【以仁王 vol.1】 略伝
平安末期、院政時代の皇族。後白河天皇の第三皇子で、母は藤原季成(閑院流)の娘・成子。同母兄に守覚法親王、同母姉に式子内親王、殷富門院(亮子内親王)などがいます。
以仁王は大叔父である最雲法親王の弟子となって、いずれは出家する予定でしたが、応保2年(1162年)に最雲が亡くなったこともあって、永万1年(1165年)に出家せずに元服。皇子ではありますが親王宣下(親王の称号を認める宣旨を下すこと)を受けていないために「以仁王」と呼ばれます。
以仁王は暲子内親王の猶子(後見人と被後見人の要素が強い親子関係)となって、鳥羽院の皇統を受け継ぐ有力な皇位継承権を持ちましたが、仁安3年(1168年)に異母弟である憲仁親王が高倉天皇として即位、次いで治承4年(1180年)に高倉天皇の第一皇子である言仁親王が高倉天皇の譲位を受けて安徳天皇として即位すると、以仁王の皇位継承の可能性はほぼ消滅してしまいました。
なお、治承3年(1179年)の政変では、平家から以仁王が所有する常興寺(城興寺とも)とその寺領が没収されるといったことが起きています。これは高倉-安徳の皇統を脅かす存在であった以仁王を平家が警戒し、その経済基盤を奪う狙いもあったとされ、この時点においてもほんのわずかながら以仁王の皇位継承の可能性は残されていたことがうかがえます。
治承4年(1180年)5月、以仁王の謀叛が発覚。朝廷は直ちに以仁王を臣籍降下(皇族の身分から臣下の身分へ変更すること)し、源以光として土佐国(現在の高知県)への配流を決定しました。
これに対し、以仁王は源頼政・仲綱親子や園城寺(三井寺)の衆徒らの支援を受けて、しばらく園城寺にて反平家勢力の結集を図りましたが、急な謀叛発覚による準備不足もあって思うようにはかどらず、興福寺や東大寺の衆徒ら(南都大衆)の支援を期待して、やむなく園城寺を脱して南都へ逃げ延びようとしました。
途中、宇治平等院付近において平家軍に追いつかれ、頼政・仲綱などの武士や園城寺衆徒らが交戦(宇治平等院の戦い)、味方は奮戦するものの敗色が濃厚になると、頼政は以仁王を先に逃がし、王は急いで南都へ向かいました。しかし、光明山寺の鳥居の前にて、追手の平家軍(藤原景高の軍勢)の放った矢があたって落命。ここに以仁王の平家打倒の企ては露と消えました(頼政・以仁王の最期)。
なお、以仁王の死後しばらく生存説が噂され、このことが治承・寿永の乱前半の趨勢に少なからず影響を及ぼすこととなりました。
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