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見て分かるとおり最近は何も文章とか書いていないのだけれども、どこからかフォローしてきてくださる方も多くて大変有難いです…。某所に載せていた自分用の日記を整理がてらうpします。昨年末の分。


2023/12/28

つくづく人に、環境に恵まれていると感じる。その恩恵を十分に受けていながら私からは何も返す気がない。あまり人への迷惑とか直接見えない所での陰口は気にしないタイプだ。私が居なくなって困る人がいるかいないかもそもそもどうでもいい気がするが、死んだ後に泣かれたとて何の感慨も湧かないのでは無いかというのが最近の思うところだ。昔は、私の関わった人間全員に私の事を覚えていて欲しかったよ。それだけが願いだった。

2023/12/29

眠剤を飲んだらやはり一日中惰眠を貪ってしまった。毎日毎日薬に体を侵されて自由の効かないままに無駄を重ねているだけだ。こういう積み重ねが私を更に空洞にしていく。叩くと軽い音が鳴る。

人と密に関わりたい気持ちと、出来る限り関わりを絶ちたい気持ちが常に隣り合っている。会話は好きだが対話はしたくない。言葉のラリーさえ出来ていれば中身が伴っていなくても満足できるのでは無いかと思う。何より、自分のことを知られたくないから、自分の価値を計られたくないから詮索を避けている。曖昧な返事をする。唐突にその場を切り上げる(というか逃げる)。これを続けていた相手には「不誠実だ」「お前のような人間が人を頼ろうとするなよ」と言われたが、軽く頷くと同時に何が悪いのか分からないと言いたい意地も芽生えてくる。私の関わる人間には、私に全てを教えて欲しいです。名前も顔も住所も、家族構成も学歴も 部屋も案内してほしい 通勤時のルーチンもいつも行くスーパーも教えて。全部知りたい、それから私が、話し始めていいですか。これじゃ、誰とも仲良くなれないわけだ……。

誰かが私に思っている以上に私は人に興味があって、どんな人間なのか、どんな関係性を保っているのか、知りたがっている。インターネット、特にSNSで繋がることが出来た相手には容赦が出来ない。ツイート全部遡っています。貴方のフォロワーも全員チェックしています。鍵垢で覗けはしない誰かについても、検索をかけてツイートの内容の予想します(よね?)そんな事ばかりしてるけどそもそもあなた自身とも特に親しくなかったりするのかな、私は一方的に掌握した気になって気持ち良くなってるだけね、私以外が不幸である以上に私以外が幸福であることを望んでいるよ。弱音見せないで、陰に隠れないで、人に囲まれて生きていて、それが私たちを隔てる壁であって。

これを言うといつも奇妙がられるけど、1人で喋るのが割と得意。見られ方を気にして(リスナーもいないのに!)「人が来なかったから閉じま〜す…」みたいな雰囲気を出しているだけで、無限に話題を作ってツイキャスやスペースが出来るのではと思う。好きに話している時の自分はかなりいきいきとしている自負がある。いつもあのくらい楽しければ良い。別に耳は貸さなくていいけど私のご機嫌を取って私がご機嫌になるようにリスナー役してくれる人を募集しています。無限に暇な人間がうようよとしているはずなのだ このインターネットには。


2023/12/30

他人から見たわたしを知りたいけれど、それを知るという行為は誰にとっても恐怖を孕んでいるよね?私が思うわたしが一番に美化されている気がする、自己愛が強いので。私という人間の外も中も直視されたくないし、評価されたくないのに、絶対的に優位に立ちたいし負けたくない。いつだって人に舐められるのが怖いから、殻を被った私として存分に舐められ体質に化けている。ベロベロ ネコネコ ニャーンニャン 今日も眠剤で落ちるように眠っていた。私は頭で常にやりたい事やタスクを意識しているのだけれど、その割に消化することが苦手なのでただただ頭にそれらを羅列して、う〜ん、なんでこんなにもやりたいのに、動けないんだろう……と無力さを全身で受け止めている、力のない人間です。

やはり、些細な所ではあるが、精神の調子が悪い時には人との繋がりをプチプチと消していきたくなる。最も元々あっても無くても変わらないような、相手から私という存在を認めて貰えているのかすら分からないような繋がりしか自分から消すことは出来ないのだが、それでも少なからず数が減っている。ブロックやブロックの解除、その一連の過程を指でなぞることに安心を覚える。合わないことを確認したから用済みでしょ、と言わんばかりに。文面ではいつも上から物を言っているな、実際もそうだし、そうでありながら怯えている。

今日はなんとなく一日中日記が書きたくて仕方なかった。拙くて恥ずかしいものではあるのだが、読み返すと落ち着く。というか私は自分に関する物を触っていると凄く落ち着く。限りなく物理的な意味で、自分の身体を触っていると落ち着くのから始まり、自分の声・自分の文章・自分の写真、どれを見ても気が抜けて溜息が出る。なんだろう、好き嫌いとかではなく、やはり私は自分のことを信頼していたい。自分の顔も声も言葉もひたすらに醜いと思っているが、その醜さを確かめることが究極に心地良い。私が私である証左。偽り無いもの。

映画『FROZEN』を見た。スキー場のリフトに取り残された男女3人が冬山の極限下でどう生き残るか?というパニックホラー的なB級作品だ。特筆すべき点は無かったが、やはり"取り残される"などという絶望的なシーンを再現されると、自分ならどうか?と考える取っ掛りができる。痛みを感じさせる出血描写やこの手の作品に間違いなく挟まっている人間同士の口論/トラブルなどは、私たちにより身近な恐怖を憶えさせる為の手段であって。それはリアルさと言うよりも、近くから遠くを見る、有り得るところから有り得ないところを見るような感覚なのかな。実際にリフトに取り残される想像をしたことがある人が少ないはずは無いが、それは"リフトに乗ったことがある"という経験から来るものであれど、その事象が身近に感じるということは無いだろう。只中に居ない時に考える恐怖など本当にフィクションでしかない。だから私は何が起こるのも怖い。車に乗る時は事故のことを考える、飛行機に乗る時は墜落のことを考える。近いうちに来ると言われ続けている大地震のことを考える。考えない日は無い。でもその想像なんて、所詮私の偏った知識と不安定な心に基づいたハリボテだ。掴むことが出来ないいつかの、どこかの、恐ろしさを、私は試したくてたまらないけれど そんな勇気も無いのだ。

過剰に怯えていよう。その震えで私は温まる。

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