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無意識下にすり込まれている方角意識—地形と光/陰が作る風景

東京西部に住んですり込まれる「西高東低」の感覚

最近書いたこの記事を読み返していて、とあることに気がついた。

例として挙げたダムの例が、全て西が上流、東が下流という例になっていたのである。何も考えずに書いたこの概念図すらそうである。

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私は東京都西部、西武池袋線や西武新宿線の沿線で育ってきた。小学校の遠足で出かけたのは、西武池袋線・秩父線を西北西の方へ進んで行った飯能や秩父の山々であったし、海や低地を見に行く時には、台場や東京湾アクアラインなどを目指して東へ進んだ。それによって、自分でも気づかないうちに、西に山、東に低地という方向感覚というか、小地形に対する直感が多かれ少なかれ備わってきたのだろうということを、今回再確認した。

方角は、太陽の方向ととても密接に関わる概念である。だから、このような自分に備わった無意識のうちの「西高東低」の意識は、太陽光が関わってくる景観にも大きな影響を与えているはずだ。たとえば、僕の中では夕陽というと山に沈むものだし、西から東へと流れる川に架かる橋から上流方向を眺め、川面に夕陽が反射する、というような光景はとてもなじみがあるが、山から朝日が昇るだとか、川が北に向かって流れ、下流の景色を昼間の太陽を背に受けながら眺めるだとか、そういう光景は思った以上にイメージしにくい。

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私がイメージする夕陽は山に沈むものである(写真は埼玉県狭山市、入間川の広瀬橋付近、2020年2月10日)。

地形と日光の方向の関係による風景認識への影響

このような、その人が長くその地に過ごしたことによる地形順光/逆光方向に関係した風景の知覚のモードのようなものは、かなり根強いものに感じられる。そして、目の前の風景に対し、写真を撮影する時のような、光の方向を意識する見方をするとき、自ら持ち合わせている直感との差異は突然頭をもたげ、脳は混乱する。さらに言えば、遠くへ来たなという実感をもたらすものの中の一大ファクターとして、このような脳の混乱があると思う。

たとえば、私は以前ふとした思いつきで18きっぷで長岡へ行き、夏の昼間の太陽の中、考えなしに駅の近くの信濃川の流れを見に行ったのであるが、南に山が多くそびえ、川の水が北に向かって流れている姿を見て不思議な衝撃を受けた覚えがある(単なる軽い熱中症だったのかもしれないが)。また、離島などでは、少し歩くだけで勾配の方角が変化してしまうので、その混乱も頻繁に起こるように感じる。一方、太陽が沈んでしまえば、そのような混乱はあまり起こらない。夜の街を車で走り抜ける時などはどの方角に進んでいてもあまり景色に差異は感じないものだ。

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離島や半島では「夕陽が山に沈む」と「夕陽が海に沈む」が同時に起きたりする(写真は静岡県熱海市初島、2020年2月18日)。

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千葉県の稲毛海岸や検見川浜は、東京からすぐ近くながら「夕陽が海に沈む」を見られるという意味で私のお気に入りの場所である(写真は稲毛海岸、2013年1月2日)。

人は風景を眺めるとき、際立って言語化されることのないレベルで、小地形から大地形までの様々なスケールの地形と、太陽光の方向により生み出される光と影の織りなす図形の影響を受けている。そして、特定の地域においてはそれらの組み合わせが限定されるために、無意識のうちに「山があるから西」のような直感が育まれるのだと思う。これは少し考えれば思いつく当たり前のことだろうが、今日改めて実感させられたので記した次第である。

さらに言えば、抽象的な地形だけではなく、富士山などの象徴的な山や、特徴的な建造物などの存在する方角も、景観に大きな影響を与える。そのようなファクターに意識的になりながら他の地方の地図を眺めたり、実際にその地を訪れたりすると、意外と新たな発見があったり景色が整理されたりして楽しいものである。また、地域ごとの認識のモードの差異は、今ほど移動が活発ではなかった近世以前の方がより際立っていたであろうから、地名の由来や歴史的な史料を調べる際にもこのような思考方法は時折面白い視点を与えてくれるはずだ。

ところで、方角は先述したように太陽光の方角と密接に関わっている。だからこそ、曇天の日や夜間ではこれは実感されにくいし、光と影に意識的になる瞬間、たとえばカメラを構える瞬間などに、このような思考方式はより顕在化する。このように地形や光と影の造形に敏感になれるという点も、私が風景写真の撮影を面白く感じる一つの要因である。

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