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Ⅶ 神様からの贈り物(健康)

#10

1 元気が一番、元気なくすりゃ元も子もなし

 私たちの身体は、なんと30兆の細胞から構成されているといいいます。この不可思議玄妙なる人体は、1兆単位の細胞がまとまって、脳、目・耳・鼻・口を創り、精巧な五臓六腑を形成し、四肢および手指10本足指10本を造り、動脈静脈や毛細血管となって全身をめぐり、骨格となり骨髄液となり,絶妙なる生殖器となり卵子と精子と生み出すのです。
 この無数の全器関が複雑に絡みあいながら、時時刻刻の情報を交換しあって、日々整合性を保ち正常にバランスよく作動しているというのは、いったいどういうカラクリになっているのでしょうか。とりわけ凄いのは心臓と肺臓です。人間たちがのんきにのびやかに眠っている間でもしっかり働き続けています。数十年、五十年、七十年、365日、24時間、休まず仕事をしてくれているのです。肝臓も腎臓も黙々と肝腎な仕事をはたしてくれています。でなくては血液の循環も滞り、使用済み燃料も老廃物も排出できなくなり私たちはたちまち悲鳴を上げることになるのです。

 しかも人体はあちこちで傷ついたり故障したりします。でも、自然治癒力というものが自動的に働いてほとんどのことはいつのまにか治してしまうのです。体内でSOSが発せられると急遽、救援隊が結成されて、適切な処置をほどこし正常の状態に戻してくれるのです。
 なんと素晴らしい驚くべき精妙精緻な器械なのでしょう、この神妙な超能力はどなたのお力でありましょうか。そうです、天地万物の創造の大神、その偉大なる造物主の無尽蔵の神通力によるとしかいいようがありません。そんな極上至上の精妙なる人体をわれわれは例外なく与えられているのです。

 私は、毎朝のように風呂に入りますが、全身を浴槽にゆったりと沈めますと、すべての皮膚がお湯に敏感に反応して微動しながら目を覚ますように感じます。そして脳天から足の指さきまで全細胞が生き生きしてくるように思えるのです。窓をあけると清冽な大気がさあッ~と入ってきて肌に心地よく、私は肺にある空気をすべて吐き出すようにして新鮮な空気を胸一杯に吸い込むのです。
 「ああ、ありがたい!ありがたい!」と思います、
 そして、「今日も元気だ、生かされている」と天地神明に感謝するのです。

 かの「養生訓」で有名な貝原益軒はいいました、
 「人の元気は、もと是天地の万物を生ずる気なり。是人身の根本なり」。
 まさにその通り、「万物を生じる気」、それが「人身の根本」なのですね。
 益軒先生は続けて「気を一身体の内にあまねくゆきわたるべし」と諭します。
 さあ、みなさんも、窓をあけ胸いっぱいに「天地万物の気」を取り入れ、元気な血液をあまねく全身にいきわたらせましょう。
 人間は「元気が一番」、元気をなくしちゃ何もはじまりません。

2 快食、快放、日々すこやか

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 さて、その元気を保つにはどうすればいいか。
 それにはまず「人間は動物である」とはっきり認識することが必要です。人間は利巧になり賢くなり、生意気になりいい気になり、特別上等の存在だとうぬぼれています。とりわけ近代において数々の文明の利器を発明してきたのでますます増長しています。しかし、根っこは動物に違いないのです。
 かの破戒僧といわれた一休禅師はこういいました。
「人間は、喰って糞して寝て起きて、そのあとは死ぬるばかりよ」と。
突き詰めるとこうなるのです、動物と同じです。いくら文明人といい文化人といっても同時に動物でもあることを忘れてはなりません。王様でも王女様でも大富豪でも科学者でも一流の女優でも美術家でも、誰でもそうなのです。根本は生き物なのであり、それは劣等でもなんでもなく極めて至妙なる機能をもつ素晴らしい存在であって、日々の営みである「食・放・寝」は生きることの最も基礎的な条件なのです。

 なかでも一番大事なのは食べることですね。
 精神科医にして高名なる歌人斎藤茂吉は、鰻大好き人間でこんな歌を詠んでます。
「きょう一日 仕事を励みてこころよく 鰻食わんと銀座にいできし」
茂吉先生にとっては、神経衰弱も下痢も難眠も、仕事のはかどらないのも頭の回転が鈍くなるのも、すべて鰻が解決してくれるのです。戦時中食料事情が悪化したときは「今日は鰻はどこも休みであった」とわびし気に日記に綴り、都合よく鰻にありつけた時には幸福の絶頂に達していかにも満足そうです。
 人間、真に好物を持つ者は幸せです。寿司でもステーキでも、天ぷらうどんでも豚骨ラーメンでも、好きなものを好きなだけ食べれば元気がでること請け合いです。
 人間は食べていればご機嫌なのです。飲み食いしているときは平和で、おだやか、怒っている人はいません。悩みも心配事も一休み、我を忘れて食事をしてるじゃないですか。ちょっとしたものでもいいのです。大福ひとつでもショートケーキのひとつでも元気が出るのです。

 次に大事なのは放出です。ええ、なんですかそれ?といわれそうですが、元気が出る元の元はここにあるのです。キッチンや風呂のことを考えてみてください、排水管がつまったらどうします。台所も風呂も機能停止、使えなくなります。人間の身体も同じ、放尿、排便ができなくなったらすべてストップ、無理にでも出さないと体がもちません。便秘、腸閉そく、尿毒症、ガス膨満、これは一大事です、一刻も早くパイプを突っ込んでも排出しないといけません。
 「お通じはいかかですか?」
 むかしのお医者さんはよくこう聞いてくれました、いい言葉ですね。
 「通じましたか!よかったですね。立派なのが出ましたか、おめでとう!」と。
 私も大腸ポリープの切除で何回か手術してもらいました。また腎臓に石ができる質なのでそのオペの体験もあります。その間は不通、困惑するひと時ですね。が、オペが成功して「お通じ」がすう~と「通じる」とき、その嬉しさはまた格別です。
「ああ、これで、あれが食べられる!」と歓びが沸き上がって、看護婦さんに抱きつきたいくらいの幸福感です。

 それから、有難いのはあの文明の利器、ウオッシュレットですね。
 日本人は凄いものを発明してくれました。海外から日本を訪れて来た人がビックリするのはまずこの機器ですよ。空港のトイレで、ホテルのトイレで・・・う~んと唸るそうです。とりわけ途上国から来た人はいっぺんに日本が大好きになります。放出行為がこんな素敵な環境で快適にできるなんて「天国のようだ」と感嘆するのです。。
 かつては不潔で臭くてかがむのが苦しくて一刻も早く脱出したかった便所が、いまや便座も心地よくゆっくり座れ、しかも誰にも煩わされない個室空間なんですから。これは人種も老若男女も問わず、裨益すると事まことに大なものがありますね。

3 汗をかき、風呂に入れば、若さ甦る

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 それから、元気の元は身体を動かすことであり入浴することです。
 運動といえばいろいろですが、もっとも手軽でポピュラーなのは散歩です。
 私には三つのコースがあります。一つは山水型の自然コース、幸い住まいの近くに川があり丘があり緑たっぷりの自然公園があります。30分、60分、90分の各種コースがありその時の都合で自在です。
 二つ目はタウンコース、一キロ圏の街歩きです。コンビニ、スーパー、本屋、図書館などウォッチングと小さな用事も兼ねています。
 三つ目は都心コース、電車で約一時間はかかりますが、「東京散歩」と称して時にあちこちぶらぶら歩きます。美術、音楽、ウィンドーショッピング、Caféも含め、お楽しみの場所がいろいろあります。
 
 スポーツはどうか、むろん結構ですね。私はもうやりませんが、野球、ゴルフ、テニス、サッカー、水泳、それぞれにいいですね。汗をかいたあとのシャワーや入浴の心地よさはまた格別ですね。汗腺や毛穴が開くとそこから呼吸をするのだそうで、それが全身の活性化にいいのです。みなさまもそれぞれにいろいろの形でなさっていることと思います。

 さて風呂のことについては一言ありたいですね。
 日本には四季があり、しかも湿気が高い。それに温泉が多いから、健康上もお楽しみからも、風呂は不可欠なこと、申すまでもありません。
 漱石にその極楽ぶりを描いた文章があります・・・・
 「春深きひなびた温泉の夜である。余は湯槽のふちに仰向けに頭を支えて、透き通る湯のなかの軽き身体を出来るだけ抵抗力なきあたりへ漂わしてみた。ふわりふわりと魂がくらげのように浮いて居る。世の中もこんな気になれば楽なものだ。分別の錠前を開いて執着の栓張をはずす、どうともせよと湯泉の中で湯泉と同化してしまう。」
 観光や保養や楽しみの旅で温泉につかる、ハイキングやトレッキング、ゴルフやテニス、そのあとに温泉に浴す、そんなときは、かく漱石流にふわ~りふわ~りと漂えば、心身の疲れもとけて神経も癒され元気も甦るというもの、自然信仰のDNAがある日本人には山水に囲まれた温泉宿はやはり命の洗濯であり若返りの泉なのですね。

4 「眠・眠・眠」そして「快く永眠」

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「おお、眠りよ。
 おお、やわらかな眠りよ
 自然のやわらかな乳母よ」
これは、シェークスピアの言葉ですが、いい感じですね。
 骨折り仕事に、甘美な眠り
 目いっぱい仕事をして綿のように疲れて
 やわらかい布団に身を投げ出して、
 母の胸に抱かれるようにこころ安らかに眠る幸せ
そんな眠りを私は連想します。

 ヴォルテールはこういいました。
「神はこの世の心配事の償いとして、
 われわれ希望と睡眠を与えたもうた」と。
人生にはどうしようもないことがあります。愛するものの死とか、思いがけない不運とか、世の不条理、天災人災・・・うちひしがれてただただ嘆くしかない時があります。
 そんなときは、河島英伍の歌ではありませんが、
「男は酒をのみ、女は涙を流し、飲みに飲み、泣きに泣き、
そしてやがては疲れて眠るのだ・・・」
 眠ることによって人はどうしようもない不幸と訣別し、また新しい人生をはじめることができるのです。
 それに睡眠には昼寝もありますね、うたたねもあります。食後の一睡などまことに結構、ここちよく盃を重ねた後、美人の膝を枕にうたたねをするなどはまさにこの世の極楽であります。

 さて、問題は、人生の最後をいかに終わるかです。
 近代文明のお陰で医療技術や医薬の進歩はすばらしく、病院の設備はよく整い、信頼できるお医者さまや親切な看護士さんもいてくれて、こんなにいい国はないと私はいつも感謝しています。
 しかし、一つだけ大きな不満・憤懣があります。過剰医療、過剰介護のことです。日本人の寿命は世界の最高水準であり、それ自体はまことに有難く誇るべきことでありますが、はっきり行き過ぎがあると思います。寿命が歓迎されるのは「食べれて歩けしゃべれる」うちのことですね。とくに食べられなくなったらもういけません。
 フランスでは「老人医療の基本は、本人が自力で食事を嚥下できなくなったら、医師の仕事は終わり、あとは牧師の仕事です」と聞きましたが、これこそまっとうな考えだと思います。 

 ところが、日本では相変わらず延命第一主義が支配していて、いろいろ手を尽くして生きながらえるように努力するのがいいことになってるようです。その結果はご承知のとおりの事態、「三方わるしの医療」が蔓延しているのではないですか。本人はもちろん、家族や近親者も、お医者さんも看護師さんも誰も喜ばないのに、無意味な延命治療を続けているとしたらこんな愚かなことはありません。
 私はそんな死生観は根本的に間違っていると思います。「長寿信仰」ともいうべき価値観のために無駄な医療費や介護費が年々増えています。これはGDP信仰と同じで単なる数字にしばられ、固定観念にしばられているだけではないでしょうか。

 「自然死」を薦める中村研一先生はその著書でこう語っています
 「せっかく自然が用意してくれているのに」、胃瘻や人工呼吸器などの処置は、「ぼんやりとした幸せムードの中で死んでいける過程をぶち壊している」と、それはまるで苦行を強い虐待をしているようなものだと述べています。
 白隠禅師はいいました、「死ぬときは素直に死ぬがよろしい」と。
 食欲の衰えは自然です、神の思し召しです、素直に順って、安らかに快く「永眠」したいものです。  

予告

次週は「遊びいろいろ」、次々週は「愛」についての予定です。


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【毎週土曜朝発信】


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