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第11回 ニーチェとカフカ(4400字)

 私は昨日、ニーチェは肺炎で死んだのか、そうでなったのか、というお話をしました。肺の病というのは、東洋医学においては、“言いたいことが言えない” ということの現れであると、そういうことを私は聞いたことがあります。きっと、そうなのでしょう。そう書くと「違うかもしれないけどな。」も浮かぶには浮かびますが、「きっとそうなのである。」、で行きたいと思います。
 私は今日は、「何を書き、何を書かないか」、ということを話したいと思っています。これは、この執筆の前に、現在は朝の9時19分ですが、朝起きて洗面などを済ませて、コーヒーを淹れタバコを吸い…などと、「執筆の前に」というのを書こうとしたら、それに至るまでにしたことをアレコレ、なかば自動的に、書いてしまいました。これこそが、「何を書き、何を書かないか」について私が話したいと思った、そして私にそれを書きたいと思わせてくれている、そのような……。比喩が浮かびます。“動力源” が浮かびました。流れに乗っている、とも言えそうです。“動力源” でも“流れ” でもある、それに流されて、あるいは動かされて書いていると、「何を書き、何を書かないか」という、私の言いたいこと、が出てきました。
 私はさっき、肺の病について……と書いたところで今、ふと、思ったことがあります。それは、「もしかして、暗い話だと思うヤツいるんじゃねえか?」です。口が悪くてすみません。セリフとしては思っていません、という言い訳かもしれないことを、添えておきます。
 私は、話したいことを話しているつもりです。暗いとか、明るいとか、その判断の前に、話したいことを話している、「つもり」、と先程申しましたね。その、「つもり」、という表現を見て、私は、「おっ?」と思いました。「意識としてはその『つもり』だけど、無意識はさてどーだか。」ということでしょう。私はそのように、私の申しました、「つもり」、を解釈、先程の言葉で言うと、判断、をいたしました。
 私は、「私の言いたいこと」が、言いたいと明確に、つまり意識で思っていることなのか、無意識で思っていることなのか、よくわかりません。ですから、自分では、言いたいことを言っているようでも、無意識、擬人化いたしますね、無意識ちゃんは、「えーん、えーん、言いたいこと、言えてないよーん、言いたいこと、言いたいよーん、えーん、えーん。(ごほごほ)」と、おっしゃっているかもしれません。
 私には、少々、と言っていいと思うのですが、少々、喘息があります。くれぐれも、暗い、明るい、の判断以前の領域に、いらしてくださいね。
 肺の病は……「病」は重いか、じゃあ症状、がいいかな……などと、実は、かく言う私も、知らず知らずのうちに、「暗い、明るい、の判断」を、たった今、してしまいました。この、「してしまいました」も、その結果です。「その結果です」も、暗い明るいではないものの、「これが原因で、ほんでこっちが結果ね。」という、やはり、判断の結果です。おっと、キリがありませんーーそうやって、キリがないから、やはりどっかで、判断は必要なのだと思います。そう書きながら、“必然” という語が浮かぶくらい、そのぐらいに、判断は必要、ということでしょう。
 しかし、明るい暗いや、原因結果、そのような判断ももちろん判断ですが、しかしーー私が今書いた、「ですが」、それに続く、「しかし」、これらもまた、判断の結果です。「ここまでとは違う流れやな。」「逆の話に行くんやな。」ーーそのような判断が、「ですが」や「しかし」といった言葉たちに結実したのではないかと、私は思うのです。もう一つ加えますと、「ではないかと、私は思うのです」、という表現を書きながら私は、その文字通りの意味よりも、強くそう思ってるのではないか、という感触が、まぁ、流してしまってもいいかもしれないくらいにかすかに、ありました。しかし私はそれを流して、そのような、控えめな表現を採用したわけです。これは、“控えめな表現で我を抑えることで、読者の共感ないし能動性を引き出す” ということを、一瞬のうちに、判断したその結果として採用された表現なのではないか、と思うのであります。
 考え出すとキリがありません。先程も「キリがない」というフレーズを使った記憶がありますが、であるからこそ、「何を書いて、何をを書かないか」、そういうことを、考えいく必要があり、かつ、考えずに委ねる、ということもまた、考えていく必要があるのではないかーーそのように思う次第です。
 では、ここで一休みです。

 私は先日、ある回の冒頭で、「さぁ、書き出してみましょう。」とまぁ、このセリフそのままではないですが、そういうことを言いました。それで、“掻き出す” が連想されました、ということを、申し上げました。今、こうして休憩を終え、書き始める直前にそれが思い出され、それをこうして書いている次第です。
 「書いている」と申していますが、私は、しゃべっているようなつもりでも、あります。そう書いて、また、書いていない時間に思っていたことを思い出しましたが、私はさっきベランダから布団を戻しながらだっか、そんな場面が今よぎったのでおそらくそういう時に、「書き言葉とはこういうものだ」、「文章とは、これこれこのようにあらねばらない」、「思ったことを全部書いてはダメである」、などなど、そのような思い込み、信念という言い方でもいいと思いますし、もし失礼でなければ、固定観念、という言い方でもよろしいでしょうか。そういったものを、強く、あるいは固く、お持ちの方は、とてもじゃないけど、私の一連の記述は、読みにくいか、もしかしたら全然読めないだろうなぁーー絶対にこんなに長々じゃありませんが、だいたいのところで、そのようなことを、布団を取り込みながら、思っていた、感じていたように、思います。
 多くの文章は、整理されています。一方、多くの会話、もしかしたら全てか、それに近く、会話は、あっちこっちに飛びますし、重複や、主語述語の不一致なんかも、当たり前です。「具体例を出した方がいいかな?」と思いそれを入力しながら、「“私から” を入れた方がいいかな?」と思いました。つまり、「具体例を私から出した方がいいかな?」です。
 会話ですと、「具体例出した方がぃ、ぁ私から、いいかな?」といったところでしょうか。しかし、やってみて思いましたが、実際の対面の会話としては、あまりに想定しずらいセリフでして、書きながらちょっと難しかったです。
 “書く” を行う際、そのような時に行われるのが、推敲です。全て書き終えた後の推敲ではなく、書きながらちょこちょこと、「ぁ、やっぱやめよ。(消し消し)」とやる方の推敲のことを、申し上げています。おそらく多くの人がそれをやり、そうやって書かれて消して、書かれて消して、を繰り返された結果としての文章が、多くの人に日常的に読まれ、そして現在(非常に幅の広い、どれくらい広いかわからない広い「現在」です。)、「文章と言えばこういうもの」、「“書く” とはこれこれこのようにやるものである」、「こうこうこういうことは書いてはダメである」…といった固定観念・信念になっているのではないかーーということを私は考えているのだな、ということが、ここまで書いてみて、私は初めてわかりました。
 これを前回だか前々回だったかもっと前だったかの内容に引き付けて、または今思い出したり、いや、作り出したのかもしれないことを申しますと、「意識としては思ってなかったけど、無意識としてはそう思ってたんやなぁ、オレ。」ということにも、なります。
 つまり、ちゃんとつまるかわかりませんが、私にとって、“書く” 、いや、今までも今後も全部が全部そうかはわかりませんが(と書きながら私は昨日「私は、その都度、という傾向がある」とも言ったなぁ、と思い出しています。)、私にとって、“書く” 、というのは、そのまんま書く、ということに限りなく近い、あるいは、そこに近づく営みのことを、私は“書く” だと思ってるんじゃないかーーそんなことを書いているうちに、私はまたしても、無意識、あぁ、また擬人化いたしますね、無意識ちゃんに、「君はこう思ってるんだよ。」と、教えてもらっているような、そんな心地にも、なってくるのです。あぁ、私は、だから、“書く” のことを、どっかで会話的な、おしゃべり的なニュアンスで感じてんのかーーそんな具合に、私の今のダッシュ前の発言は、独り言かもしれませんし、無意識ちゃんとの会話かもしれませんし、読者に向けて申し上げているのかもしれないし、なかなか、判断がつかないのです。そうやって、「判断」という語が出てくると、「ぉ?」となります。「さっき、判断がナントカって言ってたなぁ。」です。
 私はこうして書きながら出てくる言葉たちにさまざま教わりながら、それを書くとも話すとも感じていることがわかりました。それでこのアスタリスク明けの冒頭で、「搔く」、これは、「引っ掻く」ですね、その話をしたのだな、ということを今、思い出しています。

 カフカという人物が居たそうです。『城』という長編小説や、『変身』という短編小説が、わりと知られているそうです。
 私はカフカの小説は、短編だかなんだかよくわからないものを、ちょこっと読んだことがあります。「短編だかなんだか」の後で、「よくわからない」と申しました。カフカは、よくわからないんです。それは、よくわかります。
 ある人が、日本人です、ある日本人の方が、その人のエッセイ集の前書きで、こんなことを言っていました。(書いていたんですが、「言っていました」でも、全然おかしくねーな、と思いました。)そのままではありませんが、「たぶんこんな感じ。」というのを、私が今、作ります。

 カフカは“書く” を、英語ではないが、彼の母語で“write” に当たる語を使わずに、“scratch” と言った。スクラッチは、“引っ掻く” だ。
 カフカは書かなかった。私は“書く” という言葉からは、どうも、お行儀がよいとか、しつけがなされたとか、そういう雰囲気を感じる。そういうことは書くもんじゃない。こういう書き方はいけない。こう書きなさい。ああ書きなさいーーそういう抑圧の結果としての文章しか世の中にはほとんどないから、だから私はカフカは書いたんじゃなくて引っ掻いた。
 カフカはペンで原稿を鳴らした。違う。それは結果しか見ていない。カフカは言葉の奔流だった。それは言葉であることも言葉でないこともあった。カフカは全部書いた。しかし奔流だから全部は書けない。だからひたすら掻いて鳴らした。

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