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ふきのとうとの再会

「こちら、ふきのとうのてんぷらです」

うっすらとうねりのある益子焼の平皿の上に、新芽の色をしてそれは乗っていた。

テーブルを囲む人たちから「わーっ!」と声が上がる。

私はお椀の中でベッタリと広がり、ただ呆然としていた。

卒業して以来の再会だった。あれから私は少しだけ彼に追いついた気になっていたけれど、そんなわけがないとどこかで分かってもいたから、この目で確認する日だけはこないで欲しいと願っていた。

私はもう、悩みのない、丁度いい前菜でありたかった。

ふきのとうは転校してきた朝、教室に入った瞬間から私よりずっと大人だった。

当時の私は細く裂いて揚げられるしか自分の愛され方も分からず、どこにでもいる(冷凍食品としてごっそりスーパーで売られるような)自分の卑しくテカった黄色を呪っていた。

私だけじゃない。ほかの野菜だってみんなそう自信がなかった。あの年頃なら普通そうだ。みんな何かを隠すように、マヨネーズかケチャップに頼ってばかりいたし、私も、例に漏れずどっちが主役なのか分からなくなるほど、ベッタリとケチャップを塗りたくっていた。

たしかに時々わさびやマスタードを選ぶ子もいたけれど、私には目立つことが怖くてできなかった。マヨネーズよりケチャップを選んだのは、色の可愛さもあったけれど、せめて一番人気には飛びつかない自分でいたかったからだ。私は臆病なくせに、特別でいたかった。

そんな私の前に、ふきのとうは現れたのだ。

忘れもしない。彼は自分の席にゆっくりと座ったかと思えば、どんな調味料にも目もくれず、自分とよく似た色をした抹茶塩をパッとかけた。

いつも目立つ(だいたいは悪目立ちの)ニンジンが、まるで先陣を切らねばと使命でも感じたかのように「渋くない?」と声をかけにいったけれど、壁によたれかかって余裕を演出しようとするもんだから、立てかけられたエンピツみたいに回って倒れないかハラハラした。

でもふきのとうは驚くそぶりを少しも見せず、「素材を活かしたいから」とだけやさしく返した。その嫌味のない、ビターな物言いは、クラスみんなを黙らせた。

素材を活かしたいから……。これが選ばれた野菜なんだ、と私は思った。

結局在学中、ふきのとうとはほとんど喋った記憶がない。一度煮物の実習で見学していた彼に「綺麗な黄金色になったね」と声をかけられたことがあったけど、私は緊張のあまり煮崩れしないかばかり気になってしまって、グツグツ言うしかできなかった。

そんな不恰好なジャガイモだった私が、ようやく自分の運命を受け入れたのは、高校を出てからだ。

ポテトフライは無難だとずっと思っていたけど、長芋のフライに元彼を寝取られた時、たしかに私は「素揚げ」としてみると一番魅力がないと気付いた。

それからの私は、もっと色々やってみようとようやく覚悟できて、上から下まで経験した。細ギリにされて肉の上にまかれ、オーブンで焼かれたこともあったし、オムレツを支える土台になることもあった。

だけど、どこにいっても私は主張が大きいだけの脇役で、みんな「このお肉、柔らかい!」だとか「卵がフワフワ」とばかり言って、私の素材には目を向けてくれなかった。

だから、そんな私にとって、ポタージュという道はやっと見つけた居場所だった。

すりおろされ、こされ、ミルクやタマネギと混ぜられて、私ははじめてさりげなさを得た。ジャガイモだってさりげなくなれるのだ。

冷やしても美味しいということは、私の自尊心をなお高めた。今までとかわらずテーブルの上では脇役だったけれど、お碗の中で私はたしかに主役で、でも「主役だなんて、恐縮です」と言っていい、控えめな味に仕上がっていた。

はじめてお碗に注がれた時なんて、ずっとこの日を待っていたと感じたほど興奮した。ミキサーの中でミルクやタマネギに嫌味なく「よろしくお願いします」と言えた時には、私のこれまでは無駄じゃなかったとさえ思えた。私は早く2人から、もっと自分も主役になりたいと相談を受けて「やっぱり素材を活かしたいよね」と言いたいと夢見ていた。

でも今こうして、また私の前にふきのとうは現れたのだ。

彼を見れば明白だった。本当に素材を活かした前菜とは、見てすぐに分かるのだと。

私が若い頃嫌ったそれとは全く違う、繊細で軽い衣をまとって伏し目がちに彼は佇み、隣には純白の岩塩が添えられていた。抹茶でさえ彼にとっては雑音になったのだろうか。私はパセリを数枚まかれていい気になっている自分が急に恥ずかしくなり始めていた。パセリには悪くて言えないけれど。

どうして私は、和洋折衷のレストランなんて選んだのだろう。一気に自分のこれまでが無駄だったように思えてきた。

ただのイタリアンやフレンチを選んでいればふきのとうと再会することはまずなかった。和でも洋でもないという分かりやすい個性をほしがったバカな自分に、バチが当たったのだと思った。

彼は出される時、料理人から「春になったから」という、とても素敵な説明を付されていた。

皆が期待感に胸を躍らせた顔をしている。上品にパリッと音をたてながらほおばったかと思えば、「旬なものはいいねー!」と言った。

旬なものはいいね。私に旬なんてあるのだろうか。新じゃがでもない私に。

お肉やお魚を思えば、ふきのとうだって脇役のはずた。なのにどうして、彼は食べる人をあんなに幸せにできるのだろう。彼を愛でる人たちは皆「ふきのとうを好きだなんて、私ってセンスがいい」とでも言いたいかのような、自信を匂わせてもいた。

私がぼーっと彼を見ていたからだろう。

彼もようやく私に気づいた。私はお鍋にかけられでもしたかのように熱くなって、恥ずかしいような嬉しいような、形容しがたい感情に飲まれた。お椀とソーサーの隙間がカタカタとなるのが格好わるくて苛ついた。

彼はお箸につままれながら、少しの間表情をかえず私の湖面を見下ろして「久しぶり。スープ、すごく似合ってるね。」と微笑んだ。彼の塩がぱらりと、私の上に落ちた。

私は、なんて勝手なやつなんだと思った。彼はこれまでもたくさんの芋に出会ってきたはずで、私はその億千個のうちの一つなのだ。まるで私がかけがえない一つの芋であるかのように接してくることは、私にとっては逆に辱めのようだった。

でも私の口から出たのは「ありがとう」だった。しかも私は明らかに高揚していた。私は彼に憧れていたから。

「パセリがポイントだね」、そう言われた途端、急に自信がわいた。私は相変わらずのバカで、ケチャップを塗りたくっていた頃から少しも成長していなかった。これまでの人生はなんだったんだろう。何かが間違っていたかどうかは今は分からない。とにかく私はこの春、彼とコースに並ぶしかない。

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