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隣のおねーさん



 僕ん家の隣のおねーさんは、いつもカカシを連れている。いや、正確に言うと、いつもカカシに連れられている。
 おねーさんはいつでも真っ赤なレインコートを着て、右腕を前に突き出している。その手には、おねーさんより身長の高いカカシのボディーが握られている。
 僕ん家の前には公園がある。おねーさんはよくそこの時計の前に立っている。おねーさんの通行経路はすぐにわかる。カカシの軸(脚?)が線を引くからだ。公園の砂利の上を、ガリガリ言わせて闊歩する。前よりカカシの背が少し小さくなった気がする。
 おねーさんはただ立っている。誰かを待っているようにも見える。誰も待っていないようにも見える。雨の日もただ立っている。だからいつもレインコートを着ているのかもしれない。それなら理にかなっている。カカシは雨に打たれている。
 おねーさんは話さない。挨拶をしても返さない。スーパーで見かけたときだって、会計時にも話さない。もちろんカカシを連れているから、袋は左に持っていた。普通に生活しているんだと思って、僕は何故だかうれしくなった。
 僕は昔たった一度だけ、おねーさんの顔を見た。いつもはフードを目深に被って、ほとんど顔が見えないけれど、その日はなんだかご機嫌みたいで、世界をちょっと覗いていた。青白い顔と赤い口紅。キョロキョロした目をよく覚えている。それはまだ何も知らないような、全てを理解し尽くしたような、どちらにも見える顔つきだった。けど僕が一番覚えているのは、左頬にある二つの黒子。カカシの頬にも黒子があった。
 もしかするとカカシはおねーさん自身なのかもしれない。何もわからない僕はそう思っていた。だから何だと言われたら、何でもないとしか言えない。おねーさんはやっぱり不思議だ。
 ある日僕は学校帰りにすごく凄く嫌なものを見た。いつもの場所の時計の前に怖い先輩たちがいた。おねーさんの両手はだらり。壊れたカカシをただ見つめてた。それでもただただ立って黙って、結局先輩たちが先に帰った。夜になってもおねーさんはまだ立っていた。僕はなんにもできなかった。
 それからおねーさんを見なくなった。隣の部屋は売りに出された。パパとママは喜んでいた。僕はとっても悲しくなった。
 僕には何もわからない。おねーさんがどこへ行ったのか。どうしてカカシを連れていたのか。どうして何も話さないのか。僕には何もわからない。
 今日もどこかであのおねーさんが元気に生きていればいいと思う。何もわからない僕なりに、そう思う。



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