TSUCHIGUMO~夜明けのないまち~ 08
08
敵が宿屋のドアを開ける必要はなかった。
その黒く汚れきった古壁を幽霊のようにぬっとすり抜け、男の顔面が染み出るように現れた。
やはりあのフロントマンの顔だった!
SUV車のタイヤ大の顔が、空中を浮遊して、こちらにゆっくり向かって来る。
口元に不気味な笑みを浮かべているが、目は一切笑っておらず、むしろ怒りさえ感じさせる。
勇助の鼓動はマラソンのラストスパート状態に振り切っている。
命の危険。
ただの怖い演出とは異なる。
あれに襲われたら、何があるかわからない。
場合によっては、攻撃されたが最後、速攻で殺されてしまうかもしれない。
勇助はショットガンを強く握り、引き金を引いた。
チュートリアルの時、キリコが言っていた。
……この世界での死は、同時に、現実世界での死を意味すると。
放った弾丸が敵に命中する。
眉間と、鼻の辺りに当たった。
ところが他の敵と違い、飛散したのは赤いしぶきではなく、黄色い閃光。
「え……何で!?」
視界の隅に、敵の名前が出現している。『フロントマン鈴木』。それ以外の情報は無い。
勇助は後退しながら、全自動リロード完了を待ち、改めて弾丸を放った。
銃声がまちに響く。
顔面はそれを避けようともせず、どんどん突き進む。
弾は当たっているようだが、相変わらず黄色い閃光が弾け、パキン! と音がするだけだ。
それはプレーヤーがプレーヤーに対して攻撃した時と、同じ反応だ。
「まさかあいつ、攻撃が効かないのか!?」
勇助は銃を持ったまま逃走した。
何度も振り返り、顔面の様子を窺いつつ走る。
敵の移動スピードはそれほど速くないようだ。顔は遠ざかり、段々と小さくなっていく。
黄昏《たそがれ》時の昭和のまち並みを走りながら、もしやと思い、メニュー画面で『敵情報』のアイコンを選択する。
知らず眼球が泳ぐように動き、アイコン選択時には「YES」と口で答えたうえに、うんうんと馬鹿みたいに頷いていた。
ほぼ全て不要な動作だ。
『フロントマン鈴木』の項目が出現していたので選択すると、全情報の入手には五十万円必要となるらしい。
敵の弱点や、攻撃パターンの情報だけでも三十万必要、と記載がある。
勇助の所持金は全部で五万円。
とても払えないので舌打ちをすると、いきなり足が止まり、がくんと膝が落ちた。
「しまった!」
気がつけば、視界の左上部に映っている勇助のHPゲージの下、『ダッシュゲージ』がゼロになっていた。
この世界の行動には、様々なルールが設定されている。
ゲームとはいえ、際限なく走って逃げ続けることができないようになっており、このダッシュゲージがゼロになると、こうして一時的に走ることができなくなる。
歩くことは可能だが、普通に歩くより遅い。
よろよろと中腰で、老人のように進むことしかできなくなるのだ。
ダッシュゲージは走り出すと同時にどんどん減少し、走ることをやめると、徐々に回復していく。
現在、勇助は一度ゼロにしてしまったので、ゲージが満タンに回復するまで待たなければ中腰移動から解放されない。
待ち時間はせいぜい十秒程度なのだが、危機的な状況下でそんなことになっては致命的だ。
だから敵から逃げる際の原則は、ゲージがゼロになる前に走るのを中断し、『走っては歩く』を繰り返すことだ。
勇助はよろよろと歩きながらダッシュゲージが全回復するのを待ち、『スナック・命がけ』というピンク色の電球で飾られた店の陰に身を隠した。
メニュー画面を操作しながら走っていたので、もしもこうして立ち止まっていなかったら、この店の立て看板に激突していたかもしれない。
「……ん?」
ふとレーダーを確認してみると、赤い点が薄緑色の円上から消えていた。
いつの間にか鼓動も鳴り止んでいる。
知らぬ間に引き離していたようだ。もしかしたら、ある程度逃げ切れば消滅する設定の敵なのかもしれない。
勇助はそう予想し、こそこそと建物から大きな路地に身を出した。
昭和の歓楽街という様子のまち並み。
まちの名前は『ハのまち』。
昨夜、メニューの読み上げ機能を利用してみたら、その文字は漢数字の『八』ではなく、カタカナの『ハ』だということが判明した。
勇助が所有している地図データでは『ハのまち』と『はじまりの広場』以外に開放されていないため、このまちが世界全体のどの方角に位置するのかさえよくわかっていない。
この辺りは『スナック・命がけ』の他にも、路地に面して様々なスナックやバー、怪しげな背の低いビルが並んでいる。
明るい看板やネオンはあまり使用されておらず、所々で裸電球が紐で吊るされていたり、赤や白の提灯が店先に下がっていたりする。
あまり照明を使うと恐怖心が薄れるので、ゲームの演出上そのように舞台設定したのではないだろうか。
勇助はそう踏んでいる。
ちなみに歓楽街と言っておきながら、人通りはまったくない。
視覚的には黄昏時とはいえ実際の時刻は午前十時。どこの店も開いていないから、飲み屋をハシゴし続ける飲んだくれのNPCも、まだ現れない。
他のプレーヤーの姿もない。
再び、鼓動が鳴った。
とくとくと音を立てる。
勇助はすかさずショットガンを構え、周囲を見回す。路地の陰やビルの屋上、どこから敵が現れるかわからない。
鼓動が、どくんと大きくなる。
『危険レベル2』だ。
鼓動が教えてくれる危険度は四段階ある。
とくとくと弱く打つ時は『レベル1』。
今のようにどくどくと音が大きくなると『レベル2』。
音がさらに大きくなり、マラソンを走っている時のようにどくどくどくどくと速く打つようになると『レベル3』で、こうなると大体の場合、敵の姿は視認できる範囲か、レーダーの円上に出現する。
マラソンのラストスパートをかけた時のような、はち切れんばかりの早鐘状態の鼓動は『レベル4』で、最も危険度が高い。敵が臨戦態勢に入っていたり、プレーヤーに攻撃の狙いを定めている状態だ。
勇助の鼓動がさらに大きく、速くなった。
『危険レベル3』だ。
だが……レーダーには反応が無い。
くそ、今度は何が来るんだ?
集中して周囲を警戒する。
いつでも銃を撃てるように準備しているが、どこから来るのかわからないのでは──
その時だった。
「お客さん……困りますよぉ」
突然、低い声が聞こえた。
振り向くと、『スナック・命がけ』の壁から、ぬっと染み出るように『フロントマン鈴木』の顔が現れたのだった。
相変わらずの不気味な営業スマイルを浮かべて近づいて来る。
こいつ、レーダーに反応しなくなったのか!?
勇助は声を上げた。
理不尽を嘆くように、効かないとわかっている銃弾を放ち、再び走り出した。
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