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写真を撮る、ということ。

写真を撮る。

このなんてことない動作を
なんてことない思いでやっている人がたくさんいる。

私だってそのひとりだったりする。

しかもなんてことない動作で撮った写真が
とんでもなく胸を打ったり
誰かを笑顔にしたりするんだから
なかなかに厄介なことだ。

写真を撮るということはそれだけ魅力のあることなのだ。

とはいえ、
写真を撮る人の目的は様々。

そもそも写真は「残るもの」だ。
「残す」つもりで撮っている人もたくさんいる。

この瞬間を、この美しさを、この景色を。

でも私はなんだかちょっと違う。

残すために撮っているとか
誰かに見せたいから撮っているとか
そういうのとは全然違う。

いっそ、残らなくてもいい。

それくらいの、そういう気持ちで、シャッターを切っている。

では私はなぜ写真を撮っているのか。
私は一体何を撮影しているんだ。

そう聞かれたら説明するのはとても難しい。

でも私は写真を撮るのが好き。

それは私の気持ちが写るから。

寂しい時は寂しいものが
悲しい時は悲しいものが
嬉しい時は嬉しいものが
絶対にちゃんとそこには写っている。

だから誰かから見てくだらない写真でもどうでもいい。

私の気持ちがきちんと写っていれば
それは私にとってとても感慨深い情景だ。

撮ることは見ること。
見るということは心を向けること。

だから、写真を見たら私が何に心を向けていたのか
ぜーんぶ写っている。

嘘がつけないのが写真だから
写真はとても楽しい。

誰かを撮ったら誰かへの気持ちや
相手からの私への気持ちも写ってしまう。

見つめ合ったものが切り取られてしまうから。
その関係性がしっかりと収まってしまう。

私が死んでしまう時、
私が撮り続けてきた写真たちが
いっぺんにこの世から消えてなくなってもいい。

でも今は
気持ちを向けた先の何かを
写真に撮っていたいと思う。

その時の気持ちを写真からまた受け取りながら
しみじみして生きていきたい。

だから私はオートではなく
マニュアルでピントを合わせてシャッターを切る。

合わせているピントは
ファインダーの向こうに見える景色と
私の心の中のとらえにくい気持ちだ。

それがぴたりとはまった時に
シャッターボタンを押す。

外の世界と私の心の中を繋ぐツールが
私にはカメラとレンズなんだと思う。

撮影して出来上がった1枚の写真に
その時の外と中がきれいに写し出されている。

その繋がりが面白くて
しみじみ楽しくて
大事にシャッターを切る。

カメラの性能やレンズの性能よりも
もっともっと大事なのは
いかにきちんとその時の私の気持ちが写せているか。

だからめちゃくちゃ機材にこだわって
あれこれ集めたりはしない。

気に入ったものを壊れるまで使いたい。

だから出会ったカメラやレンズはいつまでも使うたびに愛おしい。

残すためでもなく
誰かに見せたいからでもなく
自分の中と外を繋いでしみじみ楽しむために
私はこれからも写真を撮り続ける。

趣味、とひとことでまとめてしまうにはなんだか微妙に違う。

もっと大切な、
だけどじんわりしたひっそりしたこと。

それが私にとっての撮るということ。

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