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第1回 私よ私よ私さん♡(6900字)

 2024年8月11日日曜日、午前06時09分に書いている。

 昨日まで十四日連続で書いた原稿が八万字を少し超えたところで一区切りしたように感じて、うっすらと切り替えてこの文章を今、書き始めている。
 昨日までの文章は、まだ通しでは読んでいないが、だ・である調とです・ます調が混在している。私はそういうの、という指示語の具体的な範囲は今はわからないが、そういうのも、どちらかと言うと意図的に残している。その時その時の状態を残すというか、たぶん、知りたいんだと思う。
 自分が何を考えているか、感じているか、というのは、おそらく一般的に思われているであろうほどは、ハッキリとはわからない。ハッキリと、「私はこう思っていますよ。」と自覚できることだけを人間は考えているわけではない、という信念・気持ちがあるのだと思う。
 私は日常会話では、「あるのだと思う」とは言わない。「あんじゃねえの?」とか、「あんだべ。」、「あるってことでしょ。」…といったところだろうか。「といったところだろうか」ではなく、「とかそんなだべ」である。
 「である」なんて、私に限らず、そんなこと言ってる人なんか、見たことない。しかし、当たり前にそう書く。私はそうやってちょっとした言葉の使い方にそれなりに敏感である一方で、「なんで言葉遣いが変わるのか?」とか、「変わるんじゃなくて、変えてるのか?」、「まぁ、両方だろうな。」ということを考えていたり、そこまでではなくとも気になっていたりする。そうやって、「ーー考えていたり、ーー気になっていたりする。」が書かれて初めて、「へぇ、オレ、そう思ってるんや。」が訪れる。なんか、さっきも出てきた気がする。

 遡って、見つけてきた。

 自分が何を考えているか、感じているか、というのは、おそらく一般的に思われているであろうほどは、ハッキリとはわからない。ハッキリと、「私はこう思っていますよ。」と自覚できることだけを人間は考えているわけではない、という信念・気持ちがあるのだと思う。

第1回「私よ私よ私さん♡」

 ここに引用した段落はこの原稿の第一段落ではない。これよりもっと遡れば、まだ他にもそれらしき記述があるかもしれないが、手前から順にスクロールして読むともなく、まぁ、ぼんやりと眺める、くらいの感じで文章あるいは画面を「逆走」したら、これがあったので、持ってきたーーと書いて一旦気持ちが、あるいは文章の流れが切れたような気がして冒頭からここまで(ダッシュの直前まで)を読み返した。「ずいぶんとまぁお気楽な。」と思った。
 対照的だな、と今思った記述が、これだ。引用しよう。

【前略】ハッキリと、「私はこう思っていますよ。」と自覚できることだけを【後略】

第1回「私よ私よ私さん♡」

 ついさっき引用した箇所と同じところだった。こうして改めて読んでみると、「私はこう思っていますよ。」が、私は「(「お気楽」と)対照的だな」という印象があって、それでこうして再び引用したわけだが、今読んだ時には、「対照的」、つまり力んでいるかどうかはわからない、と思った。「私はこう思っていますよ。」と、あっさりした気分で、「お気楽」にそう言っているかもしれないからだ。

 今、昼の12時15分だ。私はアスタリスクまでをたしか小一時間で書き終え、朝食を作って食べ、片付け、洗濯と掃除をし、少し横になって、その前に常備菜を一品作り…と書いてくると、書かれた言葉によってなのか、あるいは書かれた言葉たちが持っていたりそれらが含まれていたりする“流れ” がやってくる。もしくは、思い出される。それで、「少し横になって、」と書いた直後か、書いている最中に、「ぁ、そういえばーー」となり、「その前に常備菜を一品作り…」が書かれることになり、実際にそう書かれた。
 私は私の記述を記述している、というのは誰だってそうだろうが、もし、私の文章に(“記述” は、行為としての記述と、行為の結果、すなわち“書かれたもの=文章” という二つの意味があるな。じゃ、後者であることを明示しよう。はい、“文章” ね。)…と丸括弧内を書いているうちに、なんだかだいぶ前に戻ってきてしまった感じもする。私は、「だから、“前” という言葉には、“過去” というニュアンス〈例:食事の前に手を洗う〉と、“未来” というニュアンス〈例:明日に向かって前に進もう〉の、両方があるのかーーとなんとなく思ったが、三角括弧内の例を書いたりなんだりしているうちに、入力作業や例を出すのに気を取られて、ということなのか、そんなこんなで、やがて興味を失い、今は失われており、こうしてそれが今、書かれているーーと書いて初めて、行為としての“記述” と、文章、すなわち、行為の結果としての“記述” が初めて一致したーーと書いたらまたズレた。
 このような、「一致(たぶん)→  不一致(たぶん)→  一致(たぶん)→  不一致(たぶん)→…」を仮に“蛇行” という比喩で表現するのであれば、そうやって蛇行を繰り返しながら前に進んでいるのかもしれない。そう思いながら、「やっぱり、“前” が怪しい……。」とも思っている。文章に流れる時間を、“前” という空間や時間に例えること自体がどうもなーーである。
 私は文章を時間や空間に置き換えて考えることに違和感があるらしい。ここまでの記述からするとそうなるーーという文の中でたった今使った「記述」には、おそらく時間が含まれていたり、流れていたりする。
 文章の“流れ” 、時間の“流れ”、生活の“流れ”…私はやはり、“流れ” に強い関心を持っている。「やはり」と言うからには、最初から(がいつからのことなのかわからないが、)わかっていた、ということだ。しかし自覚はなかった。書かれて初めて、「ぁ、“やはり” とか言うとるぞ、こいつ。」である。
 「こいつ」呼ばわりする程度には、私は私のことを他人と見なしているところもある。「ところもある」は、「全面的にではない」である。私のことを他人のように見ている私もまた、私である。
 12時40分だ。腹が減り、文章が一段落したとは思わないけれど、腹は減ったので、そろそろ休憩に入るーーという文だって、私自身に、「おぃ、そろそろメシ。」と言っている感じもすごくするし、読者に向かって「じゃ、そーゆーわけですんで。(ニコニコ)」とやっている雰囲気も私は書きながら感じている。
 なかなか対面だと、おそらく肉体をもろに見ていて、その視覚的な情報につられて(百聞は一見にしかず、だ。)、ついつい私たちは、Aさん、Bさん、Cさん、私、あなた、彼、彼女…なんかを、明確に“別の人” として切り分ける。「切り分ける」と書いて気付くのは、すでに分かれていたら、もう、分けられない。ということは、分かれていない段階がまずあって、その後で、私たちは分けているーーそう書きながら、「私たちは分けている」の「私たち」と書いている最中に、「本当に複数か?」とも思っている。「思った」ではなく、「思っている」と書いた。これはおそらく、「ずうっと前から思っている」だろうーー“ずうっと前” って、いつだ?

 書いてると空腹が落ち着いてしまって少し困るが、まぁ、一休みします。夜にも書くと思います。楽しみです。

 お昼を食べてきました。敬語にしてみます。

 だ・である体に比べて、です・ます体ですと、みなさんに向かって、話しかけているように感じます。姿は見えませんが、なんとなく、講演の雰囲気です。私がスーツを着て壇上に上がって……と書けば、そのような絵も浮かびますが、そう書かない限りは、そこまでのものではありません。みなさん、というのは聴衆という意味だと思われますが、そういう断り書きをわざわざ加える程度には、私が呼びかけている「みなさん」というのが、「果たして、“聴衆” なのか?」という気持ちも、あります。
 こうして敬語でお話しさせていただいていますと、とてもスラスラ書けます。言い訳がましいことを申し上げますが、先程、お昼に入る前に書いた箇所は、私は書き終わって誤字を探した際に、「やべ、読みにくい。。。」と、思ってしまいました。しかし、これまでの経験上、初めて読んだ時にそう感じたものが、それ以降、何度読んでも読みにくかった、ということは、たぶん、一度もありません。「たぶん」を付けましたのは、私は、私の記憶力に自信がなく、また、“記憶力” というものがなんなのかよくわかっていないーーという後者は、前者を書きながら浮かび上がってきたことです。
 ものごとを固定します。固定された結果を、記憶として固定するーーこれが、記憶というものであり、それを正確に固定し続ける能力のことを、記憶力と呼ぶのだと思います。と、意外にも書けてしまいました。
 私はもしかしたら、“記憶力” 、あるいは“記憶” という語やその意味を、自覚としては固定していなかったが、でも、なんか固定してたわーーということでしょうか。
 それとも、今、“記憶力” なり、“記憶” なり、という言葉を、作り出したのでしょうか。
 なんだか、どちらとも言えそうな感じがします。

 私は朝、本稿の最初の一つのまとまり(最初のアスタリスクまで)を書きながら、「今回のシリーズは、ずっとだ・である体で行くかな?」と、おぼろけにではありますが、そう思っていました。しかし、書き始め、進むにつれて、このようなです・ます体のようにはスラスラとは行きませんでした。内省的、という言い方をしますが、まぁ、内省的なんです。私にとって、だ・である体は。一歩間違うと、“理屈っぽい” に、簡単に化けてしまいます。実際に、そう感じながら書いていた箇所もあったかと思います。何を書こうか、そして、どう書こうか、そういうことを、ついつい考えてしまい、それで、「スラスラとは行きません」ということになっていたのだと思います。
 一方、今書いているようなです・ます体ですと、先程から申し上げています通り、話しているんですね。すると、話すことに集中できます。出てくる言葉、まぁ、私が出していると解釈しても一向に問題はないのですが、とにかく、話し言葉ですと話すことに集中できます。出てくる言葉のアウトプットに集中できます。
 “集中” と言いますと、ちょっとではありますが、ちょっと、視野が狭まると言いますか、肩に力が入っているとでも申しますか、そのような印象が、私の場合には、あります。(言葉の感性は人それぞれですので、もちろん、そう思わない方もいらっしゃるでしょう。)しかし、こうして話し言葉で執筆をしている時は、私はむしろ、力は抜けています。視野はよくわかりませんが、まぁ、それほど大きな問題は特に感じておりません。私はです・ます体ですと、リラックスして、でも、ほどよく張り詰めた、そのような状態でいることが出来ます。

 この話がどこでどう結ばれるか、結ばれないか、わかりませんが、非常に眠くなってきたため、ここで再び、休憩です。

 二時間ほど眠り、目を覚ましました。夕方の17時26分です。腹が減っていますので、少しだけ。
 読みにくい、と先程申し上げた箇所がやはり気になり、今、また読み返してきました。私が読みにくいと感じた要因であろうと思われる箇所を見つけたので、共有いたします。

 このような、「一致(たぶん)→  不一致(たぶん)→  一致(たぶん)→  不一致(たぶん)→…」を仮に“蛇行” という比喩で表現するのであれば、そうやって蛇行を繰り返しながら前に進んでいるのかもしれない。そう思いながら、「やっぱり、“前” が怪しい……。」とも思っている。文章に流れる時間を、“前” という空間や時間に例えること自体がどうもなーーである。
 私は文章を時間や空間に置き換えて考えることに違和感があるらしい。ここまでの記述からするとそうなるーーという文の中でたった今使った「記述」には、おそらく時間が含まれていたり、流れていたりする。

第1回「私よ私よ私さん♡」

 一つめの段落の最後の文は、こうですーー「文章に流れる時間を、“前” という空間や時間に例えること自体がどうもなーーである。」ーーハッキリとはわかりませんが、もしかしたら、「文章に流れる時間」じゃなくて、「文章の流れ」ではないかな? そうでなかったとしても、まだその方がマシじゃないのかな? と思います。それでもう一度、ここに書いてみます。

 文章の流れを、“前” という空間や時間に例えること自体がどうもなーーである。

 この人は、「文章の流れ」とやらを、一方向のものとして考えることに、違和感を抱いておられるのではないでしょうか。それを元に、もう一度、手を加えてみます。

 文章の流れを、一方向のものとして例えること自体がどうもなーーである。

 「一方向のものとして」の後ろは「考える」にするつもりでした。「一方向のものとして考える」、です。しかし、書き換える途中で、ふと、「例える」を残す気になりました。理由の説明は難しい、と言いますか、わかりません。「そう思ったから。」で済ませてしまいますね。結果、ご覧いただきました表現は、「一方向のものとして例える」、となりました。
 これは非常にしっくり来ます。私は、文章というものに特定の方向がある、という考え方自体を、そもそものところで比喩だと思っている、ということがわかりました。「(一方向のものとして)例える」がとてもしっくりと来ているわけですから。
 一方向だろうがなんだろうが、例えは例えだーー私は、そう思っていますね。もしかしたら、空間を前提にすることが気に入らないのかもしれませんが、まぁ、今は放っておきます。そう書く私は、「放っておくったって、どーせオレ様の無意識という名のスーパー思考からは逃れないけどな。せいぜい束の間の自由を楽しむがいい。わっはっはっはっは。」と、セリフの最初の「放っておくったって、」だけが鉤括弧を開いた時点で思っていたことであり、「どーせオレ様」あたり以降は、もう、創作を楽しんでいました。今ももちろん、楽しんでいます。「あぁ、だから、“方向もヘッタクレもない” 、なのか。」と、納得と感心が混ぜこぜになっている男が、夕飯、おぃ、夕飯、と申しています。誰が誰だかわかりませんが……というのは言い過ぎでして、全て、私です。

 もう、夜の八時半ですので、少しだけにしたいと思います。では、宜しくお願いいたします。

 たった今、夕飯を食べて片付けた後、ふと思い立ち、タバコを外に出て吸ってきました。自宅から歩いて三分のところ、海沿いに灰皿が置いてあるコインパーキングがありまして、そこで吸って戻ってまいりました。空間を変えると何かあるかなーーそんな気持ちがあっての行動だったように、思えます。
 海っぺりは自宅を出た直後よりも風があり、冬なら大変な寒さ・つらさでしょうが、今は八月ですので、それはそれで心地よいものでした。しかし夜の八時半でもこの暑さか……といってももうその時点での体感はべつに堪えるほどの暑さではなく、私は夜のその「体感」から逆算(のようなこと)をして、昼の大変な暑さを感じていました。“残暑” という言葉は、こういうふうには使わないのでしょうが、それが今こうして思い浮かぶほど、昼の暑さが残っていたのです。
 タバコを吸いながら、書いてもおかしくないであろう言葉が、次々と流れては去って行きました。ここに今書かれている言葉たちは、その時に流れ去っていったその通りの言葉たちでは、ありません。ありませんがしかし、流れは流れです。私はその時、流れについても何か考えていたようにも思います。
 たしか、“屁理屈” についてでした。

 「もしもし。今、どこ?」
 「地球。」

 これは、屁理屈だとわかるなぁーーといったことです。私は、どうやって「それは屁理屈である。」と判断してるんだろうかーーそんなことを考えていました。

 「まだ学校? 帰りにどっか寄ってんの?」

 ここで私はハッとしました。もしかしたら、ニヤけていた可能性もあります。「質問者は、答えの範囲を予め限定してるんや! で、その範囲を超えると、“屁理屈” と見なすんや!」

 “範囲” は、質問者が決めているのでしょうか。それとも、決めているわけではなく、どちらかと言うと、決まっているのでしょうか。いわゆる、“無意識が決めている” というやつでしょうか。(「いわゆる」なのかどうかわかりませんが。)
 “範囲” は、時空に関する表現です。比喩かな? とは思いますが、確信、というほどではありません。
 私は、「ハッとしました」と申し上げましたが、その時は、本当に、「わかった!」という気持ちでした。しかしここまで書いてみたら、「わからないことだらけやないかーぃ。」と、ツッコんでしまいました。
 これから、あるいは、これからも、私は私の疑問に、たっぷりと時間をかけて答えていきたいと思います。

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