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落ちた稲を踏みつけても心が痛まなくなる

今年人生で初めて米づくりを経験しました。
 


4畝半ほどの農地を借りて、代掻きをして田植えして毎日水管理をして元気かー、大きくなってきたかーと見守ってきました。


植え付けたり、収穫したりするとき所々機械を入れるのですが、
手作業をするときより早くできるはずなのに何故だか忙しなくなります。



手で刈っていると刈り残しをしないように一つ一つ時間をかけてやってられるのですが、バインダーで刈り取ると刈り残ししても見向きもせずに次の作業に進みます。

手動の脱穀機に通すと米粒全てがおちるまでよーく見返すのに、ハーベスターで自動脱穀選別をすると稲にお米がついていてもまあいっかという具合になります。


でも稲を踏みつけたときに違和感が残るんですよね。
神聖な気持ちが浮ついてしまうというか、そこに手作業の素晴らしさがあるような気がします。


少し話がぼやけてきましが今日言いたかったのは、そうやって一度落ちた稲を踏みつけても心の痛む人は痛むのではないかなということです。



その違和感をまあいいやと見過ごす経験を重ねていけばしんどくなるし、精神科医療でいう防衛機制で合理化や抑圧して無意識の領域に押しやってしまう。


だから違和感を感じたときに自分の気持ちに正直になって行動していくこと。

今日ある人が狩猟をはじめたら戻れなくなる、狩猟している奴らは動物を食べ物、カネになる物としてみてしまうようになってるんじゃないか。
と話していました。



その違和感を持ち続けていれば大丈夫、
未経験からくるその神聖さは経験することで失われてしまうけれど、それもまた懐かしいという気持ちをつくってくれますよね。


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