もう少し

ゲームモデルとプレーモデルの謎。

皆さんはもうお読みになられたでしょうか、footballistaの2月号、戦術的ピリオダイゼーション特集。

提唱者ヴィトール・フラーデ氏による記事もあり、中々充実していたと思います。

あ、アフィは設定してないですよ。

さて、戦術的ピリオダイゼーションの話題となるといつも気になるのは「モデル」の前につく言葉はなんなのか問題。

ヴィトール・フラーデ氏や、奈良クラブ林監督はゲームモデルとしていますが、一方一般的にはプレーモデルの言葉のほうが流布していると感じています。

今回はそれについて、仮の考えをばばばーっと書いていきます。

Jリーグ中断の間の暇つぶしですからね。もう軽いノリで。あーそういう見方もあるのかー程度に。あっさり読める感じで行きますね。



●「プレーモデル」になにかしっくりこない。

この件について問題視することになったのは、昨年12月に出版された「岡田メソッド」がきっかけでした。

この岡田メソッドはプレーモデルを確立して指導に活かそうとする趣旨の一冊で内容は大変興味深いのですが、その前書きで語られたプレーモデルについて触れたきっかけの部分で違和感を感じました。

同じ内容を語っているのがwebにあるので、そこから引用しますね。

――あらためて「岡田メソッド」をつくろうとしたきっかけから教えていただけますか?
「日本では中学生くらいまであまり教えすぎずに自由を与えて、高校生になる年齢から戦術を教え込むというのが半ば常識となっていたと思う。 それが、最初にジョアンと会ってスペインの話を聞いたときに『まったく逆じゃないか』と。16歳までにプレーモデル(型)を身につけさせて、そこから自由にすると言うんだから。きっかけはそこだったね」

プレーモデル=型、はあれ今までの理解と違うなと。

もうちょっと踏み込んで、岡田メソッドから引用してみましょう。

最近「プレーモデル」という言葉をよく耳にしますが、それぞれが異なる意味で使ってるように感じます。

それな。

どれか1つが正しいわけではありませんが、我々の「プレーモデル」とは、サッカーのプレーの原則を体系化したものです。

ちょっと待とうか。

サッカースタイルから導かれたプレーモデルを支えるのが、「テクニックとプレーパターン」です。

パターンが出てきてしまった。

ちょっといくつか他の記事からゲームモデル、プレーモデルについて引きますね。

日本でプレーモデルと言えばシステムやスタイルなどが多く議論されるが、濱吉氏は「型にはめることが目的ではない」という。
「プレーモデルを構築する一番の目的は、プレー原則を身につけながらチームとしての共通理解を高めて個々の力を引き出すことです。それがあるから個々のゲームインテリジェンスが高まっていくわけです。それが鍛えられたら選手同士のプレーの共通のアイディアが生まれます。サッカーは複合的なスポーツで、11対11で戦う偶然性が高いスポーツです。だからこそ、チームで共通理解を高めていかなければ勝利は目指せません。
「ゲームモデルは僕にとってルールの集合体です。大きな目的である主原則と、それを実現するために必要な準原則ルールの集合体ですね」
『The Soccer Analytics』が考える『プレーモデル』とは、自分たちで設定したチームの戦い方を、実践するための枠組みということになる。
この枠組みを使ってプレーすることが、そのクラブ、チームの特徴となり、他チームとの差異になる。
「ゲームモデル」
… 監督のメンタリティ、クラブの歴史とカルチャー、リーグの戦術的な特徴などを反映した、ベースとなるコンセプト

もう少し

さて、しかしこの4名の定義をみると、岡田氏の定義はちょっと外れているように感じる。

そもそも型ではない、コンセプトであり、基準であり、ルールの集合体であると考えられている。

しかし、岡田氏はこれを型だと解釈している。

この違いはなんだろうか。

これは、岡田氏がFCバルセロナで育成に携わったジョアン・ビラ氏に話を聞いたがゆえに起こったことだと考えられる。

バルセロナは、バルサ語と代表される独自のプレーに関する哲学が息づくクラブである。

幼少期よりクラブのコンセプトに従った様々なプレーの作法を叩きこまれる。

「バルサのプレースタイルはパターンがいくつもあり、守るべき掟がある」と語ったのはグアルディラだ。

バルセロナの育成の側面を聞けば、たしかにプレーモデルはプレーの型であり、守るべきルールであり、パターンである。

プレーモデルにも様々な意味がやはりあるのだろうか。

ここは一度、きちんと自分で順序を組み立てていく必要がありそうだ。

●順序良く組み立てていこう

まずゲームモデル、プレーモデルを構成する要素が何なのかについて調べてみよう。

前述の4記事のうち白井、濱吉、バルディの3氏から引いてみると。

まず白井氏。

・価値観
・ゲームアイディア
・戦略
・戦術
・シナリオ                             がプレーモデルを構成する要素になる。

濱吉氏。

濱吉氏は、まず冒頭で「プレーモデルに与える要素」を次のように紹介してくれた。
・選手の能力
・チームの目標と構成
・チーム/国のプレー文化
・試合の局面
・指導者/チームのゲームアイディア
・プレーの原則
・組織                               そして、大きく関わるのは文化的な背景を理解することだと語り、それがあるから国や地域によってサッカーの色が変わるのだと主張した。

そしてレナート・バルディ氏

出発点になるのは、クラブがどのような目標を設定しているか、そして監督がどのようなフィロソフィを持ち、どのようなサッカーを通してその目標を実現しようと考えているかということだ。その枠組みの中で、シーズンを通しての仕事を規定する最も重要なベースは「ゲームモデル」だ。その中には、チームが持つべきアイデンティティ、それを具体化するためのプレー原則、そしてそれを実現するためのコーチングメソッドが凝縮されている

さて、奈良の林舞輝監督、以下林監督のゲームモデルの定義を引いてみよう。


●ゲームモデルとは、監督が持つチームのビジョンである。試合中のいついかなる時も選手に実行してほしいもの、チームとしてあるべき姿を表現するものであり、最大限のパフォーマンスを引き出すチームの「ガイド」である。

そして、ゲームモデルを構成する要素として、6つの要素を上げている。

・理想のサッカー(≒自分たちのサッカー)
・チーム、国の文化
・選手
・システム、フォーメーション
・目標
・その他(予算、環境、スタッフ、大会のレベル)

様子がみえてきた。

共通するのは、まずその国やチームの文化から離れることはできないということ。クラブの目標とも離れることができない。そして監督のアイデア、哲学。

まず、監督の考え、これをアイデアとしてみよう。どのようなプレーをチームに志向させたいのか。この場合のアイデアはまだはっきりとしたものではなく抽象的かつ大まかななものではないか。アグレッシヴか、少し受けてでも堅めに行くか、など。このようにプレーしてほしい、というのはまだその先の話というか。

そしてチームを構成する様々なもの。これをフィロソフィーとしてみよう。

自分達のプロフィールをまずは知らなければならない。自分達のリーグでの立ち位置は? どのようなフットボールを観客は志向するのか? リーグのプレーの特徴は? 何を達成しなければいけないのか?

フィロソフィーにアイデアを適応させないといけない。哲学、文化を無視したアイデアは机上の空論であるし、残留争いのチームが優勝争いのチームのような戦い方をするわけにもいかないし、優勝を争うチームがまるで格上と相対するようにボールを放棄すればブーイングものだろう。

一方でどのような立ち位置でもアグレッシヴな戦い方を好む土地もある。ズデネク・ゼーマンが最素晴らしい仕事をしたペスカーラのフィロソフィーは"勝敗は二の次でも、90分間攻め続けるチームこそペスカーラ"である。

ほか日本で説明された有名な事例といえば、オランダはエールディビジで起こった「3位に躍進させた監督が解任されて、2部から監督を引き抜いた」事例だろうか。

NACブレダで起こったことであるが、こちらも土地柄攻撃的なフットボールを好むため、48得点40失点と得失点差もまずまずの結果を残したアーニー・ブランツ監督とのそのシーズン限りで切れる契約の延長がなされなかった。

あるいは最近ではキケ・セティエンの例を出すのが適切か。

セグンダへの降格も経験しているクラブをポジションによるプレーとポゼッション哲学で6位に躍進させ高い評価を得ていたキケ・セティエン。それは今冬バルセロナの監督に就任したことでも明らかではあるが、ベティスを取り巻く人々からは好ましく思われてなかったことを告白している。

「思うに、セビージャとその外で受ける印象は異なっている。セビージャは特別な町で、私も理解をするのに苦労した。多くのことに我慢しなければならなかったんだ」
「あの『勝たなければならない、勝たなければならない』という言葉は……。8~10歳の子供まで、私の車の窓までやって来て、『今日は勝たなきゃいけないよ。ねえ、勝たないといけないんだ』なんて言ってくるんだよ。

そのチームを取り巻く文化を監督、強化部、あるいはファンもある程度認知することが必要だろう。何を要求しているのか、されているのかがお互いあやふやなままでは、悲しい別れを生み出すだけになる。

さて、フィロソフィーを理解し、自身のアイデアとのマッチングも済ませたもの、これを「ビジョン」としてみよう。

すわモデル作りか、と行きたいところだがここに別の考えを挟み込んでみる。

ビジョンから「プレースタイル」を構築してみようじゃないですか。

これは2019年の東京ヴェルディの監督、ギャリー・ホワイトから拝借した。

現代的な監督だったギャリー・ホワイトはプレーモデル、ゲームモデルではなくプレースタイルの言葉を用いていた。

ビジョンから想起されるフットボールとはどのようなものか。

そこには当然自分達の選手の特徴や、予算規模による能力の問題なども加味される。

選手の配置は? どのように相手ゴールに迫り、どのようにこちらのゴールを守る? 4局面ではどのような振る舞いをするだろうか? そういうプレーをする選手ってどんな選手だろう? それは今の自分達の選手たちで可能か? 難しいならば、別の形を考えなければならない。タフな肉弾戦になるか? あるいはボールを循環させながら巧みに空間を利用するような戦い方になるか?

なるほどプレー原則だな! ではない。ウェイウェイウェイ。

まだ抽象段階で、この段階ではこれがプレーの原則である、とは考えない。ビジョンから考えられる自分たちの戦い方とはなんだろうか、と予測を立てることが重要だと考えられる。

その予測から生み出されるものが「ゲームモデル」ではないだろうか。

つまり、あるプレースタイルでチームがプレーした場合どのようなゲームになるか。

なるほど試合模型と言える。

ここにフットボールは複雑系である、とする考え方が重要になってくる。

ヴィトール・フラーデ氏が特に挙げる要素は「カオス」である。

カオスについて何が起こるか分からない、とする説明の仕方も少なくないが、あまりに不正確なように感じる。

初期条件の僅かの差(無限小)が、次第に拡大されて極度に大きく(無限大に)なるような現象をカオス現象という。(複雑系科学の哲学概論/菅野礼司)

ゲームモデルによって試合を予測したとしよう。ある局面のプレーでじゃぁここで選手が右足ではなく左足でトラップしたと仮定した場合。右足だった場合と全く違う結果が最終的には予測されるであろう、と考えられる。

いやもっと些細な事でもいい。ちょっとそこだけ芝が長くて、ボールの転がる勢いが少し弱くなった、だけでも全く違う結果が導きだされるだろう。先の予測を立てるためにはモデルを作る必要がある。だけれども、その通りには行かないことには留意したい。

モデルを組み立てて、様々なシチュエーションに対しても予測を立てていくとしよう。常に同じ結果にはならないだろう。しかし、その中に必ず何らかの法則がある、と考えられる。このようになったら、プレースタイルはこうなので、選手たちはこのように振舞うはずだの積み重ねの果てに、チームは、選手はどのようにプレーしているかが見えてくる。

監督がプレーの原則を見つけ出す瞬間である。

原則はモデルがなければ存在しえず、モデルはスタイルがなければ存在しえず、スタイルはビジョンが、ビジョンはアイデアとフィロソフィーがなければ存在しえない。

原則が最後の最後だ。これなら色々とスッキリする。

そして監督は見出した原則を束ねて、チームに対して原則に基づいたプレーを行えるようにトレーニングをしなければならない。

この原則を束ねたものは、プレーに際してのお手本になる。つまりプレーのモデル。

あぁ、プレーモデルだ!

●ゲームモデル≒プレーモデル

フィロソフィー・アイデア→プレースタイル→ゲームモデル→プレー原則の順番に並びたてて、最後に見出された原則を束ねたものがプレーモデルになる。

プレーモデルそのものはスペインで使われていたことと考えると、戦術的ピリオダイゼーションがスペインに持ち込まれた際、あぁプレーモデルのことだね、と習合した可能性が考えられる。

確かにほぼ同じものだ、しかし冷静にみていくと微妙に違う。

ゲームモデルは、例えばシーズン中に自分たちの成績が想定より良かったり悪かったりすれば当然上位概念に変更が加わり、それに伴いモデルは変化をするだろう。すると原則も変化し、そしてプレーモデルも変化する。

だけれども、なるほどバルセロナの指導者が用いるモデルはかなり確固としたものになる。育成年代においては、上位概念がぶれることはほぼなく、選手の特徴すら、育成によって整えることができる。トップチームであればときに例えばワイドの選手がいない、あるいはチームの要求を満たすアンカーがいないなどの事象が発生するかもしれないが、育成ならば育てればいいのだ。

実際には多くのチームではそうではない、そうではないのだけど。

バルセロナのようなチームは一貫した哲学で選手を育てるので、プレーモデルはかなり厳格なものになる。そして、そこからプレーモデルを輸入すれば、なるほどプレーの型となる、か。

これは時に大きな誤解を生み出しかねない問題にも見えるし、あるいは一貫した育成について疑問を投げかけるものにもなるだろう。

フィロソフィーは一貫したものでよいとしてもゲームモデル、あるいは上位のプレースタイルまで一貫すべきものなのだろうか。

普遍的なプレーの原則の問題もある。

世界中でサッカーの試合が行われ、そしてそれらが世界中どこからでも見ることが可能になった時代。

国、地域、チームによってフィロソフィー、あるいは監督のアイデアの違いで様々なプレーが展開されている中でも、そこにはやはり一定の原則が存在しているはずで、そしてそれはこの時代では容易に発見、そして共有できる。

それらを無視していきなりビジョンに基づいた育成に突っ込むことが正しいことだろうか。

あ、でもこれは育成年代におけるゲームモデルの作成においては、こうした普遍的なものについての育成も影響を与える要素に入る、とも考えられるか。

マルセロ・ビエルサの「サッカーは125パターンしかない」は普遍的な原則についての話とも理解できるかもしれない。

たくさんの試合をみて、そこから原理原則を抽出する作業は実践的ではあるが似通っている。

そもそも普遍的な原則を知らなければ、モデルから原則を抽出することにも苦労するか。モデルとして単純化しているとはいえ、全てをシミュレートするわけにもいかないので、ある程度のところで普遍的なプレーの原則がみえてきたらそれだな、と判断することになるだろう。それは時にバイアスを生み出すかもしれないが……

モデルから、原則、そしてモデルの流れでみると、トレーニングへの考え方も変わってくる。どうしてトレーニングはプレーに即したものでなければならないか。選手たちは学習をしなければならないからだ。

●ピアニストはピアノの周りを走ったりはしない。

ゲームモデルに基づいてプレーの原則が著述され、それらがプレーモデルとなって選手たちの目の前にやってくる。

それを一々言葉で説明するのか? 違う。

トレーニングを通じて選手たちが監督と同じように「原則を発見する」ことが必要だ。

●ピッチ上の11人の選手全員に対して、監督の視点で試合を見ること、監督の見方に同意することをいかにして納得させるのか?(ギャリー・ホワイト)

このようにプレーしなさいと説明するだけでは全く足りない。選手たちがフットボールのことを理解しなければならない。トレーニングはそのために行われるもので、なのでプレーをしばければならないし、だからと言って試合形式にこだわることもない。

いかにして選手たちがモデルに沿ったプレーを理解できるかどうかが鍵であるし、また肉体的な能力についても当然モデルに沿ったものを身につけなければいけないので、個別に鍛えることはない。

ピアニストがピアノ周りを走っても、演奏法についての理解も、身体の使い方についての理解も何も得ることはできない。

一方で闇雲に鍵盤をたたくだけでもなにも理解は深まらないだろう。もしかしたらとても速い指使いができるようになるかもしれない。それが何か?

監督は選手がフットボールに対して理解を深めるようなガイドにならなければいけない。

そうして選手たち自身がどのようにプレーすればよいかを理解し、「原則に従ってプレーすること」が当然と考えるようになることが目的になる。

ゲームモデルから原則を見出し、プレーモデルを創り出す順序で考えると、このように考えることができる。

最終的には監督の考えと選手の考えが一致するようになり、全員が同じ言葉で喋るようになるだろう。

そのためには、監督自身がまずは様々な発見を行わなければならない。そして、それを選手に追体験してもらうのだ。

●終わりに。

と、ここまでキーボードを興奮して叩いてきましたが、まぁまだまだ全然纏まってる感じではないですね。

例えば原則を発見しよう、は「深い学習」から持ってきましたがちょっとまだ自分の理解が足りてない。

戦術的ピリオダイゼーションの論文は国内でも複数出ており、それらを今回は無視している。プレースタイル、ゲームモデル、プレーモデルの呼称問題についてはある程度の答えが出ているのでちゃんと書くならそこは通らなければならない。

複雑系であるとする考えは戦術的ピリオダイゼーション特有の考え方ではないし、複雑系そのものへの理解も深めなければならない。

そもそもフットボールとはどのような競技なのか、戦術とは、そのあたりから話をはじめないといけないような気もしている。

ここにさらにポジションによるプレーも絡めると、アイデアとしてはディープラーニングと絡めることができるのでは、とも感じている。

一方脳科学ではない方向で複雑系の補助線を使えばエコロジカルになるのだなぁとも見えてきている。

ただ22人の人間が四角形のフィールドをボールを蹴りながら追いかけまわすだけの競技がどうしてこんなに大変なことになっているのか。正直何か開けてはいけないものを開けてしまった気もするが、のんびりと色々と調べていきたい。

この記事は、その過程の中での思考実験が漏れ出したもの、と捉えていただければ幸いである。

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