今日は 𝓛𝓞𝓿𝓮に぀いお お話ししたす 

今日は𝓛𝓞𝓿𝓮に぀いおお話ししたす。ずいうのは半分冗談で半分本気なのですが、特にロマンチックラブむデオロギヌに぀いお話したいず思いたす。フランスの歎史家が「愛ずは12䞖玀の発明である」ずいう有名な蚀葉を残しおいたす。キリスト教䞖界では人間の愛ずいうのぱロスず蚀われお、利己的な物で、単なる性欲ず区別されおいなかった。しかし、䞖蚘に登堎した吟遊詩人ずいうのが、宮廷にお女王に仕える男性の階士の極めお玳士的な奉仕ずいう女性の尊敬を䌎った恋愛の描写をした、ずいうこずをひいおきおそういうこずを蚀うんですね。そこが単玔な性欲から遊離した愛ずいうものが登堎した時だず。これ自䜓は䞀぀の解釈ずしおは面癜いのですが、重芁なのは、恋愛ずいう抂念は人類にずっお所䞎のものではなかったずいうこずです。

さお、私たちは恋愛ず聞いお䜕を想像するでしょうか。運呜的な出䌚い、ぎこちない初デヌト、倜景が綺麗な堎所、突然の告癜、芋぀め合う二人は 。このぞんにしおおきたしょうか。あるいはこのようなありふれたむメヌゞを陳腐なクリシェだずしお、自らが恋をしおいる人、もしくは恋人同士ずしおの関係性の独自性を匷調する人たちもいたす。ずころで、こうした蚀説が暗黙理に前提ずしおいるのは、恋愛が自由意志による積極的な行為であるずいう点です。恋愛ずは個人の最もプラむベヌトな領域であっお、瀟䌚からの䞀時的解攟・逃避、あるいは逞脱の堎ずみなされたす。これは裏を返せば、やっおもやらなくおもいい、やるにしおもそれぞれが奜き勝手にやればいい、ずいう前提がみえたす。

しかし私たちは、恋愛をめぐる芏範性に日々遭遇しおいたす。自由意志の行為である恋愛の経隓がなければ半人前ずしおしかみなされないであるずか、恋愛は䞀人の異性に察しおするものであっお、その先には結婚ず子䟛を生育するこずを芋据えた家庭の構築が眮かれおいるなど、枚挙にいずたがありたせん。なぜ恋愛は自由であるはずなのに、こうした芏範がたくさんあるのか。そもそも本圓に恋愛ずは自由なのか。こうした疑問に䞀぀の答えを䞎えるのがロマンチックラブむデオロギヌずいう考え方です。この考え方では、これから説明するある皮の圢態の人間関係を指す「恋愛」ずいうものをその名の通りある皮のむデオロギヌであるずみなしたす。むデオロギヌであるずするならば、それは本質的なものではなく、人間が人工的に構築した䞀぀の抂念䜓系であるず盞察化するこずができたす。぀たり、珟代の恋愛ずいうのは、人間の自然な関係の成り行きでも、あるいは生物的本胜でもなくお、ある機胜を果たすために䜜られた瀟䌚的構築物であるず䞻匵するこずも可胜になるのです。

ではいったいその機胜ずは䜕か。その䞀぀は、近代の資本䞻矩的生産様匏ぞの貢献です。近代ずいうのは、土地ず人を瞛り぀け、領䞻が幎貢を城収する封建制から自由垂堎による資本䞻矩ぞの転換からスタヌトしたす。この転換によっおもたらされる最も倧きな倉化の䞀぀は、工業を䞭心ずした新たな郜垂の圢成です。資本䞻矩ずいうのは、資本家が劎働者から䜙剰利益を搟取し、さらに資本を肥倧化させ、その資本で投資を行い効率化しお、それによっおさらに利益を向䞊させ ずいう動きの無限ルヌプです。資本䞻矩ぞの転換によりたず起こるのは、資本の集玄です。そしお、資本が集玄すれば、劎働者も集玄したす。倧きな工堎ができお、その呚りにたくさんの人々が䜏むようになる ずいう郜垂の発展モデルずしお説明すればよくわかるでしょう。

こうなれば、資本家たちは可胜な限り最小の投資で劎働者をこき䜿おうず思いたす。い぀でも劎働者が最倧の生産性を維持しおいおほしいず願いたす。でも劎働者は生身の人間ですから、䌑暇も必芁ですし、そもそも仕事のために䜓調を維持するには、健康的な食事や、枅朔な䜏環境が必芁です。これを資本家偎が賄おうずすればどれもコストがかかるものばかりです。ここで䟿利な装眮ずしお登堎するのが劎働者の「家庭」です。䜏居の枅朔さを維持し、健康的な食事を䟛し、劎働からの぀かの間の解攟の堎ずしお勝手に機胜するもの 。劎働者の家庭は、倫ず劻、そしおしばしば䞀人か二人の子䟛からなり、劎働者の生産性維持のための健康管理ず、劎働者・消費者の物理的再生産の堎ずしおの圹割を負わせられるこずになりたした。

しかし、ここで栞ずしお家庭を構成する男女は、封建制の時代ず比べおその関係を構築し維持する動機が垌薄になっおいたす。封建制の瀟䌚であれば、そもそも人の移動がほずんどないので、それぞれのロヌカルな単䜍の地域にある共同䜓は比范的しっかりしおいたす。よくむメヌゞされる田舎の村のようなものです。そこで蟲民たちは、そもそも絶察数がわずかな䞭から幎頃の男ず女がいればずりあえず぀がわせる、みたいなノリで家庭を再生産しおいたした。キリスト教が浞透しおいた西掋䞖界では䞀倫䞀劻制が厳栌であったため、男女のふたりずいう単䜍にこだわりがありたしたが、䟋えば日本の蟲村では、生殖胜力のある若い女性をあたかも村の共同財産のように扱っおいたずいう事䟋も事欠きたせん。ここには近代的な自由意志による「恋愛」はないのです。もちろん、特定の他者に匷い思いを抱く者はいたでしょうが、それは瀟䌚的に無䟡倀な「執着」にすぎなかったのです。しかし、地理的な拘束が解かれ人々の動きが流動的になり、産業による郜垂が圢成されればそのようなこずは難しくなりたす。ひず組の男女を出合せ、生殖させる代わりの力が必芁になりたす。それこそがロマンチックラブむデオロギヌなのです。

ロマンチックラブむデオロギヌでは、恋愛の偶然性が匷調されたす。ふたりは、「偶然」出䌚わなければいけないのです。しかしこれは「であるべき」ずいう単なる理念の呜題ずいうよりも、実際に郜垂の恋愛は偶然性に支えられおいたのです。「恋愛」以前の時代は地理的拘束力により、党おが必然であったずいう察比がこれを際立たせたす。郜垂にはサロン、カフェ、バヌなど人々が亀錯する盛り堎が倚く䌎いたす。これらのような堎で偶然に出䌚い亀際に至った男女は数倚くいたでしょう。だったらそれでいいじゃないか、正確な事実の摘瀺じゃないか、ずはいかないのです。前述の通り、これが突き進めば恋愛は芏範化されるのです。い぀のたにか、「偶然的な出䌚いが“真の”恋愛の始たりだ」ずいうロマン的察象ずなりたす(ロマンチックラブ)。ここで工業郜垂ずいう特殊な環境で生じたある皮の亀際関係が本質化されるのです。それは、人々の自由意志がそこにあるように挔出した資本家たちずの協力によっおです。ここである決定的な矛盟が生じたす。すなわち、人々の偶然性に支えられた自由意志ずしおの恋愛を、芏範的に操ろうずする力孊の存圚です。これこそが資本䞻矩的生産様匏なのです。ここたでの議論で明らかになったこずは、人間の最もプラむベヌトで自由な堎ずされおいた恋愛が、資本䞻矩ずいう経枈システムずの秘密裏の協業によっお成し遂げられた瀟䌚的構築物であるずいうこずです。この結果、男女間の亀際関係に法的・瀟䌚的保蚌を䞎える結婚ずいうシステムに、ロマンチックな恋愛ずいう前提が付加され、圌ら圌女らは自らの「自由意志」の結果遞んだ盞手ず数十幎間に枡り家庭を維持し、劎働者の品質管理ず再生産を呜じられるのです。

さお、翻っお珟代を生きる私たちにずっお恋愛ずはなんでしょうか。流行り歌は盞倉わらず愛だの恋だのに぀いお歌っおいるし、みなスマホを取り出せばマッチングアプリからの通知を芋るでしょう。近頃では、地方自治䜓などによっお䞻催されるいわゆる「官補婚掻」なども話題になっおいたす。公暩力やテクノロゞヌによっおたすたす恋愛はその现郚に至るたで制床化され぀぀ありたす。しかし、倚くの人々はこの珟実を知っおいたずしおも、恋愛に倢想するこずをやめないのです。これがロマンチックラブむデオロギヌずいう装眮によっお人々が幻惑された結果に過ぎないのか、あるいは神秘のベヌルを剥がした埌に、「ほんずうの恋愛」があるのか、私たちがそれに察する絶察の答えに到達するこずは、あたり望めそうにもありたせん。

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