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長い一日と短い半年がはじまる日

2021年7月4日。太陽より一時間早く、麻野家の和室で目を覚ました。

ぽつりぽつりと、麻野夫婦と言葉を交わす。これからしばらくの間は味わえないであろう、何気ない温かさを噛みしめる。
少しずつ曇り空に光が差しはじめた頃、すっかり心安らぐ場所となった麻野農園をあとにした。


朝のにおいの港から、祝島行きの船に乗り込む。車で送ってくれた麻野家の三人に、船の上から精一杯の感謝を込めて腕を振る。

畑と直接つながっている食卓。
日光と相談しながら作業に出る晴れの日。
野菜の成長に目を細める散歩道。
野菜の愛に触れる収穫のとき。
必死に生きた跡の残る、不揃いな野菜たち。
麻野家族と一緒に笑ったこと、話したこと、見た景色。
農園で過ごした一か月半が、私の頭の中でくるくると踊りだす。

三人の姿は波止場の影に消え、どこか飛行機雲を連想させる白い波が海面に伸びていく。


風が強い日だった。船体を打つ波になるたけ逆らわないよう、座席に体を預けて力を抜く。目をつむり、思いを馳せる。これまでのこと、これからのこと、今このときのこと。

今日から二週間、生まれて初めてひとりで暮らす。人に囲まれて育ってきた私は、果たしてひとりきりの空間を楽しむことができるのか。意味のある二週間にすることができるのか。
落ち着きかけた不安が再び押し寄せ、胸を押さえて波が遠ざかるのを待つ。

船は揺れ続ける。それはまるで、私の心の中のよう。


やがて船の速度が緩やかになり、そして止まった。私のほかに数名いた乗客が席を立ったのを見て、目的地に着いたのだと気づく。散らかった感情の欠片が零れ落ちないよう、そっと椅子から腰を上げる。
荷物が詰まったリュックサックとスーツケースを従えて、震える足で祝島に降り立つ。一瞬だけ、私から音が消えた。

出迎えてくれた二人の島びとを遠くに見つけ、めがけて歩く。お世話になります、と言った私に笑顔で応え、二人は島の中を歩きだす。
雲の隙間から射す朝日の下、その背中を懸命に追いかける。下を向く余裕はなかった。ただ、前だけを見ていた。

ねりへいに挟まれた小道を二人は迷いなく進んでいき、ある一軒家の前で足を止めた。

引き戸を開け、玄関の土間に足を踏み入れる。昔の家特有の、ひんやりとした空気のにおい。荷物を置き、ふう、とひとつ息を吐く。


初めての日々のはじまりの日、
長い一日がはじまる。

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