根源らしくないもの

 ぽす、とライターの火、せり出て、揺らめく、窓を下地に、地上絵を描く、題名、ほのお。西武新宿線が減速する音、停止する瞬間、指をそっとくぐらせてみる。アツツツツ。これはいけない。続ければいずれ焼けてしまう。溶けちまう。熱さと肩を組んだ痛みがにこやかにサムズアップ。俺は、”おれたち”は、いつだってお前のそばにいるんだぜ。忘れるな、その向こうにある自然な構造と一握のハッピーを。
 平坦な道をだらけた態度で走っていると、世の中には痛いものや辛いものが無いのではないかという錯覚に陥るが、実は体のあちこちが悲鳴をあげていて、決壊寸前だったりする。天秤で象の体重は量れない。対応していない目盛りでは、何度繰り返そうとも結果は出ない。
 ところが結果が出なければ無いものと一緒という超愚鈍な考えが、まだ行ける、と背中を押す。行け、行け。その緩慢なフォーム、学年マラソン大会最後尾集団の息遣い、遮二無二巡る思考で、走れ。恨みながら、時には即効性のある感動に身を震わせながら。痛みが無ければどこへだって行けるさ。サライ蔓延る武道館に辿り着いても、聖火が燃え尽きても止まるな。
 でもよお、痛みは無いんけど、水は欲しいよ。よくテレビの中で走ってる人たちは、なんか台に置かれたカップを手にとってさ、ごくごく飲んでるじゃないの。ほらほら、あれ、給水ポイント。それぞれ自分の分を掴んでさ。ああいうの、ないんかな。ずっと走ってたら、喉が渇くよ。
 行け、走れ。
 喉が乾いたよお。首を振る。
 行け。
 カラカラだよお。ベロを出す。
 行けよ。
 人間の体はほとんど水分なんだよお。俺は喉をかきむしる。
 お前は絶対に乾かない。
 え?

 あのさあ

 お前は乾かない。反して潤うこともない。それは狂っているという意味ではない。真に正しい構造として、最も”らしい”あり方として。
 す、すげー、ほんとだ。
 よくよく体に問いかけてみたら、水なんて微塵も欲しくなかった。
 邪念、晴れたのち全会一致。脳内の俺が、国会前に集まる報道陣にダッシュ、スパッと開いた半紙にはえらく達者な字体でこう書かれていた。
「その概念がない」
 お前に必要なのは乗り物だよ。お前はどこまでも行けるけれど、いまや徒歩と変わらないスピードじゃないか。それじゃあ時間がかかり過ぎる。とにかく目についたもの何でも良い、乗るんだ。盗んだバイクで走り出せ。行き先も分からぬまま。タンクローリーに乗って突っ込むヤナギ・ユーレイを見たか? 最高だったよな。アレでもいい。なあ、行けよ。行け。行けって。どこまでも行けよ。なんでもいいから。どこでもいいんだ。行け、行け。行け!

 いや、乗るならさあ、水陸空問わないなら、俺はさ、鳥がいいんだけど。乗るって感じじゃないけど、掴まる感じになるか捕まえられる感じになるかわからないけど。そのなかでも、海を超えるやつが良い。鳥と共にいざ大海、とりあえず水面に冗談みたいな光の反射と、東西南北何も見えない洋上を、すうっと飛ぶ。
 その景色にも飽きてきた頃、すれ違うんだ、誰かと。
 例えば。
 下腹部のだらしないスーツ姿の男、数匹の鳥に連れられて。容姿に似合わずバイオリンケースを担いで。カリブの島国ハイチへブードゥーの真髄を
探しに行くと言う。何か弾いてくれないか、とせがんだらジムノペティを弾いてくれた。口笛で。そっちかよ! と突っ込んだ時にはもう背中を向けていた。去り際、左手の薬指から指輪を外して海に落とすのが見えた。
 例えば。
 目に痣を残したボクサーの女性。ノックアウトされて、気がついたら飛んでいたらしい。どこに行くのかと聞いたら、わたしにもわからないと言っていた。
 じゃあ行きたいところは?
 出来ればあそこね。
 赤いグローブが指す先には海に似合わぬ四角いリングと、中央で軽快なステップを踏む女性が一人。
 勝つまでやるのよ。そう言って微笑むと、戦場に向かって少しずつ落ちていく。四角形が米粒ほどになったとき、ゴングの音がかすかに聴こえた。
 例えば。
 人形のように美しく、やたらおしゃべりな人だった。恋の話をしてくれた。
 彼は内気でオカルトな話が大好き。とおおおっっても可愛らしい顔立ち。運動はちょっぴり苦手。好きなバンドはヴァインズ。特技は円周率の記憶。趣味はUMAのwikiを見ること。小柄な体型にオーバーサイズな服装。あれは絶対ママに選んでもらっているわね。
 そして必要以上に物事を痛がる癖。その瞬間の彼の情けない顔を見るたびに閉じ込めてしまいたくなる。
 小さなわたしの部屋。椅子に縛り付けて、目隠しを付けて、爆音でヴァインズの二枚組とイランイランのオイル。わたしは黒いミニのドレス。真っ赤なヒールに、ゴシックなメイク。準備万端、バッドな幻覚よろしくな趣味の悪い間接照明で彼を照らす。小動物のような口元から出る声が何度も爆音にかき消される。
 しばらくしたら彼の首を抱きしめて、香りを受けながら、耳を澄ます。
 ここはどこ? 耳が壊れそう。こわいよ。
 ああ! 胸が軋んでいく。もっと閉じ込めてしまいたくなる。フラッシュバックするわたしのシルバニアファミリー壊してしまったあのときの。バラバラにしてしまった家族、物言わぬ動物たち。可愛くて可愛くて、だからひどいことをしてしまった。彼はそれに似ていた。
 帰りたいよ、放してよ。
 か細い言葉が届くたび、砕けそうな全身へ血液を必死に送っていくのがわかった。同時に、憎くて憎くて仕方ない下腹部の邪悪なあいつが競うように膨張して、ズキンズキンと脈を打つ。
 得体のしれない衝動を堪えようと、わたしは彼の耳たぶを強く噛む。
 イタ、痛っ、ちょっとまって痛い痛い。それは痛い! つよい!
 悲鳴を帯びた声がわたしの脊髄をガクガク揺らす。冗談みたいに体が震え始めて、前歯が一段ぐっと柔らかい場所へ食い込む。破裂しそうなあいつがわたしを支配していく。
 ねねねn、ねねえ、おお、おおお、し、えて、て?
 何何何なに! ちょっと!! ちち、ちぎれう! 
 あn、あの、あのね。し、っっ、自然ん、しし、自然な、こ、っっ、こう、ぞ、構造って、て、なあに?

 それからどうなったのか聞いたら、さあ、と答えて彼女は口を結んだ。
 衛星が軌道を逸れるように、ゆっくりと距離が離れていく。声が届かなくなる手前で振り向くと
 ヴァインズわたしはあんま好きじゃない
 と呟いた。
 別の引力に引かれはじめたら、あっという間に水平線の向こうへ。彼女はたぶん、少しだけ寒い国に辿り着く。そんな気がした。
 

 
 

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