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第4回 海を眺めて(5000字)

 おはようございます。もう、第4回ですか。今朝は四時に起き、かれこれ、現在の時刻は06時21分です。
 先程、五時半頃でした。洗面等を済ませてから、コーヒーを淹れ、タバコを巻き、ふと、海に行きたくなりました。この時間はまだ、昼に比べれば遥かに涼しく(昼は三十五度前後になります。)、それで起床直後は部屋中、全ての窓を全開にしているものですから、もっと外に行きたい、という、言葉だけを見ると「“もっと外” ? んん?」ともなりかねませんが、素直にそういう気持ちになり、それで私は外に行きました。
 先日も紹介いたしました、自宅アパートから歩いてニ・三分のところにある、海沿いの駐車場です。
 自宅を出て、片手に淹れたてのコーヒー、もう片方の手に、巻いたタバコと、スマホも持っていました。写真を撮ろうと思ったのだと思います。それは間違いないでしょうが、なぜ撮ろうと思ったのか、という話になると、「意外と出てこないもんだな……」という感触が、今はあります。
 明確には、考えていなかった可能性もあります。しかし撮る気がないなら、私はいつでもどこでも必ずスマホが手元にないと落ち着かない、という性格ではないと思いますし、そのような生活上の必要もありません。大変気楽に、スマホが、あったりなかったりします。
 でも、持っていったのですね。彼には彼で、何かやりたいことと言いますか、その時その時の衝動というものがあったのでしょう。
 私はその、衝動というものを、人間が所有している、あるいは、人間が作り出していると思い込んでいるようです。だから、「あれぇ、なんでスマホ持ってったんだろう?」、「あれぇ、なんで覚えてないんだろう?」、「変だなぁ。」、などとやっているのだと思います。
 考えてみれば、少しも変ではありません。衝動と人間を、一度、ひっぺがしてみましょう。「所有する・される」、「作り出す・出される」といった関係を、一度、おじゃんにします。
 すると、「衝動が私を海に行かせた。」とか、「ーー連れていってくれた。」という表現が出てきます。すると、「なんで海に行ったの?」と言われても、私の答えは、「衝動に聞いてくれ。」です。そう答えるのがはばかれる場合は、「わ、私にそう聞かれましても……。」となります。

 ここまでを読み返してみて、気付いたことがあります。

 先程、五時半頃でした。洗面等を済ませてから、コーヒーを淹れ、タバコを巻き、ふと、海に行きたくなりました。

第4回「海を眺めて」

 「あぁー、私は、“ふと” の使い方をちゃんと知りたかったんだなぁ。」と思いました。“ふと” は、“不図” ですね。意図せず、ということでしょうか。現代風には、“なんか知らんけど” といったあたりでしょう。

 その“ふと” と関係がありそうな、なさそうな、なんとも具合のいい話があります。私は本稿を書き始めた時、その海沿いの駐車場(の喫煙所)からよく見える、明け方五時半の空、それは赤とも青とも言えない、「見ろ。見てくれ。見るしかない。」と言って小説を放り出したくなるような空で、その空、東の空です。朝のほんのり明るい東の空の下には三浦半島が厚みのある線状に、南北に伸びています。空と三浦半島の境界は、ハッキリとはわかりません。なんとなく、です。手前、三浦半島と、喫煙所に立つ私の間には海があります。波は、穏やかではありますが、ある程度は、しっかりあります。私はサーフィンやりませんが、海沿いの街に住んでいれば、やらなくても、「これはいかにもサーファーたちが好きな波だ。」と、一目見てわかります。
 サーファーたちが黒のウエットスーツを着て海に入り、波を待っています。二十名ほどです。私はその光景や時間を写真に撮りました。すると、私のすぐ近くを、ジーンズにTシャツを着た、だいたい同じような格好をした三人の男性が通りかかりました。視界に入った瞬間に、観光客だとわかります。私もタンクトップに短パンで、似たような格好です。「“観光客だ” って、どうやって判断してるんだろう?」ーー数秒で、そういう疑問は過ぎ去ります。過ぎ去りますが、過ぎ去るのは、言葉です。言葉でない形、本当はそれは形とは言わないのかもしれませんが、そういう“形” で、必ず残ります。「あー、だからオレは、“書きゃ書ける” って、あっさり確信してんのかぁ。」と、今、思いました。
 そういうことを書こうと思って「その“ふと” と関係がありそうな、なさそうな、なんとも具合のいい話」とやらを書き始めたわけではないのですが、書いているうちに、今こうして書かれたものが、書かれました。「“ふと” と関係がありそうな、なさそうな」どころか、まんま、“ふと” やなーーそんなこんなで、一旦、休憩です。

 たった今、雄馬さん、という方から、ラインで連絡が入りました。彼は、私が今年の一月から三月にかけて書いた、『小説風日記』という小説に登場する伊藤雄馬という人物と深い関わりのある人物です。
 私は、その小説で「雄馬がナントカ、雄馬がカントカ…」と書かれているのを読んでいる時に感じる何かと、こうして、「たった今、雄馬さん、という方から、ラインで連絡が入りました。」と書いたり、それを先程の段落でコピーしてこちらにペーストしたりしている時に感じている何かーーそれらが同じなのか、違うのか、よくわかりません。確認のしようがない、ということだけは、理由はわかりませんが、なんだか、自信があります。
 それで、雄馬さんと初めてお会いしたのは、去年、二〇二三年の三月でした。それからのことを回想的に今から書く……という感触もありましたが、それはそれは、もう、『小説風日記』で、初めて会った日に共に過ごした、ものの三時間を、十万字近く、書かせていただきました。
 執筆中のある日、雄馬さんと、これもラインでですが、印象的なやりとりがあります。私がその、私の自宅に雄馬さんを招き入れ、昼食を食べ、その食後の歓談のひとときを、私が書きました。たしか、橋本治さんという、作家の方について、二人で、といっても、ほとんど私が一方的に熱弁していたかもしれません。そんな場面を、その日から約一年が経とうとする頃に、書いていたわけです。一般的には、これも、先程申しました、「回想的に」「書く」、ということに、なる可能性もなくはないのかなぁ、と思います。
 「一般的には」「なくはない」、などと言うくらいです。これはほとんど、「私は違うよーん。」ですね。
 私は、回想をしていると言われれば、その方のそういう解釈をみだりに退けようとは思いませんが、もし、その方が、ご自身のなさっていることが、解釈なんだ、というご自覚を全くお持ちでないご様子でしたら、その時はもしかしたら、それとなく、こんな風に申し上げるかもしれませんーー「あぁー、なるほど。“回想している” という解釈も、ありですねぇ。」です。
 そう書いてみると、書いているそばから本当にそう言って感心し、その方のご発言の出所に思いを馳せているような、そういう気持ちになり、おもしろいなぁ、と思いますーーというこれこそが、「“回想” ってのとは、ちょっと違うんじゃねぇか?」という私なりの解釈に繋がっていくと思います。
 私は小説を書く時、その場面その場面の、イメージを、まず、作ります。“呼び寄せる” なんていう言い方をなさる小説家の方も、もしかしたらいらっしゃるかもしれません。とにかく、ある光景、ある時間の感触や、“感触” という言葉から想起されるものよりももっとおぼつかないかもしれない、そういうものがあります。ハッキリ言ってしまいますが、それさえあれば、後はこっちのもんです。
 「後はこっちのもんです」とたった今申し上げたばかりでこんなことを言うのもアレなのですが、もしかしたら、「後はあっちのもん」だったかもしれません。
 “ものは言いよう” ということわざを念頭に置いた上で、以下の記述をお読みいただきたいと思うのですが、私は、どちらかと言うと、“私が言葉を出す” よりかは、“言葉が出てくる” タイプです。(そもそも二者択一というやり方自体に無理もあるでしょうから、あくまでも、“強いて言えば” であることを忘れないでください。それと、調子とか、波もあります。)“言葉が” が主語に来て、“出てくる” という自動詞が述語、それで、終わりと言えば終わりです。
 しかし本当に完全に終わりかと言うと、そういうわけでもありません。出てきた言葉(数パーセントくらいは、“出している” という感触もなくはないのですが……)を、確かめるというか、いや、なんと言えばいいかわかりました。出てきて、書かれた、その言葉、つまり単語や単語の連なり、文や文の連なりから感じられる何かが、「その言葉」が出てくる以前の「感触や、“感触” という言葉から想起されるものよりももっとおぼつかないかもしれない、そういうもの」とうまいこと重なるかどうか、あるいは、溶け合うかどうか…しかしいずれにしても、このあたりはもう、断言しちゃいますが、絶対に、比喩です。
 いわゆる“筆が乗る” という状態になると、カチッと噛み合っている感覚が強くなります。“感触” ではなく、“感覚” と書きましたね。私はそういうのをいつも眺めては、「ぉ?」などと思ったりしています。それがまさに、先程少し言い淀んでいた、「確かめるというか」のことです。
 私は常に眺めています。言葉と、言葉の出所を、同時に眺めています。あるいは、そもそも別のものだと思っていません。こうやって言葉でアレコレ説明しているから、言葉というものの性質上、「言葉と、言葉の出所」なんていう、二つに分かれているかのような錯覚が生まれます。しかしそれは錯覚です。本当は、一つです。
 その“一つ” を、ぼぉーっと、眺めています。「眺めるぞ!」と気合いを入れてしまうと、気合いという名の別の要素が入ることになりますので、やめてください。死ぬほど怒ります。怒ると書けませんので、やっぱり怒りません。その時その時のイメージなり、状態なり、時間なり、景色なり、どんな言い方も出来そうであり、出来なそうでもありますが、そういうものを、その都度書きます。“鳴らす” という言い方をなさる方もいらっしゃいますし、私も文脈によって、あるいは気分によって、そういう言い方もします。
 読者は書かれた文字の連なりを単語、文、文の連なりとして認識し、辞書的な意味を、おそらく多くの場合、無意識かそれに近い領域で、理解します。そもそも難しい単語ばっか使ってっと、その理解にばっかりソースを割かれるので、私は難しい単語をたくさん使って文章を書いてる人のことを「???」と思っています……などという形で、オブラートに包んだり、オブラートだらけの何かを書いたりもします。「ここは、オブラートやな。」というセリフ、すなわち言葉ですが、そういう言葉に翻訳しなくとも、必ず、「何か」があります。
 とにかくその「何か」に従ってさえいれば、えーっと、えぇと、後が続きません。この現象はそっくりそのまま、《“「何か」に従ってさえいれば” の後ろには何も付かない》ということとして解釈されます。つまり、「何か」に、ずうっと従っていればよい、ということです。
 ところでさっきから「何か」「何か」…と書きまくっているうちに、引用したくなった箇所があります。

 たった今、雄馬さん、という方から、ラインで連絡が入りました。彼は、私が今年の一月から三月にかけて書いた、『小説風日記』という小説に登場する伊藤雄馬という人物と深い関わりのある人物です。
 私は、その小説で「雄馬がナントカ、雄馬がカントカ…」と書かれているのを読んでいる時に感じる何かと、こうして、「たった今、雄馬さん、という方から、ラインで連絡が入りました。」と書いたり、それを先程の段落でコピーしてこちらにペーストしたりしている時に感じている何かーーそれらが同じなのか、違うのか、よくわかりません。確認のしようがない、ということだけは、理由はわかりませんが、なんだか、自信があります。

第4回「海を眺めて」

 雄馬さんのおかげで、楽しい時間が過ごせました。雄馬さん、あなたに言っているわけではありませんよ? 私は、雄馬さんに向かって、言っています。

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