中上健次論(0-8)タイチとオリュウノオバ


オリュウノオバはすべての命を肯定する。

オリュウノオバはいつも女の腹から顔を出す子に言った。何でもよい。どんな形でもよい。どんなに異常であっても、生命がある限り、この世で出くわす最初の者として待ち受け、抱き留めてやる。

『奇蹟』中上健次

何度でも引用したくなるオリュウノオバの「エチカ」である。礼如さんにはここまでのことはいえない。
仏様は意味を付けたがるから。

『奇蹟』に於いてタイチはオリュウノオバを激昂させてしまう。

「タイチの女、子供産んで殺した」

『奇蹟』中上健次

オリュウノオバの前に現れたタイチを代弁するようにイクオが言った。
オリュウノオバにはなんの相談もなかった。タイチは「オバ、参らせてくれ」と夜中にイクオらとオリュウノオバを訪ねたのだ。

十五のタイチが何に苦しみ、夜中、仏にすがりに来たのか分かり、驚き、次にどうして女が子を孕んだ時も産んだ時も路地で唯一の産婆の自分に一言もなかったのかとむらむらと腹立ち、「タイチ、われらァ」と炎が体から吹き上がる気のまま暗闇の中を走り、仏に祈っているタイチにつかみかかった。 オリュウノオバ、体から、炎、吹き上がる。もう若衆と言われる齢になったといえ、骨も固まっていない十五のタイチの髻持って揺さぶり、仏壇に向かってただ手を合わせるタイチを、「ようも、ようも」と言葉にならない言葉を吐き、仏に向かってかオリュウノオバにか、「バチが当たったんじゃ」とつぶやくのに、今度は声も嗄れたまま髪をつかんで頭が高いというように畳にこすりつけかかる。

『奇蹟』中上健次

小説内の時系列でいえば『奇跡』は『枯木灘』以前の話しで「路地」はある。しかし、書かれたのは1987年から1988年。上梓されたのが1989年である。
執筆時には既に「路地」はない。
『地の果て至上の時』が書かれてしまった後では中上が書き言葉を回復することはできなかった。
小説の結講を内破する語りを模索する過程で奇蹟的に完成したのが『奇蹟』である。

簀巻きにされダムに沈められたタイチとアル中で巨大なクエになったトモノオジ。小魚になったオリュウノオバがタイチを喰う。そのオリュウノオバをクエが呑み込む。
『奇蹟』の結末は小説としては荒唐無稽と紙一重であるが物語的には通俗的ではあるが「荒唐無稽」とはいえないと思う。但し以下の想定する射程距離は短いといいたくなる。

最晩年に近づくにつれ道はますます険しくなり、足は苦痛に耐えかねてしばしばよろめいたが、彼は前近代への困難な接近を放棄しようとはしなかった。『奇蹟』はそのみごとな成果のひとつであるといえる。

「『奇蹟』文庫版解説」四方田犬彦

中上は谷崎を「大谷崎」と呼び常に敬意を隠さない。
その敬意に偽りはないだろう。
しかし、中上が「前近代」にまでの短距離を照準しているとは思えないし、飛距離だけではなく根源的な価値転倒を目論んでいたとはいえる気がするのだ。

『奇蹟』も簀巻きにされている。