写真における「言語を介さない思考」

私は写真を撮ることが好きである。旅行先では大量に写真を撮るし、ちょっとした出先で良い光景に出会ったとき、なぜカメラを持ってこなかったのだろうと悔やむことはとても頻繁にある。

しかし、なぜこんなにも写真を撮ることに熱中しているのか、それは自分でもよく分からない。

世の中には写真を趣味としている人が大勢いる。そして、そのような人たちの写真を撮る動機も様々であると思う。

この記事、そしてこれに続いて書こうとしている記事群は、一般的な写真愛好家のモチベーションやその傾向などは置いておいて、写真をとりまくこれまでの私自身の思考を振り返り、それを文章の形で、主に未来の自分へ向けて、残そうとするものである。この駄文を読んで面白いと思ってくれる人が少しでもいれば、それは私のこれまでの思考たちにとって、大きな喜びである。


「記録写真」

さて、写真の一つの役割として、「記録」が挙げられる。たとえば、以下の写真。

画像1

この写真は、2011年9月23日に千葉県内で私が撮影したもので、1960年代から日本中を走ってきた113系という電車が、ついに総武本線から完全に引退するということで、営業運転終了ののち、抽選で選ばれた乗客のみを乗せた臨時団体列車として運行された様子を撮影したものである。

上の写真を例にとって、写真における記録とは(私にとって)どういうものかを考えてみたい。

この写真から読み取れる事柄はたくさんある。まずは、この日、このような列車が、この区間を走ったということ。この車両は既に廃車となっており、もう二度とこのような光景を見ることはできない。その意味で、もう既にこの世に存在しないものが、確かに以前あったということをこの写真は教えてくれる。

ここで、もう二度とこのような光景を見ることはできないという点についてもう少し考えを進めてみる。上の写真の左端に他の撮影者の右肘が映り込んでいることからも分かる通り、この日は大量の鉄道ファンが詰めかけており、この列車はそれだけ人気であった。では、もしこれが引退のイベント列車ではなく、毎日何十本も走っているステンレス製の通勤車両であればどうだろう。

画像2

これは同じ日に同じ場所で試し撮りとして撮影した、「珍しくない」車両である。この日は多くのファンが試し撮りとしてこの列車を撮影していたかもしれないが、基本的にこのような列車に大勢のファンがカメラを向けることはない。しかし、この列車が、このくらいの明るさの日のこの時間帯にこの区間を通過し、そして草の伸び具合はこのくらいで、足回りの汚れ具合はこのくらいで...という光景もまた、二度と見ることはできないものである。

このようなありふれた思考を極限まで続けていくと、同じ瞬間は二度と訪れないということ、短く言えば「時間の一回性」という自明だが残酷な事実に辿り付く。この点から言えば、全ての写真はもう既にこの世に存在しないものが、確かに以前あったことの証明である。全ての写真はそのような意味で「記録写真」である。

写真における「情報」

さて、時間の一回性にまで立ち戻ると、全ての写真はひとしく「貴重」なものになるが、実際の写真の扱われ方はそうではない。現に、上で挙げた2枚の写真のうちどちらがより貴重かと聞けば、ほどんとの鉄道ファンは1枚目だと答えるだろう。それは、人間が写真を見てその価値を判断するとき、写真から何らかの情報を抜き出し、それによって判断しているからだと言える。

例えば1枚目の写真であれば、まずはそのような列車が走っていたこと。それから、「ありがとう113系」というヘッドマークを付けていたこと、「団体」という幕を掲げていたこと、一両目後部の窓を開けて顔を出していた人がいたこと、線路のレールの間に草が生えていたこと、曇っていたが薄日が差していたこと(車両で反射しているため分かる)...。その他、細かく見ることによって、様々な情報を得ることができる。

もちろん、2枚目の写真も同様に細かく見ればたくさんの情報を引き出すことはできる。ただ、先述した通り、「1枚目は珍しい光景であり、2枚目はそれほど珍しくない光景である」と多くの鉄道ファンが判断すると考えられる。これは、「1枚目の写真よりも、2枚目の写真から抜き出せる情報の大部分を共有するような写真の方が容易に撮れそうだ(=珍しくない)」というような思考なのではないだろうか。

実際、鉄道に興味のない人からすれば、これらの写真の間に珍しさの差はほとんど感じられないだろう。それは、そのような人がこれらの写真から抜き出せる情報がほぼ一致してしまうからだと言える。

「情報」の代替可能性と「光景」の代替不可能性

さて、上で例示した、写真から抜き出せる情報は、全て日本語の文章で与えられた。言語による表現は、畢竟、有限種類の記号の有限列であり、また時間に依存しない(だからこそ機械的な操作によって扱うことができる)。それは、「替えがきく」ということでもある。つまり、例えば「こ」「ん」「に」「ち」「は」という5文字を組み合わせて「こんにちは」という記号列を作る、ということを、今日やっても明日やっても、私がやっても他人がやっても、ここでやっても10m先でやっても、結果は(記号列としては)同一視される。

一方、先述したとおり、時間の一回性がある限り、現実世界の「光景」は「替えがきかない」。この差異がある限り、「光景」を言語による表現という「記号の有限列」に完全に置き換えることは不可能だと私は考える。(この点については様々な考え方があるかもしれない。たとえば、全ての原子の位置の情報は高々有限であるとか、時間も一つの座標軸に過ぎず、情報の代替可能性と時間の一回性とは特に無関係であるとか、いろいろな反論も可能だと思う。私は、言語という枠で原理的に捉えきれない領域が存在していると信じる方が単純に面白いので、そのような世界観で世界を見ようとしている。)

ここに、写真が持つ重要な役割の1つがあると私は考えている。

人間が扱う「情報」は、「替えがきく」「記号の有限列」である。一方で、「光景」は「替えがきかない」「(ある種)無限のもの」である。そして、最終的には「情報」として人間の思考の中で処理されるのだとしても、光景から情報を抜き出すという無限から有限への変換が行われるタイミングを後ろに引き延ばすことが、写真の1つの効用である。

ここで、写真がその瞬間の光景をそっくりそのまま(「(無限の)情報」を落とさずに)保持できているということは言っていない。むしろそこにも不可避的な差異があり、その点にも写真の魅力は大いにあると考えている(第一、後述するように、写真に落とし込むことによって光景は時間の一回性を失う)。ただここで主張しているのは、写真は代替可能な記号の有限列で捉えきれないものを持っており、また、多くの場合、光景から直接人間が抜き出す情報と、写真を経由して抜き出す情報は一致する(だから写真を間に挟むことによって有限へと落とし込む操作を遅らせることができる)ということである。

このことは現実的な利点もある。たとえば、何気なく撮った日常の風景の写真に撮影者の意図と関係なく映り込んだものが、しばしば、その時代の生活様式を後世に伝える貴重な資料になることがあるが、これが日記などの文字情報であった場合には、記録者が重要視せず書き残さなかった場合、起こりえないことである。これは、時代によって、また人によって、写真からの情報の抜き出し方や優先順位は異なるが、写真という形で残すことによって、情報への変換を後世の人の分析ギリギリまで引き延ばすことができた結果であると言える。これは何もそれほど大きな時間のスケールの話でなくても、過去の自分が撮った写真を今見ると異なる見え方がする、というようなことにも当てはまる。

さて、ここから、なぜ写真は光景を保存できている(と多くの人が納得できている)のかという点、大衆社会との親和性などに話を広げることはせず、もう少し「有限の情報と無限の世界」という対比の中で思考を進めてみたい。

写真は「代替可能」な「無限の」ものである

さて、先ほど、人間が目にした光景を認識するときには、代替不可能かつ有限の情報で表しきれないものから、代替可能な情報という記号の有限列への変換が行われるという点について述べた。そして、多くの場合では、その変換の間に写真を介しても結果はさほど変わらないであろうことも述べた。

一方、写真は「代替可能」なものとも言える。デジタル写真ならば全く劣化なしにコピーすることができるし、そのような議論をするまでもなく、写真は時間に依存せず、変わらずそこにあり続ける(と多くの人が納得できる)。すなわち時間の一回性から解放されている。

このようなある種の二重性、つまり、一方では、有限の情報では捉えきれない世界の(時に残酷な)姿を保持し(「無限」であり)、他方では、時間の流れから解放された、一種の「代替可能」なものとして存在しているという点に、写真がもたらす思考の面白さの一端があると思われる。

人間の思考の対象について

さて、言語が人間の思考の基盤をなすという考え方は、広く流布している。それはむしろ定義といってよいようにも感じられる(言語に基づかない「思考」が存在するかどうかは、単に思考の定義をどうするかという流派の問題であって、真偽が争われるものではないのではということ)。

ただ、私は、1つの信念として、世界には言語では原理上捉えきれない領域が確かに存在していると考えている。そして、その領域へと思考を進めることは、(その確認すら言語では原理的に不可能であるとはいえ、)人間に許された1つの知的な遊びだと思う。

それでは、言語の範疇に収まらないものを思考の対象とする場合、どのようなことが起こるか。その対象が「無限の」ものである限り、そのものの内部のみからいくら情報を得ようとしても、それは常に不完全なものになってしまう。

未知のものを対象に議論を行う際、やはりその出発点となるのは、2つの物が同じか異なるかの判断であると考える。もちろん、同じか異なるかの判断の結果は、そのときに採用している判断基準によって無数に変わりうる(それらを総合して「近いか遠いか」に発展させるのも面白い)が、とにかくまずは同じか異なるかの判断である。

すなわち、そのものの内部を詳しく見ることだけでは原理的に不完全だが、相互の比較によって間接的にそのものを特定していくことによって、その対象をそれとなく思考の範疇に呼び寄せることができるかもしれない。

ここで、相互の比較ということを行う際に最低限必要なのは、代替可能性である。非時間依存性と言ってもいいかもしれない。これがなければ、相互を見比べ、同じか異なるかを判断することはできない(全てが異なるというつまらない結果となって終わりである)。そしてこれは、必ずしも、言語情報が持つある種の有限性を意味するわけではないと考える。その1つの例が、この記事で考えている写真である。

写真における「言語を介さない思考」

写真は、有限の情報で捉えきれないものを内部に含んでいながら、代替可能なものとして存在している(と私は考えている)。そのおかげで、一種の言語を介さない思考を可能にしていると言える。

なにもこれは写真に限ったことではなく、多くの造形美術についても同様のことが言えるだろう。また、意識的に芸術作品として作られたものでなくても、人間が一般に「形」を目の当たりにしたときに、多かれ少なかれ、このような言語を介さない思考は行われていると思う。ただし、写真においては、「光景」のもつ「無限性」の保存が、多くの人の間で共有できる一般性を持っている(誰が撮っても結果は同じ)ゆえに、言語の範疇を超えた領域への思考の進軍がより直接的で、刺激に満ちたものとして感じられる。

写真を目にしたとき、また、自ら構図を決めて写真を撮ろうとするとき、私は何かある種超越的な思考をしているような気分になることがある。それが勘違いであるとか、それは他人には当てはまらないとか、そのような点を議論したいのではない。とにかく、私の現時点での理解では、そのような心理状態にあるとき、私はどこか言語を超越した思考を行っており、そこにはある種の神的な至福があると思われる。私の写真への強い衝動は、1つにはこのような点から生じていると思われる。

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