【映画感想】シャッターアイランド

2020年一発目の映画をなににするかで悩んでいたのだけど、そういえばディカプリオの映画はだいたい観てるのに『シャッターアイランド』は観ていないな、ということに気が付いたので、Netflixで鑑賞した。感想としては、「これマジでよくできてるな」といった感じで、伏線をきっちり見直すために、すでに2回観てしまった。

以下、あらすじと感想の殴り書きになるわけだが、2010年の公開当初、『日本では「衝撃のラスト」という触れ込みで宣伝され、上映前には「この映画のラストはまだ見ていない人には決して話さないでください」「登場人物の目線や仕草にも注目しましょう」という旨のテロップが入った』(Wikipediaより)らしい。よって「まだ観ていない」いうネタバレ反対派は回れ右をオススメする。それでもいいよと言う人はどうぞ。

【ネタバレにならない程度のあらすじ(Wikipediaより)】

1954年、連邦保安官テディ・ダニエルズ(レオナルド・ディカプリオ)とチャック・オール(マーク・ラファロ)ら捜査部隊は、ボストンハーバーの孤島(シャッターアイランド)にあるアッシュクリフ精神病院を訪れる。この島でレイチェル・ソランドという1人の女性が、"The law of 4. who is 67?"(4の法則 67番目は誰?)という謎のメッセージを残して行方不明となった。強制収容されている精神異常犯罪者たちの取り調べを進める中、その病院で行われていたマインドコントロールの事実が明らかとなる。

【以下、ネタバレ及び感想】

物語の終盤、主人公テディはジョン・コーリー医師より、「テディなる人物は存在せず、彼こそが67番目の精神病患者である」という真実を突き付けられる。主人公は、かつて自分の妻が自らの子どもを湖で溺死させ、その妻を自身が殺してしまったという事実を受け入れられず、連邦捜査官であり英雄でもあるテディなる人物を自らの中に作り上げていた。そして病院側はテディを治療する手段として、彼の妄想をすべて現実のものとしてロールプレイすることにしたのであった。

この作品の素晴らしいところは、現実とテディの妄想を巧みに描写しながら、この真実に至るまでの伏線をちりばめたところにある。例えば、現実のテディは妻が子どもたちを溺死させたという過去から、水に対して極度のトラウマを持っている。それを示すわかりやすいシーンが、冒頭のシャッターアイランドに向かう船の中で、テディが何度もえづきながら、海を眺め“It's just water. It's a lot of water. A lot of...”(ただの水じゃないか。たくさんの水だ……)と水に恐怖するシーンだ。また同様に、テディの悪夢を描くシーンでは、放火による火事で亡くなったはずのテディの妻が、ズブ濡れでお腹から血を流している様子が描写されている。これも「子供たちを溺死させたズブ濡れの妻を、テディが射殺したから」という真相への伏線となっている。
テディの妄想を示す特徴的なシーンとしては、患者へのインタビューシーン、そしてC棟の患者ジョージとの会話シーンがあげられるだろう。前者については女性患者が水を飲むシーンでいきなりコップだけが消失していたり、後者についてはマッチがなければ真っ暗闇であるはずの牢が、マッチが消えた後も明るいままであったりする。これはテディの妄想と現実が混同されながら描写されていることを示している。また病院側がテディの妄想に合わせてロールプレイをしていることを端的に示す描写として、消えた女囚人を追っているはずの警備隊があまりにやる気がないことがあげられる。当然である、そもそもレイチェル・ソランドなる女囚人は存在しないのだから。初見では気が付かなかったが、見直してみると本編全体を通して、現実とテディの妄想が巧みに描写されており、病院側がテディのロールプレイに付き合っているだけであることが詳細に描かれている。この映画の真価は初見ではなくむしろ二度目以降の鑑賞にこそあるといえるだろう。

そして、この映画で最も美しいのがやはりラストシーンだ。テディはジョン・コーリー医師に「正気に戻らない限り、ロボトミー手術を君に施すことになる」と告げられる。現実を受け入れ、ロボトミー手術を回避したかのように見えたテディであったが、チャック(本当の名前はドクター・シーアン、テディの主治医)との会話で、彼は「こんな島、早く抜け出そう、チャック」と告げる。テディがやはり現実を受け入れていないと判断したシーアンは、周囲に合図を送り、テディはロボトミー手術を施されることとなった。しかし、テディは本当に真実を理解していなかったのだろうか。シーアンとの最後の会話で彼はこう言うのだ。” Which would be worse, to live as a monster or to die as a good man?”(モンスターとして生きるべきか、善人として死ぬべきか、どっちなんだろうな)と。テディはすべてを理解していた。自分が妻を殺したサイコであることを。しかし彼の心はそれには耐え切れず、善人(a good man)として死ぬことを選択したのであった。個人的な好みの話になるのだが、ぼくはこういう「選択」を問いかける物語が、より厳密に書くと「現実を受け入れず夢に逃避する物語」が大好きだ。例えば、『マトリックス』では救世主ネオが人々に「仮想現実から覚醒して現実に回帰せよ」と人々に問いかけるわけだが、人類サイドの裏切り者であるサイファーはこう言うのだ。” You know, I know this steak doesn't exist. I know that when I put it in my mouth, the Matrix is telling my brain that it is juicy and delicious. After nine years, you know what I realize? Ignorance is bliss.” (俺は、このステーキは存在しないことを知っている。ステーキを口に運ぶと、マトリックスが脳に信号を送ってくる。このステーキはジューシーでおいしいと。9年たって、俺が気づいたことは何だと思う?“知らぬが仏”さ)。誰もがネオのように現実で強く生きられるわけではない。目が覚めたとき、そこは機械の支配する荒廃した異世界であったとしたなら、或いは『シャッターアイランド』のテディのように、自身が妻殺しのサイコであったとしたら。それでも「現実を受け入れろ」と突きつけるのか。現実を受け入れられず、夢に逃避する弱い人間、そういう存在にぼくは共感してしまう。弱い人間にとって夢はひとつの救済なのだ。

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