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 スポットライトはめくりに当てられていて、そこには『ん。』と書かれている。高座の緋毛氈は暗がりを吸い、まるで舞台裏のように沈んでいる。高座に落語家はまだいない。楽屋で噺の準備を粛々と進めているのだろう。座に向けられた客席の声はさざなみで、害にならない擦音が割と単調に流れている。緊張は薄く、本日の出し物に期待が寄せられていないことがうかがい知れる。
 こんな日もある。だけどこんな日だから安く入れた。暇つぶしの人生のいっときの塗りつぶしにふさわしい時間の使い方。

『ん。』
 それってどんな演目なのだろう。開演にはまだ時間があった。そのせいで、いつもの悪い癖が顔を出す。想像がまだ見ぬ落語家を高座に現わし、噺に就かせる。くだらない噺だ。いや、くだらないのはむしろチンケな想像のほうだということくらい最初からわかっている。それでも持たない間を埋める想像が走り始めてしまったのだ。

『ん。』が玩具の箱から飛び出すようにめくりから剥がれ出て、クネと身を捩ったかと思うと次には空転し始めた。

 物語は、想像の中で走り始める。噺家が口火を切った。

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 犬はおまわりさんで、子猫は迷子さん。雉はお見張さんで、猿は大火傷でさんざん無惨。助けた亀に連れられ竜宮城で乙姫さん、しまいにゃ海の太郎は蓋開けてツケを払ってお爺さん。

 桃の太郎は鬼退治を終えて物見遊山、金の太郎は熊と一緒にお相撲さん。花咲か爺さんご苦労さん。おむすびころりん、お待っとさん。

 ピンチはチャンスだ、一休さん。裸足で駆けてくサザエさん。助けてもらってばかりののび太さん。
 あれ? 昔話のつもりが軌道がずれたよ、噺家さん。新たな主役は今の時代に欠かせぬ漫画家さん。

 辛酸、推参、降参、自画自賛。昔話は漫画も抱えて社会の縮図だ、無形遺産?

 語り部、ここまで一息で話したら、息が上がって喉はからから、自分を労いお疲れさん。
 はい、これで終いよ、さようなら。 

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 最低の土台は築いた。比べれば前座落語家の噺もちったあ楽しめるに違いない。
 このようにしてガチガチになった舞台前の緊張をほぐすようにしている。

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