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取り違え



バス、もう来ませんよ。


 降りしきる雨の中、街灯のある闇の中、ベンチに座る少女に向けられたセリフは、その場に久しぶりに生み落とされた言葉だった。
男はそれから黙っていた。ひたすら傘をさして立っていた。ただでさえ雨音が騒がしいのに、これ以上言葉を散らかしても仕方ないと思ったから。マスクの中、2、3のため息を吐くまでに留めた。セリフは依然として転がっている。
少女は傘を持っていなかった。駅前のバス停にありがちな細長い屋根が、なんとなく彼女を守っていた。彼女もなかなか黙っていた。セリフは未だころころと動き続ける。
 突然、この、どこか象徴的なシーンの後ろから、似合わない靴音が近づいてきた。


あー、間に合わなかったかー!


 転がり続けていたセリフは、カバンを雨よけにしたスーツ姿の彼に拾われた。男の横で、息を切らしている彼は真面目そうな顔つきだったが、その印象を確かめられないほどに衣服と髪が乱れていた。彼が不用意に落とした、なんで間違えるかなぁという言葉は一瞬で湿気に消えた。

傘、持ってないんですか。

 雨はいっそう激しさを増してきた。コンクリートと雨の奏でる音はいたずらに踊り回る。眠れない夜を言い訳する様に。眠りたい夜を邪魔するように。3者3様の夜の、全てにでしゃばって。
人間3人傘1つのアンバランスを転がるセリフは、雨音に消えたわけではなかったらしい。ただ黙って座り続ける少女が拾い上げた。

雨より先に、ここに来たので。


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