「子の無い人生」♦酒井順子 ①

「子供のいない人生」について語られた書籍やコラムは数多くあるだろうが、これほどまでに分かりやすく、客観的な視点でありながら、ズキンズキンとツボをつく書籍は無かったのではないだろうか。

さすが酒井順子。

思えば私自身、酒井順子の『お年頃』から彼女の著作のお世話になっている。『お年頃』で女子高生の生態に胸躍らせ、『おかげさま』を読みながら就職活動をあくせくとこなし、『会社人間失格!!』を読んで共に会社を辞め、『負け犬の遠吠え』でちぎれそうになるほど首を縦に振り、
そしていま『子の無い人生』でまた胸がズキズキしている。

酒井順子に魅かれる=似た人生の路線を辿る、ということなのだろうか。ふふ。もちろん酒井さんのような華々しい作家人生とは180度違う平凡な人生だが、根底に流れるスピリットにシンパシーを感じてしまう。

酒井さんが産まれたのが1966年。自分は1974年なので、8年のギャップはあるが、世の中の女性として感じてきた想いには一部重なる部分もあったと思う。だからこそ共感せざるを得ない。

自分が就職した時は男女雇用機会均等法もすっかり定着しきっていて、当たり前のように総合職に。そんな自分も誇らしく、「男も女も関係ないもんね!」と昼夜問わずバリバリと働いてしまった。ほぼ40歳でやっと結婚。「医療は進んでるから40過ぎても子供産めるわよ!」という母親を始めとした周囲の言葉も刷り込まれていたので、焦ることもなく子作りにやっと突入。
しかし同時に、東尾理子をはじめとして「不妊治療」という言葉もポピュラーに。

産めるのか?それとも不妊治療しないと産めないのか?

よく分からぬまま不妊クリニックの門を叩いたところ、ばっさりと「産めません」という回答をいただきました。

不妊というのは、元来35歳以前にして、何らかの理由で生殖機能に問題が生ずること、だと思うのだが、その理由が今や「高齢で、卵子が老化しているため」という内容もポピュラーになってきてしまい、当事者としては何が何やら分からなくなってしまった。

もちろんバカではないので(だいぶバカな方ではあるが)、35歳以降、自然妊娠がしにくくなるということは本能的に分かっていた。ただ、これもインターネットのおかげなのだろうか、アラウンドフォーティでもまるで軽々と妊娠をしましたというような内容の情報がどんどん飛び込んでくる。イケるのかもしれない、と思ってしまった。「卵子老化」というワードも目には入っていたが、それよりも「産んだ」という楽観的な方を記憶中枢に留めていた気がする。

「卵子老化」というワードを、これからは白地に赤い文字で、これでもかと掲げていくことが必要で、実際そうなってきていると思う。

そのきっかけ作りをしたことが、わたし達世代の役目だったのだろうか。


結婚して初めて分かることというものもある。
まず、『子の無い人生』でも真っ先に出てくる年賀状問題。

独身時代はガン無視していた年賀状の世界だが、結婚すると、交わすようになる。でもそこで気づく、年賀状というのは、子供の成長状態を伝えるツールなんだということを。ここでまず子無の壁が。

そして家族同士の集まり。
お盆と正月、年に2回、夫の両親、夫の兄弟家族らと集まる。
夫の兄弟家族には小さな子どもたちがおり、その母親は子供の世話に甲斐甲斐しく動き回り、子供を通して会話をする。
一方子供のいない我々夫婦は特別提供できる目ぼしい話題もなく、目の前にある大皿の寿司をつまむことに集中していた。その時のなんとも言えない気持ち。なぜ私はいい年をして体一つで訪問し、おいしい寿司をごちそうになっているのか。何のために来てるんだわたしは、わたしたち夫婦は、と。

ああ、子供がいないってこういうことなんだと思った。

生きやすい・生き辛いというのは、単純に「多いか・少ないか」ということなのかもしれない。

当たり前のように男性に従順で、若くして結婚をし、子供を産んでいたら、どれだけ生きやすかっただろうか、と浅はかな考えを巡らすこともある。そういう人生を辿っていれば全ての人が生きやすいという訳ではないのだが。

生き方が多様化するということは、どうしても少数派がいるということで、少数派に合わせた世の中はできていない訳だから、そういう人たちは少しずつだが声を挙げるようになる。やはりでこぼこ道より、平坦な道の方が歩きやすいし、長く歩けそうな気がするし。

そうやって、様々な類の少数派がこれからも何かと生まれてきて、そのたびに「この道を、平坦にして下さい。歩きやすくしてください。」と訴えていくのだろう。多数派がそれを受け入れてくれると私は信じている。受け入れてくれないとしたら、訴え続けていくしかない。

酒井順子さんは「子の無い人生」のおわりに、
『この先の人生において、「子供がいなくてよかった」という気持ちと、「子供を産んでおけばよかった」という気持ちの両方が、浮き沈みを繰り返すのだと思います。』
と書いている。おそらく自分もそうだと思う。

そして最終的に、「子無し」であるご自身の身をどちらかと言えば肯定していると読み取れる。もっと言えば、子アリでも子ナシでも、肯定も否定もしない。それぞれの立場で、それぞれの受け入れ方がある、と。全くその通りだと思う。

以下、抜粋

(子ナシ族が背負う)『荷は重くなくとも、「この荷物、誰かが持ってくれないかな」とか「この峠を越えたら、誰かが待ってくれているはず」といった期待はできるはずもないわけで、ゴールまで自分の足で歩くしかありません。子アリ族の中には、誰かに荷物を持ってもらったり、車で迎えに来てもらえる人も、いるでしょう。「重い荷を背負ってきてよかった」と思う瞬間です。そして私はそんな人達のことを指をくわえて眺めつつも、死ぬまで小さなリュックを一つ背負って、とぼとぼと歩いてゆくしかないのだと思います。』

と締めている。私も夫とそれぞれ自分で自分のリュックを抱えながら、一足一足踏みしめながら歩いて行く。もっと早く結婚すれば良かったと思わなくもない。が、これが私の人生。これが私が選んできた道なので。


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