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「ちょっぴりだけ幸せな明日がいつも私を救ってくれたの」の話

 アートコレクターさんの自宅から戻ってきて、私は他の国のアーティスト二人と暮らすシェアハウスに戻ってきた。正確には二人ではなくて、アーティストの一人は小さな子どもとお義母さんの三人で一部屋を使っている。
 子どもがいても制作をつづけられているのは、とても素敵だなと私は思っていた。彼女がアトリエに行っている間、子どもはお義母さんが見ている。三ヶ月も家を留守にしている間、お義母さんは自宅を人に貸しているんだそうだ。

 私が一階に下りてコーヒーを淹れ、そこにミルクを足していると、一階の部屋からお義母さんが出てきた。
「あらっ。そのミルク、もしかしてあなたのだった? 一つしかなくて、使っちゃったわ、ごめんなさい」
「いやいや、大丈夫ですよ」
「うちは人数が多いでしょう? 冷蔵庫もいっぱいスペースを取っちゃって申し訳ないわ」
「ぜんぜんですよ。いつも掃除してくださってて助かってます」
 お義母さんがお菓子を食べようと誘ってくれたので、私はコーヒーを持ってテーブルで待つ。お義母さんはクッキーをお皿に乗せ、自分の分の紅茶を淹れて私の斜め横の席に座った。

「すごく仲のいいご家族ですね」
「そうかしら?」
「はい。お孫さんの面倒をみに三ヶ月も海外生活するなんて、すごいなって」
「あら、それは私が言ったのよ。ずっと一人で暮らしてたし、どこかに行きたいなって思ってたから」
 旅が好きだというお義母さんは、若い頃はいろんなところを旅行したという。
「でももう歳でしょう。あんまりあちこち動きたくないの。だから、このくらいゆっくりできるのが一番いいわ」
 三ヶ月のデンマーク滞在の間、子どもを連れてお出かけをして、たまに一人で遠出をして、日常を楽しんでいるのだとお義母さんは言った。

「私の友達とね、私たちってなんで生きなきゃいけないんだろうって話をしたことがあったの。すっごく昔のことよ。まだ二人とも若くて、結婚もしてなくて、一生懸命働いてた頃のこと」
 お義母さんの友達がふと言ったらしい。「私、なんで生きてるんだろう」って。

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「彼女はね、子どもを産んで育てるようなタイプじゃなかったの。一人の時間を楽しめればいいっていう考えだった。だからあんまり結婚にも興味がなくて。仕事は嫌ではなかったけど、すごく楽しいことでもなかった。なんとなく生きるために必要だったからやっていたような感じ。
 それでもたまに旅行に行って、おいしいものを食べて、そこそこ充実してたのね。だけど急に疑問に思っちゃったのよ。子どもを残したいわけじゃない。一生できる仕事なわけじゃない。老いて動けなくなったらどうすればいいの。そこまでして生きる必要があるのって」
 友達は長期の休暇を取り、人と会わなくなった。お義母さんは結婚して新しい生活が始まったこともあり、友達と会う回数も減っていく。

「急に連絡がきたのね。生きている意味がぜんぜん分からないって。不幸なわけじゃない、生活だってできてる。今から老後を考えたって、どうなるかなんて全然分からないでしょう。でもなんか、漠然と不安だって言って、すごくすごく泣いてたの」
 お義母さんは電話越しに友達の泣き声を聞く。彼女がこんなに取り乱したのは初めてで、でも何かをしないと彼女は深淵に落ちてしまいそうだと感じたと、お義母さんは言った。

「その一年くらい前にね、彼女は大好きだった人と別れてたの。彼は子どもを欲しがってて、家族をちゃんとつくりたい人だった。結婚しようか迷って、最後の最後で彼女が別れを選んだのね。自分が子どもを産んだら、たぶん育てきれなくてすごく苦しい想いをすると思うって。でも、彼の夢は叶えてあげたい。そしたら、別れるしかなかったって言ってたわ」
「そうかぁ。すごく、やさしい決断ですね」
「そうよね。彼のほうも納得して、新しい人と付き合い始めたわ。けっこうすぐに結婚を決めたみたい。子どもを育てたいっていう気持ちもあったから」
 納得してたからといって、感情が追いつくわけじゃない。友達はそれなりに寂しい想いをしたんじゃないだろうか。私は想像する。

「なんで生まれてきちゃったんだろう。自分は生きてる意味がない、意味がないって言いながらすごく泣いて」
「それ、なんて応えたらいいのか。とても難しいですね」
「そうよね。私も思ったわ。でも電話をかけてきてくれたってことは、彼女が生きたがってるってことだって私は思ったの」
 お義母さんは友達の声をただ聞き続ける。なんと声をかけたらいいか考えながら。

「自分は恵まれてて幸せなはずなのにって彼女は言ってたわ。世界にはもっと不幸な状態で、精一杯生きている人がたくさんいるのに、なんで自分はこんなに甘えてるんだろうって。なんで自分は多くを求めちゃってるんだろうって」
「幸福って、なかなか他の人と比べにくいですよね。誰かが不幸だから自分も不幸じゃないといけないわけじゃないし」
「そうよね。自分が幸せならそれでいいじゃないって思うのに、一度不安になり始めると、止まらなくなっちゃうことってあるわよね」
「はい」
 彼女は紅茶を飲み、クッキーを手に取って私にも勧めた。砂糖がまぶしてあるクッキーを口にして、私は彼女の話を待つ。

「彼女が話し終わった時、正直に言うと私にはなんの言葉も出てこなかったの。生きてるだけで意味があるなんて言ってどうするんだろうって。なんか、ありきたりじゃない? 本当に自分が思ってるかどうかも分からない。誰かが言ったセリフをなぞってるだけ。そんな言葉で彼女に届くかしらって思ったの。私の言葉じゃないと」
「私の言葉、かぁ」
 お義母さんは皺の多い顔に笑顔を浮かべてクッキーを食べる。
「私、普通のおばあちゃんでしょう? アートなんてとても作れないし、よく理解もできないわ。死んで十年もしたら誰も思い出す人がいないくらい、普通の人なの」
「普通はとても素敵なことですけどね」
「そう、私には普通で十分、普通がよかった。目立つことなんて疲れちゃうもの。小さな幸せが毎日あればいい。私はお菓子を作るのがとても好きなのね。誰かに食べさせてあげたいの。甘い匂いも好き。だから、彼女にこう言ったの。
 明日、うちにお菓子を作りにこないって。一緒に食べようって」
「彼女は来てくれた?」
「ふふ、もちろん」
 お義母さんはクッキーをもう一枚口にする。私も同じように手に取った。砂糖のざらついた手触りとバターの香りが心にやさしい気がする。

「自分の生きる意味なんて、今も分からないわ。誰かの役に立ってるような気もしないし。私一人がいなくても、世界全部を考えたら何も変わらないはずよ。
 でもね、それでいいの。私が生きる意味なんて、私にはなくてもいいの。週末のお菓子作りだったり、新作映画の公開だったり。そういう小さな幸せがあるだけで、私の人生は十分幸せだったわ」
「素敵ですね。ほんとに」
「いつも、ちょっと先の未来の楽しみが、私を救ってくれたの。今もそう。ここにはもう二か月もいるから、今度は自分のおうちに帰るのが楽しみなのよ」
 お義母さんはそう言って笑う。

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