母の四十九日を終えて

母の四十九日が来た。とうとう三途の川を渡るんだね。

叔父がこちらに来てくれると言ってくれたけど、やはりまだコロナの心配は続いているのでお断りした。せっかくのご好意を本当に申し訳ないと思ったけど、お気持ちだけありがたくいただくことにして安全を選んでもらった。

看取りもひとり、葬儀もひとりでやったんだ。四十九日法要なんで楽勝。

自宅に曹洞宗のお坊さんが来てくださりお経を読んでくれた。葬儀の時と同じお坊さんだ。うちは臨済宗だけど同じ禅宗ということで曹洞宗でも来ていただいた。本家は大阪で、こちらでは菩提寺もないので葬儀屋さんに手配していただいた父の葬儀の時からお世話になっている方なので安心できた。

座布団は唯一縫い目がない部分を祭壇側に向ける、とか、お線香を立てる器(何て言うんだろう)の足を自分の方に向けるとか豆知識も披露していただく。お骨もそんなに急ぐことなく、家でちゃんと祀って保管していれば問題ないと言ってくださり安心する。正直まだどこに納骨するのか全然決められないからだ。地味にやることが盛り沢山なので納骨はちょっと後回し気味。いつかいつかと思っていつになることか・・・

とにかく無事に法要も済み、すっかり気が抜けた。

違った。気が抜けたと言いたかったが、また自分の頭の中で勝手にこじらせ劇場が同時進行していた。またうっかりだ。

たまに配慮を忘れたことをやったり言ったりしてしまうことがある。そしてそれをあとで責められることに強く反応してしまう。それも長い時間ずーっと。後から思えば、どうしてあんな風に振舞ってしまったのかと自分でもあまりのうっかりさに落胆しきり。挙句、私悪くないもん!って小学生並に抵抗を始めたりするから本当に厄介だ。これも全て自分の感情の中で繰り広げられているだけ。先方には謝って終わり。あくまで自分の中で、なんでこんなこと言ってしまったんだ!と過ぎたことなのに何度も何度も頭の中で反芻する。あ〜、疲れる。

そんなに自分、完璧じゃないよ。

何か勘違いしてるけど、自分は何もかも完璧に誰にも嫌な思いをさせずうっかりも一切ないPerfect Humanなんかではありません。たまに、うっかり心ないことをしてしまうことだってある。そして私という人間は、間違えてそれを人に咎められることが本当に嫌だ。なら間違えなきゃいいのに。って、当然思う。本当の自分はこんなこと言わない、しない。たまたま、うっかり、そうなってしまっただけだ。だから私は悪くない!そんな風に世界の中心で叫びたくなってしまう。

人には完璧な自分、ちゃんと気配りができる自分でいつもいたいようだ。前に、すごく年下の、でも自分より立場が上の人に「あなたはいつも言い訳をしていて自分が悪いと認めない」と言われたことがある。あの時は、それこそ私はなんでこんなにいつも責められるんだろうっていうくらい指摘ばかりされていた。つまりは仕事が遅く飲み込みも悪かったから仕方ないし、ちゃんとしようと頑張っているけど余りに言われるから段々素直に謝れなくなっていた。プライドもあったのかな。あの時はとにかくこうしなっているのには理由があってただ遅いわけではないと自分の非をどうにか軽くしたかったんだと思う。そうしないと心が折れそうなほど参っていたから。

このメンタルの弱さというか深掘りしすぎるところはいつかもっとオバさんになったら図々しくなれるものなのか。私の場合、それでちょうどいいくらいになりそうだけど。

私はいつもきちんとしていて人から咎められる人間ではないから、今回のことも認めたくない!と思っているのであれば、諦めろと自分に言いたい。もっと楽に生きろと。本当に咎めているのは自分自身だ。相手はもうすっかり忘れて、今頃缶酎ハイでも飲んでポテチでも食べてるよ。

せっかく母が無事に三途の川を渡って、父と再会できたんだから。私のお役目はひと段落したんだから、もっと気を抜こう。こんな小さなことよりも、これからの自分の人生を描けるように頭を使うんだ。さっき、親戚にそれぞれ法要が無事に終わったことを電話で報告したら何十年かぶりに従兄弟と話ができたり、叔父叔母のそれぞれ元気な声が聞けて心がぽかぽかした。私の両親はもういないけど、同じ血が流れている人たちの元気な声が聞けるだけでちょっと泣きそうになる。血を分けた人たちは離れていてもやはり特別だ。用事がなくてもたまに電話して声が聞けたらと思う。

今日も心か脳かわからないけど、忙しかったなあ。

そして、こじらせたなあ。

とにかく、母も私もお疲れ様でした。

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