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「正しさ」から「美しさ」にモデリングは昇華するのか

この記事は Goodpatch UI Design Advent Calendar 2018 の9日目の記事です。

なんとなく「かっこいい」「スマート」という動機から「オブジェクトモデリング」をはじめる友人が増え、小さい価値転換が起きていると感じています。

この記事では、オブジェクトモデリングが美意識として定着することの価値や美意識としてさらに深化させる方法について考察します。


美意識への昇華


オブジェクトモデリングという行為が美意識として拡がりはじめている気がします。デザイナーの間で。

オブジェクトモデリングは、抽象・捨象の過程で、共通項をみつけ汎化させる行為が派生したものだと私は解釈しています。

このような行為は、2000年前にプラトン、50年前にダイクストラや20年前にスリーアミーゴスといったレジェンド達が文脈は違えども、その「正しさ」をなんどもなんども証明してきました。

彼らに続いて次のような人々が現れました。

課題に向き合い、仕事の都合上、この「正しさ」をスキルとして会得した人
最初は「正しさ」だけを求めていたが、経験を重ねるうちに、その「美しさ」に気づき魅了された人

しかし、昨今は、

最初から行為自体の「美しさ」に惹かれて、美意識からオブジェクトモデリングを行う人

が増えている印象を受けています。(その「正しさ」への関心や造詣は深くなく、経験を介さずに「美しさ」に魅了されている)

もしそうならば、オブジェクトモデリング自体が、「集団で複雑性に立ち向かう上での生産的な手段」という課題解決から、何か情動的な美意識へと昇華したのではないか?と思えてきて、妙に感激を受けました。



美意識へ昇華すると何なの?


「正しさ」は課題を経験しないと行動につながらない。

「美しさ」は課題を経験しなくても行動につながる。

この考えに基づいて、

自分の美意識に従っていたら、産業に求められる行為を実行していたという人がこれから増えるのではないか?という仮説を抱いたため、妙に感激を受けたんだと思います。

本質的な課題に直面して「正しさ」という答えを求め、モデリングの経験を積み重ねて「美しさ」に気づいた方が良いのかもれしれません。

しかし、ソフトウェアをつくる環境は、黎明期が過ぎ分業化が進み、工程が前後左右で分けられてしまったため、その複雑性や動的な変化という課題を当事者として目の当たりにする機会は減りました

「職種の横断」や「継続的な開発に関与」をしなくても、何とかなる環境が生まれ、課題の本質を理解しにくなっているのです

オブジェクトモデリングの元となる課題やその効用を理解しなくても、

産業として求められる行動喚起を「美しさ」という美意識によって担保できる状態(そして、徐々に経験を積み重ねながら「正しさ」を理解していく)。

「形状加工が容易な素材から道具を作る」という時代背景が、
「素材を生かした」という美意識に
「同じ金型から均一なモノを大量生産する」という時代背景が、
「構成要素の少なさ・均一性」という美意識に

時代背景が美意識に拍車をかけたという事例はこれまでもありました。

今は、ソフトウェアの設計を汲み取った価値観に美意識がアップデートされる瞬間で、それ立ち会っているような感覚を覚えています。


「行為としての美」と「鑑賞としての美」


美意識には拡がりの段階があり、それによって世の中での根付き方が変わってくるという仮説を持っています。

それは、行為としての美鑑賞としての美によって分けられます。

行為としての美は、実行者のコミュニティ内で賞賛される玄人思考なもの
鑑賞としての美は、そのコミュニティを横断しても通じる素人思考なもの

です。

これをソフトウェア文脈で、ひとつの美意識として認知されているgenerative designの文脈で話します。

次のような解像度により過ぎた表現こそ「行為」の美と思っています。

一方、構成要素をテキストに変換したASCII Artは「鑑賞」の美に当たります。

Motion Graphicsにプロシージャルな思想を転用した一連の表現も、「鑑賞」の美の例に挙げられると思います。

かなり主観ではありますが、これらの違いは、抽象・捨象・具象という工程に「転象」という行為があるか否かでわかるのではないかと思います。


抽象・捨象 → 「転象」 → 具象

モデリング(抽象・捨象)したものを形にする(具象)する前段階で、一度、他の似た構造の事象と類推して、それらを織り交ぜるという行為です。

自分自身、うまく言語化できていないものの、日本語でいうと「例える」という行為はそれに近いです。

しかし、「形を他の何かに似せる」という狭義的なものでもなく、構造を模すという意味合いがより含まれるAnalogyという言葉が感覚として近いです。

(※もちろん、必ずすればよいというわけではありません。)

この話をきいて、User Interfaceの文脈では、デスクトップメタファを思い出す人も多いのではないでしょうか。

GUIの歴史上、最初にして最高の転象

GUIをはじめて見た人があれだけ興奮を覚えた(と聞いています)のは、ドキュメントやゴミ箱といったメタファーに溢れ、画面内に完結した循環のある、別世界が見事に表現されていたから。

人々はファイルマネージャーでなく、デスクトップメタファにこそ心を打たれたのだと思います。


「転象」は、いまや不要?


この上で、オブジェクトモデリングという美意識を「行為」に閉じずに「鑑賞」にまで、持っていくために僕は「転象」という過程が必要だと思っています。

これは、以前でいうと、Conceptual Modelを整理する前後で採用されていたというMetaphorに近い感覚なのですが、これをそのまま使えばよいというわけではありません。

Conceptual Modelの例

そもそも、すでに空間的な表現に関してはイディオムとしてすでに学習がされているし、また、ソフトウェア的な表現に慣れた世代にとっては、むしろソフトウェアの世界の言葉で現実世界の事象を表現する逆転現象が起きるくらいにまで文化の基準が変わっています。

Metaphorについては、下の文献でも、Conceptual ModelやMental Modelという項にて、軽く言及されるに留まり、1000ページの中でわずか3ぺージほどしか列挙されていませんでした。表現という意味合いでは1997−2001年時点でイディオムとしてすでにパターン化されており論じる必要がなかったのかな?という印象です。

OOUIを理解する上で読んだ本

Kent BeckとMetaphor

2002年に行われた2人のレジェンドによるディベートでも意外な文脈で「Metaphor」という言葉がでたのでご紹介します。

システム分析・設計をどの工程で誰がすべきか?が主な論点

「エンジニア原理主義」のBeckと「デザイナーをはじめとする様々な職種での共創主義」のAlan Cooperがバチバチに口論するという内容です。

「だったら、なんだ?」
「君はスキルとプロセスの論点を切り分けて話すべきだね」
「君が挙げた事業は成功例として出すことができない。なぜなら、おれがやったらもっと上手くいくから。」

とマウンティング全開で食ってかかり、すべてを論破しようとするKent Beck。

発言の節々から、ビジネス側の人間やデザイナーと呼ばれる人たちをあまり信頼していないことを行間から感じ取ることができるのですが、

「システムを表現するMetaphorを考えるときには、Alan、お前をチームに迎え入れたいと思う」

という終盤の一言は、唯一、デザイナーを歓迎する発言をしているのです。

それまでは、エンジニアがすべて管理すれば上手くいくという主張だったのに、「Metaphor」という文脈においては他業種の力を借りるという姿勢が見られてすごく印象的でした。

彼がこのMetaphorに関して何をさしていたのかがすごく気になるところであります。

結び

オブジェクトモデリングをより深い美意識として定着させるために、「転象」という工程が必要。

という仮説を提示してから、過去の歴史を「転象」という軸で調べてみました。

そもそもこの転象という行為は、プロダクトの成熟期には必要とされていないのか?それとも、私たちがまだ認知しえないどこかに可能性があるのか?

この切り分けから、再検討したいわけではありますが、何か知見をお持ちの方がいらっしゃいましたらぜひコメントをいただければと思います。


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ソフトウェアのPMです。ルールや宗教が、好きです。
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