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読書感想 E.M.デラフィールド『帰ってきたソフィ・メイスン』

本記事は、小説『帰ってきたソフィ・メイスン』の感想を主としますが、
以前投稿した<動画感想 『【ゆっくり文庫リスペクト】E.M.デラフィールド『帰ってきたソフィ・メイスン(日本版)』>の追記的な内容も含んでいます。


ネタバレも含みますので、原著及びmkt_mith 様の動画のご視聴を先にお勧めします。


◇作品について

『帰ってきたソフィ・メイスン』<Sophy Mason Comes Back>はイギリスの作家E.M.デラフィールド(E. M. Delafield)により1930年に書かれた短編小説。
現在最も読みやすいのは「怪奇小説傑作集2(創元推理文庫)」の古本の入手だろうか。(私はこれを入手した)
簡単にあらすじを述べると、
『20世紀初頭、イギリス人の心霊研究家フェンウィックが語る南フランスで見た女幽霊ソフィ・メイスンの悲劇的な過去。そして、彼女の出現がいかに恐ろしい光景を見せたか』
と、いったところか。
ここまでなら普通の怪談。

ここから少しネタバレ。

物語の語り手のフェンウィックは、出現した女幽霊ソフィ・メイスンには恐れを抱かなかった。
本当に恐れたのは、

彼女を見えなかった『ある人物』だった。

ここよりがっつりネタバレして語っていきます。

◇帰ってきた魂<ルヴナン>

本作で登場するのは翻訳上『幽霊』と訳されるが、正確には『ゴースト』
より正確にはフランスの幽鬼『ルヴナン(revenant)』である。
意味合い的には、「この世に残った亡霊ではなく、あの世から戻ってきた霊魂」といった感じらしい。(少し調べただけなので正確でないかもしれないので、詳しい方は教えていだきたい)
なので、タイトルも『帰ってきた』ソフィ・メイスンなのだろう。
ただ、ここでちょっと疑問なのはフェンウィックがルヴナンと称するソフィ・メイスン女史、彼女はイギリス人なのである。
じゃあ、見たのはフランスの『ルヴナン』じゃなくてイギリスの『ゴースト』なのでは? 
こうなると外国の方も日本で死んだら『幽霊』になるのだろうか?
――閑話休題。
とりあえず、ここで述べておきたいのは、死者が再びこの世に戻ってきたことである。
理由は『ある人物』が彼女のいた屋敷に41年ぶりに戻ってきたため。
その人物とは、「アルシード・ラモット」。物語の舞台となる南フランスの町の百姓のせがれの男(徴兵経験がある)。そして、ソフィ・メイスンの恋人にして、身勝手に彼女の命をお腹の子ごと奪った殺人犯である。彼女を殺した後アメリカに逃亡。その後、波乱万丈の経験をして成功した彼が名前を変えて屋敷に戻ってきた時、ソフィ・メイスンは冥府の世界より戻り、語り手フェンウィックを含む会食中の人々の前に姿を現した。
幾人か以外の目の前に。

◇恐ろしいもの

軽く前述したが、ソフィ・メイスンが戻ってきた時、アルシード・ラモットは彼女を視認どころか、彼女の泣く声、あまつさえ気配すら微塵に感じ取れなかった(せっかくゴーストらしくわざわざドアを開いて現れたのに)。それどころか、自身の外国での成功談を夢中で話し続けた。
男の中では自分が殺したソフィ・メイスンなどもう何の意味もなくなっていたのである。年代の重みに彼女存在は惨めに押しつぶされ消えていた。
フェンウィックはこの人物に、恐怖し震えあがったと語り物語は終わる。
この辺は原作や紹介した動画をぜひ見ていただきたい。
恐ろしさと悲しさが十分に伝わるだろう。

◇見える者と見えない者

さて、以前投稿した動画感想では、その人が生きている世界、『過去か未来か』が霊魂を見えるかどうかの境だと述べたが、原作を読んでみると少し違うようだ。
アルシード・ラモットの他にも彼女を視認できなかった、もしくは明瞭に見えなかった人物がいたのである
まず、ソフィ・メイスンを子供の世話係に雇った屋敷の主人にしてぶどう酒商人の老人彼は異様な気配を感じれはすれど彼女の姿は見えなかった。
また、彼の息子でソフィ・メイスンの世話を受けていたアメデ(語り手でフェンウィックの友人。彼を屋敷に招いた人物)。彼はおぼろげにしか見えなかった。
しかし、一方でフェンウィックとアメデの若い妻の両名は、ソフィ・メイスンを生きた姿そっくりに見ることができたのだった。
不思議な話である。
生前のソフィ・メイスンに近しい人物ほど、彼女を認識することができていない。
なぜだろうか?

200502 図 帰ってきた


一応、作中では魂の波動を感じ取る受容状態が要因だと述べ、より恐怖で強い緊張状態のためアメデの妻ははっきり霊魂を見えたのではとフェンウィックに語らせている。しかし、特に強く恐れていないフェンウィック自身も同様の姿が視認できたため実際は違うのだろう。
私は、ソフィ・メイスンの死体の遺棄され方がヒントなのではと考える。

◇埋められたソフィ・メイスン

彼女はアルシード・ラモットによる絞殺後、屋敷近くの森の中、落葉が降り積もった溝の底へと埋められる。その15年後、骨となった彼女の遺骸は町の農夫に偶然発見され大人になったアメデの元へ報告がされた。しかし、彼は法廷や調査機関に報告せず、身元不明の遺骸として埋葬してしまった。考えるまでもなく、犯人は彼女の失踪後すぐに姿を消した恋人のアルシード・ラモットであるとわかるのに。
この辺は、南フランスの特有の風土がことを荒げるのを嫌った結果らしいのだが、注目したいのはアメデが世話を受けたソフィ・メイスンを無縁墓地へ埋めてしまったことである。彼には幼いころ世話を受けた共に過ごした思い出があるはず。だが、それを無視して彼女を再び埋めてしまった
他の見えなかった人物についても考える。
アメデの父(ぶどう酒商人の老人)は、ソフィ・メイスンの失踪は彼女がアルシード・ラモットに一緒にアメリカへ付いていったからだという解釈に満足していた。彼も彼女のことをほぼ気にかけていない
そして、アルシード・ラモットは述べてきた通り、ソフィ・メイスンのことなど欠片も覚えていない
つまり、こう考えられるのではないだろうか。
ソフィ・メイスンの霊魂は無関係な人間ほど見えたわけではない。
彼女を記憶の中により埋めてしまった人物ほどより見えなくなったのだと。

◇涙するルヴラン

さて、この物語を少し不思議に思う人がいるかもしれない。
ソフィ・メイスンにとって、自分を捨て殺した男が返ってきたのだ。雨月物語の吉備津の釜の幽霊ごとく復讐のため舞い戻ってきてもおかしくはない、と。
しかし、再び現れたソフィ・メイスンの姿は、惨めにやつれきり、泣きじゃくる様だった。家に入ってきただけで、呪い殺すような日本の幽霊と比べてかなり大人しい。
西洋と東洋の文化の違いもあるのかもしれないが、そうではないだろう。
人が泣くのは、当然悲しいとき。
ソフィ・メイスンも悲観していたと思われる。
そうするしかなかったのだ。
前述した会食の光景が全てを物語る。

『誰も自分のことなど気にしていない。』

ソフィ・メイスンの人生は『孤独』である。世間に内証の生まれで、大人になってからの身内はイギリスにいる薄情な伯母だけ。フランスに来たのも自国では身寄りも仕事もないからである。フランスの田舎の男に簡単に引っかかってしまったのも考えさせられる。
そして、その男にあっさり見捨てられ殺される。雇い主は捜索せず気にかけない。見つけられた亡骸は無碍な扱い。極めつけは、前述した結末。
『自分を見てほしい人間ほど、見せられない。』
ソフィ・メイスンの達観した悲壮感がうかがえる。

◇怪談

この物語は、怪談である。
「怪奇小説傑作集2」の解説にて平井 呈一氏が純粋ホラー小説と称した超自然の恐怖ではない、人間性の一面を強烈に突き付ける戦慄の話
1人の悲しい人生を送った女性がいた。そんな彼女を簡単に忘却してしまう人々がいた。悪人だけでなく普通の人もいた。彼らに共通するのは薄情さである。異国の田舎の気質がより如実に出たのかもしれない。しかし、これはこの地方だけのものといえないだろう。

改めて、前回の記事同様の最後を問いたい。
あなたのその背後、

そこに『涙を流すルヴラン』は見えませんか?


◇終わりに

私がこの作品に出会い、妄想できたのは偶然です。
動画を投稿してくださったmkt_mith 様には感謝の念に堪えません。
本当にありがとうございました。
また、古くも新しい世界との良い出会いがあることを願っています。

※ヘッダー画像はみんなのフォトギャラリーよりお借りしました。

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