高校時代

高校に入りバスケ漬けの生活を送った。部員も60名程いた中で1年生の頃から試合に出してもらった。それでも、チームメイトから称賛を受けることは少なかった。高校ではそこそこ地元では名の知れたメンバーが集まったがパスを知らずチームメイトとボールをシェアすることを知らない僕はボールを持つとリングに向かっていってばかりだった。高校2年の練習試合のある日、初めてスタメンから外された。さらに、1秒も出る事はなかった。練習試合に負けた後、皆んなが体育館から帰ったのを見計らい監督室のドアを叩いた。

「なんで試合に出れないんですか?」

そんな直球な質問に、監督は「自分の事ばかり考えるな」とだけ言われて出て行けという合図をされた。夏休みという事もあり練習試合の毎日だった。1秒も試合に出る事ができない日々が何日か続き練習試合から帰ってきた午後、紅白試合が行われた。僕達の高校は、黄色(スタメン)、赤(セカンド)、青(サード)という色分けの構成で試合を回し、残りの40名ほどがコートを囲いながら体幹をする形式だった。その日、高校に入学して初めてコートサイドで体幹をした。3分ゲームが2、3本行われた後に監督から名前を呼ばれ青チームに入った。「従兄弟は日本代表にも入ってる中でおれは、県でベスト4ごときのチームで紅白にも出れないのかよ」そんな思いで何も考えずにコートを駆け回った。チームが変わっていき気付いたらスタメンに戻っていた。そして、練習後に監督に呼ばれ一言だけ「パスを出すなら他の人の方がいい」とだけ言われた。その頃の自分は周りに気を遣いパスばかりになっていたのだ。そして、パスを知らない僕は訳の分からないタイミングでボールを配給し周りのリズムを壊していた。そんな僕に「リングにアタックする事」が長所ということを時間をかけて教えてくれたのだと前向きに捉えている。

「選考会」

そんな僕も最終学年に近づき、国体の選考会に収集された。ウィンターカップの予選でベスト8で敗れたが調子が良く40点取った相手の監督が幸運にも国体の監督だったのだ。そのままメンバーには入ったが補欠の補欠としてユニフォームを着ることはなく、3年に上がる頃に監督が変わり永遠の別れかの様な号泣をした後、もともと個性派なチームだった僕達は大崩れし、インターハイ予選もベスト16で高校生活を終えた。

そして、国体の監督から「全額免除で大学に行ける」という話をもらい、そのまま大学に進学した話は次に書こうと思う。

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