第12回 ころころまわる(6300字)
おはようございます。私は朝に書いているので、そう挨拶いたしました。目の前に肉体としての読者がいるわけではありません。肉体としてどうこう、というのではない“読者” に向けての挨拶かもしれません。
私はそう書きながら、「人って、肉体か?」と、そういえばさっき洗面等の朝のルーティンをやっている時によぎったような、よぎっていないような……なんてことを、今思いました。
私たちは、相手の肉体が目の前になくても、そしてズームやビデオ通話等をしていなくても、相手と会話します。私はこの、“相手” というのが気になっているような気がしています。
私が今こうして執筆している部屋にある肉体は、小曽根賢さんの肉体一つだけです。という文を書きながら「ぉ?」もしくは、「ほう。」と思ったことがあります。それは、「“肉体” は、“いる” じゃなくて、“ある” なんや。」であり、「“肉体” は、“一人” じゃなくて、“一つ” なんや。」です。なんだか、ベツモノのようなニオイがします。
「ベツモノ」と書きながら、私は先日の“二者択一” の話も気になります。
私はこの記述を探すのに、四つか五つくらい前の記事をざっとスクロールしました。なかったです。それで「まさかーー」と思い、この第10回、つまりたったの二日前の記事を見てみたら、ありました。
私はもっと、ずっと前のことだと思っていましたが、結構、最近でした。「さすがに昨日ってこたないやろ。」ーーそれで一昨日を見たら当たりだった、というわけです。
時間がなかなか進みませんね。書きながら気付きました。「絶対に進むぞぉ!」とまでは思いませんが、なんとなく、「ぁ、進んでないな。」ということを気にするような、気にしないような、それくらいの塩梅で、やってみようかなーーそんなことを、私は今、思っています。これが、
であるような気がして再び引用してまいりましたが……。「なんか、ちょっと、、、」という感覚も、あるにはあります。私はもしかしたら、これこそが、
なんじゃないかな、という、そういう感触があります。
私は“感触” という語と、“感覚” という語を、少なくとも、意識的には、使い分けていません。私はそう書きながら、なんとなく、先程の“肉体” の話を思い出し、「“感触” の方が、“肉体” に近い感じがするかな……」とまぁ、こういうことを漠然と感じました。かといって、“感触” というのを、全部が全部、肉体だけがやってるわけではないよな……という、それこそ“感触” もあります。
今日はなかなか筆が進みません。今、1350字なのですが、普段はだいたい2000字前後を「一筆書き」か、それに近い書き方で書きます。私は改行して一ます空けてこの段落を始める前に、筆が止まって、いや、“たゆたう” という語が浮かびましたが、まぁ、そういう感覚があり、一度読み直して、今、この段落のこの文を書いています。
“たゆたう” が気になりました。“方向が定まっていない” 、あるいは、“定めていない” 、なのかもしれません。“定めようとしている” の可能性もあるかもしれません。そう列挙する間に、「空間を前提にしているな。」とも思い、「空間がないから、方向もヘッタクレもないのかもしれないな。」、「それで、苦し紛れの“たゆたう” (という表現)かも?」と、こんなようなことを、ここまでハッキリと言語は使わずに、思ったような気がします。
私は“宙ぶらりん” について以前言及しましたが(今思い出しました。)、そーいや、“判断の必然” も、昨日か一昨日、書いたんじゃなかったっけかーーそんなことを、感じています。
私は前もっての段階で、明示的に、これを書くぞ! という思いは、あったり、なかったり、します。昨日はたしか、あった気がします。昨日の冒頭を見てみます。
すごいですね。自画自賛なのか、他人事なのか、なかなか決め難いですが、私は読んで、「すごい。。。」と思ったので、「すごいですね。」と書きましたーーという入力の最中に、気になった箇所があります。
この人、あるいは私は、「すごい。。。」と思ったそうですが、それをどう書いたかというと、「すごいですね。」と書いています。そのまんま、「すごい。。。」とは、書かなかったんですね。私の感触は、「へぇ、ズラすんや。」です。
私はもしかしたら、これはとっても「もしかしたら」なのですが、“ズラす” か、“ズレていく” 、なら、二者択一をあえてやるならば、私は、“ズレていく” なんじゃないかなーーそんなことを、感じます。
“ズレる” ではなく、“ズレていく” という選択肢を、私は出していました。私はその“ズレていく” を書きながら、「“時間の経過と共に、ズレていく” 、なんだろうなぁきっと、、、」ということを感じました。
“ズラす” が選択肢の一つめなら、もう一方は、“ズレる” でしょう。それが、常識というものですーーそういう声も、あると思います。
私は、「“常識” って、もしかしたら、時間が止まっちゃってんのかもな?」と思います。連想ゲームのようなことを言ってしまいますと、「“頭がかたい” ってのは、“常識” =“時間が止まってる” 、で、そんで、“(時間が)止まってる” =“(頭が)かたい” 、なのか? ちゃうかな?」ーー長い鉤括弧内を入力しながら、「さすがに無理に言語化しちゃってるかな……」と、こんな感触がありました。
またしても筆が止まり、あるいは先程の言葉を借りれば、「たゆた」い、冒頭から読み直してきました。感想は、「たゆたいすぎ。」です。
一度休憩を挟みまして、次は、“判断の必然” を思い出しながら、やっていこうかなーーそんなことを今、私は思っています。
*
13時20分です。お昼御飯を食べてまいりました。作って食べて片付けて、他の家事もやり、一休みもしたり…そんなことをしながら、“判断の必然” という言葉が、流れてくることも、流れてはこない、しかし全くそれを考えていないというのもどこか違うーーそんな時間を過ごしてから、この段落の記述が、今、始まっています。
私は第1回から今回に至るまで、ずうっと、流れ、について書いています。“流れ” 、として、二重引用符を付けたこともあったかと思います。正確に覚えていらした読者さんがいらっしゃったら、すごいです。そう書いて思うのは、気にせず読んで全然覚えておられない読者さん、こちらもやっぱり、すごいです。「すごいです」という価値付け、つまり“判断” を外すとどうなるかーー書きながらそんなことも今思いましたが、外したら、まぁ、“読者さん” 、ですね。先程用いた語なので、引用の意味で、「読者さん」、と鉤括弧で書いても、間違いではないと思います。私はそういうのがなかなか決められないところがあり、それでその都度、鉤括弧にしたり、二重引用符にしてみたり、何も付けなかったり…を、“決めています”。
今の二重引用符は、強調です。「大事だよ。」であり、「気合い入れました。」です。
仮に選択肢が二つに分かれたとします。私はそういう時、だいたいの場合、両方書いちゃいます。白か黒かで迷ったら、ほとんどの場合、「白か黒かで迷ってます。」と書くことが多いです。【追記:「ほとんどの場合…書くことが多いです。」は、文法的にアウトです。私は時と場合によっては、文法がアウトです。】
私は、「私は、私が何を考えているか知りたいんじゃないかな?」ということを、しばらく前に書いたような気がしました。今から遡って、探してまいります。
この人の文章は、引用箇所を決めづらいです。始まりの箇所は、「ここからかな。」と強気ではないものの、なんとなくは決められます。ですが、それから、「さてどこまで行こうかな。」をやり始めたら、まぁ切りづらいったらありゃしない。結局(私は使わせてもらいますよ!)、「休憩。」でアスタリスクに入るところまで引っ張ってきてしまいました。
私はここまで書いて、読み直して、【追記】を書いてきました。明らかな誤字脱字を除き、私は推敲しません。昨日、でしたっけ?
どうやらこの人は、“実験” をしています。二重引用符を付けたのは、「おそらく、通常の使い方とは違うだろう……。」という、かなり控えめな推量の気持ちからです。なんだか、それすら、“実験” の一部であるような気にもなってきました。
*
さて、そろそろ決めねばなりませんーーそんな気持ちです。この直前のアスタリスクで休憩しながら、私は、「“判断の必然” について、書いてんのかな……?」と、ほんやりと、気にしていました。“判断” というのは、“分ける” のことだけど……と、そんなことも思いながら、次の言葉を思い出していますーー「元は一つだった」です。
なんか、元が一つなら、どっちを選んでも、どれを選んでも、ダイジョブなんじゃないか……遡ればみんな一緒……なら、どれを取っても、同じなんじゃないか……そんな気分です。
これでもさっきより短く切って持ってきたのだが、私にはまだ長いと感じられる。私は、この第3回の書き手、それはもちろん私なのだが、私は私に対して、「わざとやってんのか?」と「マジでやってんだろうな。」を同時に感じる。そう書いて思うことがあるーー「“わざと” と“マジで” が両立するって、どんなだ?」である。私はそれを、「元は一つである。」のニオイがするにはするものの、その一言だけ言って「はい、おしまい。」には、したくない。私はその間を、“架橋したい” という言葉がまず浮かんで、その直後、“散歩したい” が浮かんだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?