砂漠を眺める
砂漠ばかりが広がる、想像以上に静かな場所だった。当然といえば当然なのだけれど。それが理由で心のバランスを崩してしまう移住者がいるという話も、どうやら出鱈目ではなさそうだった。
到着の日、火星には雨が静かに降っていた。地球の空とそっくりだった。はるばるロケットで飛んできたのに、実は同じ星にたどり着いたという奇妙な感覚に襲われた。
この移住が決定した当初、弟はお気に入りのテレビ番組が見られなくなることに、まず不満を示していた。音楽も、本も、プラモデルも地球から持ち出すことはできないし、火星にはどこ探しても娯楽と名のつくものはなさそうだった。
確かに、弟の言う通り、火星ってつまらないみたい。
地球で当たり前でいたことが、火星に移住すると手に届かなくなることが、たくさんあり過ぎた。それに気づかなかったなんて、と地球にいる「自由」のありがたみをしみじみ感じた。
*
だが、弟の様子は出発日が近づくにつれて大きく変化した。移住適応プログラムの一環として半ば強制的に通わされた施設で、弟は移住者の雰囲気に馴染んでいったのだ。それは新たなイデオロギーをすり込まれたに等しい、気持ちの悪い変わりようだった。
わたしは部活を理由に、適応プログラムへの出席を辞退していた。事前テストでは、適応していることになっていたので、参加は任意だった。
だって、心をいじくられるの、すっごい気持ち悪い。
弟が火星行きを拒まなくなったことにほっとした半面、人の変わったような目つきには腫れ物を触る心地で家族は接した。
ロケットから降り立った弟は、プラスチック製の記念切符を戦利品のように、自慢げに胸ポケットに仕舞った。そしてこう誇らしげに宣言した。
ここで俺は火星の大統領になってやる!
*
到着した空港には、スーパーとジャンクフード店が入っていた。寂れたスーパーにはレジと品出しの、合わせて二人の従業員の姿しかなかった。食料の買い物は後回しにして、まずはジャンクフード店にわたしたちは駆け込んだ。
宇宙食に飽き飽きしていたわたしたちは、早速こってりしたハンバーガーとポテトを頬張った。地球で食べていた味とまったく同じだった。
もちろん、それは当然のことだ。でも、わたしたちは相席の老夫婦の話を聞かされて、言葉を失った。鋭い目つきの弟の表情まで曇った。このジャンクフードはすべて地球で生産されたものを、そのまま輸送ロケットで運び込んだものだった。巨大な冷凍庫が地下にあるのだそうだ。
だから、ジャンクフードの価格は地球の三十倍近くした。それでもわたしたちはこの店を求めた。わたしたち一家だけではない、同機に乗り合わせた移住者の大半が、一斉にこのジャンクフード店に流れ込み、高価すぎるチープな食事を懐かしく味わいながら、今後の素晴らしい生活のことに思い巡らせていた。
どんなに高価でも、旅の疲れには食べ慣れた味が一番だった。
店を出ると外はまだ雨だった。そういえば店内には一切BGMが流れていなかったな、と気づいた。ずっと雨の音と人の喋る声だけが聞こえていたな。
店を出てからずっと、弟の様子が少しおかしかった。
*
わたしは早々にホームシックに罹った。のっけからの敗残者だった。家にいると息が詰まった。常にどこかへ行かなければ、という強い衝動に囚われながら、行き場所もなく家に閉じこもっていた。
でも、どこへ?
わたしたちはこれからどこにいくことができるというの?
火星移住は完全な片道切符だった。わたしは学校の屋上にそっと忍び込み、さらに給水塔のてっぺんまで登って、そこから景色を見ることが一番好きだった。先生に見つかったら、すっごい怒られるだろうけれど。
給水塔のてっぺんからは砂漠が一望できた。そこには砂しかなかった。乾いた景観がわたしの中に続いて広がるような錯覚にいつも襲われた。わたしは砂漠で、砂漠はわたし。
ずっとずっと昔、ここに似た場所で違う誰かが、今のわたしのようにこの砂漠を見ている既視感があった。彼女もこの星で、ただ闇雲に砂漠を眺めている。
*
一度だけ、給水塔で他の人に見つかったことがあった。いつものように眺めていると、ふと足音が近づいてきた。弟だった。
弟の目の輝きは、火星に来てから元の静けさに戻っていた。あのギラギラした刺々しさが消えてしまうと、また可愛らしい彼に戻っていた。移住適応プログラムの洗脳から覚めたのだ。わたしたちは安心した半面、メンタルの維持は大丈夫だろうかという不安もあった。
でも、杞憂だった。たった今、はっきりした。
横に腰掛けた弟の目も、また砂漠に吸い込まれていた。
わたしは体は弱いけれど、彼は何に頼ることなく火星を切り拓いていく。わたしには予知能力があるんだから、これは間違いない。弟の横顔をチラ見しながら、そう心の中で彼に伝えた。テレパシー能力はないはずだけれど、聞こえたかな?
ま、いいや。
わたしの目も、再び火星の砂漠を眺め続けた。
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