間を過ごしながら、ある人とメールでやりとりをした。字数は、この執筆よりも、遥かに少ない。短い文でのやりとりだ。私は「短い文」と書きながら、「それは、字数が(この執筆における字数よりも)短い、ということであって、ただ、それだけのことだ。」と思った。私は、字数が短いし、やりとりのためにスマホを見ながら文字を入力している時間も短いが、受け取った文面から感じられる時間や、私が返す言葉に流れている時間は、そんなの短いかどうか、わからない。」ということをこうやって言語にハッキリとは表さず、漠然とそう感じた。「漠然と」だから、今そう書いた通りのことなのかどうかは、実のところは、わからない。わからないが、わからなくてもやりとりは出来るし、たぶん成立しているーーというような「やりとりそれ自体についての考察」とでもいうようなことを一切書いたり、言ったりしないで、私は、そしておそらく私たちは、普段の、いわゆる、普通のやりとり、というものをしている。
 私は、「*」の時間を過ごしながら、と今書きながら、「あれ? さっき書いたぞ?」とも、「あれ? 時間が進んでいない?」とも、思ってなかったんじゃないか、と思う。そういうセリフ、すなわち言葉をあてず、そして「はて?」という言葉もあてず、「…………」を感じた。もしくは、「…………」になった。私は、これも、いや、「も」なのか? という気もしたが、とにかく、こういうのも、私は、「私がいなくなった」とも言え、かつ、その瞬間こそが、「私」を感じている、とも言えるんじゃないかーーということを全てすっとばして「普通のやりとり」をしている時、私たちは実はすっとばしてなんかいなくて、しっかりとそういうものを感じている。しかしそれを感じている自覚がない、すなわち無意識によってそれが行われている場合、私たちはそれを「やっとらんわ。」もしくは、「は?」となり、なかったことにされるが、意識で処理されないことを本当に、ない、ということにする、ということすら知覚せず、「ないというつもりすらない」になってしまうと、つまり「無意識は存在しない」になってしまうと、夜に支えられて昼があり、夢に支えられて現実があり…と考えた時の、意識を支える基盤たる無意識をないとする、すなわち基盤をなくすことになる。
 私はそうは書きつつも、あれはたしか今日の午前中だったか、昨日、前回の記事かもしれないが、私は、二色の絵の具を混ぜる話をしたことがなんとなく浮かんだのが先か、そう書くことで「それが浮かんだんだ」という仕方で、書くことによってそういうことにしたか、順序がわからなくなった、と書くことで、「順序も何も、分かれてないんだってば!」ということをようやく思い出せた気がしている。
 意識と無意識が言葉の上では「はい、みなさーん。〈意識〉と〈無意識〉、これらは、別の単語ですよー。辞書を引く時は、それぞれ、『い』、『む』、で調べてくださいね、だって、別の単語ですよー。」となるかもしれないが、一人の人間が持っていたり、そのへんに流れている意識なり無意識なりを拾ったりする時、それらは別々のものとして流れていたり、あったりするわけではない。それにも関わらず、意識できたものだけを「意識」と呼び、そうでないものは、「そうでない」とすらも思われず、いや、思っている。だから、私たちは、「普通のやりとり」が出来ているのだ、と私は思っている。
 私はこれを、書かれるまでは、無意識でそう思っていた。書かれて、読んで、「あぁ、そうなんや。」といった具合に、意識でそう思った。たぶん、そのうち忘れる。この「忘れる」は、意識されなくなる、だ。つまり、無意識になる。それを私は、「忘れる」と呼んだ。昨日、「忘れる」とか、「人は忘れない」とか書いた。書いたが、ここで結びつけて論じるのは、めんど……いや、気が進まない。それより私は、「めんど」と言いかけ、「ちょ、おま、もうちょい言葉選べよ。」「せ、せやな(汗)。り。」と思うよりも早く、あっさりと「いや、気が進まない」と言い改める、そういう「やりとり」がどのように行われているのか。そういうことに関心を向ける。関心が向いている、ということに関心を向ける。目の前の事実、今、起きている現象、てゆーか、「私」、そういうものに関心を向けたり、向けずに漫然と過ごしていたり、どちらにしてもずうっと流れ続けているもの、それを私たちは「忘れる」とも「忘れない」とも言うことが出来る。

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