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『いろいろムズイなぁ』

ここのところ『いろいろムズイなぁ』という場面に出喰わすことが多い。そんなこんなで色々と相談されたり意見を求められて言葉に窮しているんだけど、頭の中では最近は常に、こんなことをツラツラ考えている。
 
●人の言葉は、送り手と受け手の間で、大小の差はあれど、必ずどこかがズレる。どんなに信頼している相手であっても、送り手が考えているようなイメージで受け手に伝わる訳ではない。たぶん、どんなに頑張っても1割くらいは何らかズレて受け止められている。ましてや信頼してない相手に送る言葉は9割以上ズレて受け止められても仕方がない。
●そのズレはそれぞれの知見や経験と、人生と存在の座標軸の差から起こる。例えオヤキョウダイであっても同じ人格ではないのだから当たり前である。自分の発した言葉はズレることを考慮に入れて行動すれば、もう少し事態を悪化させずに済んだ、なんてこともあるのかもしれない。
●人は完全には解り合えない。解り合えないから「じゃあ、どうやったらお互いケンカせずに上手くやれるかね」とお互い協力し合う必要がある。時に多少はぶつかり合いながらもそれを探る努力が大事だ。7割でもそれが実現できれば上出来なんじゃないかと思う。
●逆に相手を信頼しきってしまう人の多くは、その甘えが相手の負担になっていることに気付かない。自分が頼り過ぎてしまう甘えが相手との溝をジワジワと広げてしまい、取り返しのつかない距離になってしまうまで気が付かなかった、というケースを割と見かける。
●信頼というのは、小さい信頼で縫い合わされたパッチワークのようなものだ。けっして真っ新な一枚の布ではない。一枚布ではないから簡単に破れない。違う柄の布地が組み合わさるから唯一無二の面白い模様が出来る。小さい布は個人個人かもしれないし、同じ人の一つ一つの行動かもしれない。
●ところが、お互い縫い合わせていたところが全く別で、全く繋がりもしないこともある。そういう時は相手の布に穴を開けたり破いたりするのではなく、いったん別の布であり続けるのも一つの手ではある。ぶつからずに旗としてエールを送り合い続けることも可能なのではないか。
 
実際「こうするべきだ!」「こうであるはずだ!」「そもそもこうなのだ!」だから『答えはこれしかない』なんて断言で来ることは一つもない。事象というものは林檎のフォルムをどこから見るか・その断面をどこから切るかでいくらも形が変わってしまうのと似ていて、どこまでいっても評価なんて定まらない。もっと柔軟にアレコレと色んな考え方を試しながら、自分にとって、よりよい方法を日々考えるしか、自分の目の前にある一つ一つをコツコツと片付けるしかないんじゃないか、その時「失敗した」と思っても、それも一つの過程として考えればイイんじゃないの? 人間は絶えず間違えるんだからサ、心配ない、何とかなるよ。

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