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二つの「美食」             ――ブリア=サヴァランと魯山人

フランス人にとっての食の「三種の神器」

皆さんは、フランス人の食の伝統的な「三種の神器」をご存知だろうか。この三つがあれば、フランス人はなんとか生き延びられる。昔の日本人の三種の神器、ご飯、味噌汁、漬物にあたるような。

パン、(赤)ワイン、チーズである。それにさらに四つ目を加えるとすれば、何だろうか。
デザートである。それほど、彼らにとって乳製品、糖分は欠くべからざるものだ。

だいぶ前だが(1980年代後半)、最も親しいフランス人カップルが初めて日本を訪れたことがある。10日ほど滞在しただろうか。毎晩のように、私の家族や友人たちに会い、そのたびに和食和食の連続で(もちろん寿司、天ぷら、蕎麦などヴァリエーションを持たせたが)、私もフランス人の食事情を知っているからこそ、朝はできるだけパンにしヨーグルトやジャムを添え、夜は夜で外食した帰りしな(当時はまだ深夜営業のコンビニが少なかったので)駅のキオスクでどら焼きを買ってあげたりしていた。

そして、東京(近郊)で1週間ほど経ち、私は彼らを連れて、伊豆にある家に泊まりがけで行った。翌日の朝食用に、その日もスーパーでパン、ジャム、牛乳などを買い揃えた。

そして、翌朝。起床し、朝食の準備をしようと冷蔵庫を開けても、昨日買ったはずの大瓶のジャムと1.5リットルの牛乳パックが見当たらない。しまい忘れかとあたりを見回すと、キッチンの片隅に、空になったジャムの瓶と牛乳パックが置いてあるではないか。

やがて起きてきた二人に尋ねると、彼氏の方が夜中やむにやまれず、ジャムを瓶から手で掬い、牛乳パックを一気飲みしたという。私も大笑いするや呆れるやら、まあ彼もフランス人だから、日本に来てから乳脂肪と糖分が欠けすぎて生命の危機を感じたのだろうと納得した。(彼女の方も数日前から体調を崩し、食傷気味であった。)

ことほどさように、フランス人の生存には、パンとワインとともに、乳製品(乳脂肪)とデザート(糖分)が不可欠なのである。

フランス人にとっての「美食」とは?

ところで、そんなフランス人にとって「美食」といえば、いかなる食材をいかに調理し味わうのだろうか。

フランスで「美食」といえば、まず名前が挙がるのが、18世紀の美食家、ジャン・アンテルム・ブリア=サヴァラン(1755年- 1826年)である。彼は大部の『味覚の生理学、あるいは超絶的美味学についての考察』(邦題『美味礼讃』)を執筆し、当時のフランスの「美食」事情を伝えている。

「美食」とは、彼によれば、「特に味覚を喜ばすものを情熱的に理知的にまた常習的に愛する心である。」

そして「美食家」たる者、いかなる食材をいかに調理し食するか。「美食家判定器」として参考メニューを挙げているが、(より「高級」なそれは我々日本人にとってあまりに特殊で複雑すぎて実感が掴みにくいので)「第1級:中産程度」のメニューを見てみよう(これでも人によっては実感が湧きにくいかもしれない)。

・仔牛のヒレ肉(脂身をピケする)をその出し汁の中で煮込んだもの
・リヨンの栗を詰めた七面鳥
・よく脂ののった鳩、ベーコンを巻いて、ちょうどよく焼いたもの
・ウッフ・ア・ラ・ネージュ〔メレンゲをクレーム・アングレーズ(さらっとしたカスタードクリーム)に浮かべたデザート〕
・シュークルート(sauerkraut) にソーセージを添え、ストラスブールの燻製ベーコンをのせたもの

このメニュー=「美食家判定器」の本質はなんだろうか。そう、肉の脂である。ブリア=サヴァランは言う。フランス人にとっての「味わい」とは、「一口で言えば、すでに溶けたもの、あるいはやがて溶けるもの以外に、有味体はありえないのである。」つまり、動物性脂肪ないし乳脂肪に「味わい」、「美食」は収斂するのだ。

日本人にとっての「美食」とは?

翻って、日本でブリア=サヴァランに匹敵する「美食家」といえば誰であろう。やはり北大路魯山人だろうか。

この陶芸家であり、書家であり、文筆家であり、そして何よりも美食家で料理人であった、マルチタレントの魯山人にとって、「美食」ないし「美味」とはいかなるものだったのか。彼自身、あるエッセイの中で自らに問い、こう答えている。「日本の食品中で、なにが一番美味であるかと問う人があるなら、私は言下に答えて、それはふぐではあるまいか、と言いたい。」

では、海の最高の美味がふぐだとしたら、山のそれは何だろうか。魯山人はつづける。「私は海から最高の美食の対象としてふぐを挙げることをためらわなかった。それでは山からはなにを――ということになるだろうが、差当って私はわらびと言いたい。」

なぜ、「山にふぐ、海にわらび」が、最高の美味なのか。その理由を、魯山人はこう語る。「すっぽんも美味いものであるが、このふぐに較べては、味があるだけに悲しいかな一段下である。否、その味が味として人に分るから、まだそれは、ほんとうの味ではないのである。すなわち、無作の作、無味の味とでも言おうか、その味そのものが、底知れず深く調和が取れて、しかも、その背後に無限の展開性をもっているものでなければ、真実の美味ではなさそうである。〔…〕わらびはもちろん取りたてでなければいけない。型の如くゆでて灰汁を抜き、酢醤油で食う。これが実に無味の味で、味覚の器官を最高度にまで働かせねば止まないのである。」

「無味の味」。「味が無い」ことの中に究極の味の無限の展開を感じる。さすが天下の美食家、魯山人ならではの表現である。もちろん、この「無味の味」は、私がアメリカで衝撃を受けたあの底知れぬ「不味さ」とは似ても似つかぬ、いやまさに対極にあるものだ。(魯山人がはたしてアメリカの「不味」を口に入れたらどのようなリアクションをしただろうか。)

魯山人@ラ・トゥール・ダルジャン

ところで、魯山人は、フランスはパリのセーヌ河岸にある、鴨料理の老舗中の老舗で、かつてミシュランの三つ星でもあった、かの「ラ・トゥール・ダルジャン」に行っている。その時の模様をエッセイ「すき焼きと鴨料理――洋食雑感――」に書いているのだが、それがふるっている。

彼は、隣席の客に出している、この店の名物――鴨の血をベースにしたソースをかけ調理しているところを見て、あんな鴨の食い方は「肉のカスを食うみたいなもので、カスに美味い汁をかけているに過ぎない」として、俺はそんな食い方はしたくないと、ボーイに自分が鴨の有名な研究家だとふれこみ、ただ「半熟でちょうどうまい具合に」焼けただけの鴨をもってこさせ、それにこともあろうか懐中から取り出した薄口醤油と粉わさびをつけて食べ、ボーイたちも感心したと、悦に入っている。

ところで、逆にもしブリア=サヴァランが日本にやってきて、ふぐちりかてっさを食べようとしたら、彼はいったいそれにどんなソースをかけるのだろうか…。

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