レモン/グラス

 いつも姉が朝目覚めて一番にすることは、一枚の絵葉書を眺めることだ。それは姉の元恋人からもので、京都の景色が切り取られている。祇園祭の風景で、提灯の光と夜の闇とのコントラストが鮮やかな、ありふれた一枚だ。それを姉は、毎朝眺めている。
 二番目にすることは、僕の朝食を作ることだ。僕と姉は、三年前から一緒に暮らしている。古くなった実家を取り壊すときに、僕らは一緒に暮らすことにした。両親は老後の気ままな暮らしを求めて、二人でイギリスに移住した。
「恭ちゃん、今日はどのお野菜が食べたい?」キッチンから、姉の声がする。「今日は、お茄子がよく漬かっていると思うの」
 姉は、僕らの部屋で京野菜を漬けている。そしてそれらは毎朝、僕の食卓に並ぶ。
「恭ちゃん、今日はなんのお仕事をするの?」姉は茶碗に盛られたご飯に塩をかける。
「姉さん、そんなに塩を振ったら、体に悪いよ」
「今日も雨が降りそうね」
 姉は僕の言葉を無視して、窓の外を眺める。外は、今日も快晴だ。
 僕は、朝食を平らげて、家を出る。
「恭ちゃん、いってらっしゃい」
 笑いながらベランダから顔を出した姉に、僕は仕方なく手を振る。姉の細い手が揺れている。ベランダだって外なのに、白く長い脚は無防備に晒されていた。そこから落ちたら、確実に壊れてしまうだろう。僕らの部屋は3階だ。ガラス細工のように粉々になるのではなく、あくまで鈍く曲がり、血を滲ませて、壊れるだろう。

 姉と三枝さんが付き合っていたのは、一年前。期間は一年間だった。職場のレクリエーションとして開催されたバーベキュー大会で意気投合したらしい。普段の仕事では他の部署との交流がないとかで、ときどきそんな催しが行われるそうだ。
「三枝さん、お休みの日は家で小説を書いてらっしゃるんですって。恭ちゃんと一緒ね」
 姉は、三枝さんとの三回目のデートの夜、僕にそう言った。
「姉さん、まさか僕が小説を書いていること、話したんじゃないだろうね?」
「そんな……。大丈夫。それは大丈夫」
 姉は僕の瞳を一瞬だけ深く覗き込んだ後、連れて行ってもらったという赤坂の鉄板焼きのお店の話をした。
「目の前でね、焼いてくれるの。大きくて真っ黒なエビが、みるみるうちに鮮やかな赤色になって、それがすごく美味しかったのよ」
 その後、姉と三枝さんは何度かデートを重ね、ついには婚約するに至った。姉は職場恋愛のケジメのため、退職する。
「いまどき、そんなこと必要なのかよ」僕は珍しく姉に言った。当時の僕は無職で、姉の稼ぎに頼っていた、という情けない事情もあった。
「お金の心配は大丈夫よ。パパとママが残してくれた分もあるし。私の貯金もあるもの」
「いや、そういうことじゃなくてさ」そういうことなのだが、小さなプライドが邪魔をして、素直になれない。
「でも、男の人の方が大変そう。家族や親戚だけじゃなくて、会社の人たちにも義理立てしないといけないんだから」

 一時的に帰国した僕らの両親とも挨拶を済ませ、着実に結婚の準備は進んでいった。そんなある日、僕の携帯電話に知らない番号からの着信があった。かけてきたのは三枝さんで、僕と二人きりで会いたいという。
 僕は指定された喫茶店に赴き、三枝さんを待った。時間ぴったりに現れた彼は、注文したアイスコーヒーが二つテーブルに並ぶと、口を開いた。
「突然、すまないね。来てくれてありがとう」
「いえ、別に」
 新宿の、ジャズの流れる喫茶店だった。
「なんだか、雨が降りそうだね」三枝さんが窓の外を見て言う。
「あの、ご用件は……」
 三枝さんは、淡々と慎重に、朴訥した口調で、姉が処女でないことが不思議でならない、と僕に語った。今まで誰とも交際したことがないと聞いていたのに、と。処女でないことが気に入らないのではなく、あくまで矛盾していることが気にかかる、と彼は付け加えた。
「恭一くんは、なにか知らないかい?」彼は、僕の目を見ている。「僕だって、雛子さんのことを信用したいんだ。でも……」
 言葉ではそう言いつつも、彼は完全に疑っている。姉のことも。僕のことも。
「そもそもどうして君らは二人で住んでいるんだい?」と、彼が言ったとき、僕は衝動的に彼の左手の人差し指をつかみ、そのまま折った。ポキンとかパキンとか、そういう小気味のいい音は聞こえなくて、どこまでも鈍い、滲むような感触だけが僕に残った。
 それから僕は一人で京都に向かい、三枝さんのフリをして、姉に絵葉書を書いた。

 仕事を終えて、僕らの部屋に着くと、真っ暗な中で、姉が歌を歌っていた。
「恭ちゃん、おかえりなさい」
「ただいま」
「お腹空いているかしら。ご飯食べる?」姉は僕にゆっくりと近づいてくる。
「うん。姉さん……」
「なに?」そのまま、僕の右手の人差し指を、口に咥える。
「姉さん……、何が読みたい?」僕はきいた。
「なにが……? そうね、短編。恭ちゃんの短編小説が読みたい」
「わかった」
 姉は、ゆっくりと歯を立てる。少しずつ、少しずつ、削り取るように、僕の指は姉の一部になっていく。
「姉さん、どうして処女じゃないの。うっ……」第一関節から先が、なくなる。「姉さん……」
 僕が書いた絵葉書は、貴船神社の風景だった。
 あの絵葉書は誰からのものなのだろう。
「恭ちゃんの指、レモンの味がする」
 僕は短編小説の書き出しの一文を考えていた。姉に読ませるためだけの、僕の小説。そのはじまりの一文を。

 了。

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インディ作家。 日々の生活や、家族、音楽などをメインテーマに、色々な『新しさ』を模索しながら、小説を書いています。
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