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第三話/突然かかってきた電話・蘇る記憶

話をしたら長くなる。それほど、沢山エピソードのある私は、やっぱり波乱万丈人生なのかしらね?と思ったりする。今日も私の長い話に付き合ってく、ただただ感謝する。笑

私の父の問題 を語る前に、第二話に出てきた、面白い話 を語りたいと思う。

私が埼玉の家を出る決心をしたのは、21歳の頃。高校を卒業して就職した都内にある画材屋を、家庭の事情を理由に退職したのち、今でいう派遣会社の紹介で、浦和市内にあるデパートの売り子として働いていた時だった。

日給支払いだったので、私としては、バイトみたいな仕事でこのままでいいのか?というのは常にあったが、とりあえず、誰も頼りにならない家だったので、1年間くらいその仕事を続けたと思う。

その頃家には、父の後妻No.2がいて(この人は最後まで内縁の妻だったが、後妻No.1とは入籍した)、その人の連れ子もいたので、これ以上、父の理解不可な人生に付き合ってれば、私の精神にも良くないと思い、母を訪ねることにした。

母のところに行くのは、この時が初めてで、どうやってその住所を探したのか忘れたけど、もしかすると、母の引っ越しを手伝った弟から母の住所を聞いたのかもしれないし、母の友達に電話をかけて教えてもらったのかも知れない。いずれにせよ、母の住むアパートは、離婚前に住んでいたところから徒歩圏のアパートだった。

母に会って話をして、私もここに住んでいいかな?と聞くと、いいよ と返事をしてくれた。母は、学歴(高校中退)の為、仕事らしい仕事になかなか就けなかった様だった。当時は、2つのバイトを掛け持ちし、なんとか生活費を稼いでた。父から慰謝料など全く貰っていなかったから。今でも思うけど、日本の離婚って、アメリカの法律に比べると、断然、男に有利にできている。ここも直さなければ、少子化はどんどん進むだろう。

何回か、母の家で週末を過ごし、その後、完璧に引っ越しする前に、私は、末っ子の弟に言った。この家を出てお母さんの所へ引っ越そうと思ってるんだけど、あんた、この家に残って大丈夫?と聞いた。弟は、大丈夫 と言って、その時はそこに残った。

今から考えれば、あの時、弟も連れて行けばよかったって思ってる。なぜなら、下の弟は、卒業した中学で虐めにあっていたと、弟が亡くなった時に上の弟から聞いたのだった。これも後程話す。(長いから)

当時、弟は高校に入学したばかりだと思った。この辺のタイミングの記憶は定かではない。が、フットボール部に入って練習をしてたケガをした と言っていた目の周りのパンチを食らったような痣が気になったのだった。それと、当時の家の中には、小学生の男の子の連れ子2人と一緒に暮らさなければならないし、そのうちの一人は、ちょっとクセのある子供で将来が心配な子だった。これも長いので後程。そんなわけで、弟の事がとても心配だった。プラス、弟の学校は男子校だったのでなおさら。弟の話も長くなるので、後程。

父親に経済的に支配されてた立場からして、高校を卒業するまでは、この訳の分からない生活から、完璧に逃げられない状況に陥ってしまっていたのは、私も下の弟も同じ。上の弟は早くも高校ドロップアウトで仕事をしていたと記憶している。

上の弟は、両親の離婚前後にグレはじめ、全く勉強しなかったので偏差値が信じられないくらい低い他県で、遠方の高校だった。電車通学2時間という、聞いてるだけで疲れるような高校に通って、挙句不登校になった。あの家に育ったらこれが普通で、私と下の弟が珍しいんだと思うわ。笑

また前置きがう~んと長くなってしまったが、そんな経緯で家を出て母と横浜で暮らす事になった。その解放感は素晴らしいもので、全てがキラキラと輝いて見えた。それほど、父の家に居たら気分が滅入るのだった。私は父の世界観が全く理解できなかったから。

しばらくは、派遣の仕事を続け、派遣先の紹介で仕事を紹介してもらいと、バブルの時だったので、仕事がなくなることはなかった。その点はラッキーだったと言えると思う。

やっと本題に入れる。笑 私が母の家で暮らすようになってから数年後、アメリカに行くちょっと前くらいに、不思議な電話がかかってきたのだった

電話を取ると、
○○さんのお宅でしょうか?と女性の声で母の姓名を言ってくる。

ハイそうですけど、どちら様でしょうか?母は今留守にしてますが。

○○ちゃん?(私の名前)と女性。

(は?誰?あなた?聞き覚えのない声)
ハイそうですけど。。。

元気?元気なのね?私は、○○〇に住んでいた時(神社の近所の家のエリア)の近所の者なんだけど、あー良かった!元気なのね!あの頃、目にいっぱい涙を溜めて、コタツで寝ているあなたを見たことがあるの。私、ずーっとずーっと、あなたの事が心配だったのよ。

この時に、もしかすると、私の幼稚園の先生かもしれないとなんとなく思った。実は、私、幼稚園児から登園拒否をしていたのだった。笑 母に理由を聞かれたときに、めんどくさいから と答えたのを覚えてる。大人が考えるほど、闇などなく、ただただ行くのがめんどくさい感じがして休みがちになったのだった。とにかく幼稚園に行く意味が私には解らなかった。一人でも遊べる性格だからかもしれない。

続けて、電話口の女性が言う、お母さんは?お元気?というから、ハイ。元気で仕事に行ってますよ。と安心させた。(よくない案件は言いたくなかった)

これの何が面白い?と思う人がいるかもしれないけど、引っ越してから20年以上たったその時に、どうやったらこの電話番号が分かったのか?というのと、そうだったんだ!その頃から、始まってたんだ!母の問題!と言うのも知ったという事。それと、私の事を二十年間も心配してくれてた人がいたんだ!と言う所。その時の私は25歳くらいだったから。電話の女性が誰だか未だに分からないけど、本当に心配してくれてありがとうと感謝の気持ちでいっぱいだった。

というわけで、うーんと月日が経ってから、母の問題は、私の記憶よりはるかに古い時期からだったんだという事実を知ったのだった。まあ、4歳くらいでは、なんとなく悲しいと、なんとなく心細いとかそういった、ディープな気持ちの理由までは分からないものなんだろうと思ったのだった。

でも、幼少期の体験は、意外にも大きな心の穴だったりするから、小さい時の大きな悲しみみたいなものは、なるべく早くに解決すべき問題で、その後の人生に大きな影響をもたらすものだと本気で私は思う。

面白い話はまだ続く、私が結婚し、夫が国務省に入省し、3度目の海外赴任で、関西に赴任になった時に、夫がボランティアで、数か月間他の国に赴任した時期があった。その時、ワンオペで自由に子育て、自由に勉強が出来る環境だった。

私は資格習得の為、夜学校に通っていた。その時に習ったカラーセラピーの実習で自分自身のカラー年表というのを作ったのだった。その時初めて明確に自分のトラウマの原因が分かったような気がしたのだった。

私の記憶の中に、3,4歳の時に頻繁にやっていた、クレパスで作るピンクとオレンジの混色の思い出が蘇ったのだった。何回も何回も、画用紙にピンクとオレンジのクレパスで混色して楽しんでいたことを思い出したのだ。この色ってとっても奇麗 と思っていたという、当時の感情も思い出したのだった。

カラー年表について説明すれば、自分自身の一番古い記憶から一年ごとの年表を作り、そこにカラーカードから探した色を当てはめていく作業で、何故その色なのかというコメントを添えるのだ。私の記憶で一番古い記憶は3歳から始まる。そこへ出てきた色が、コーラルピンク。つまり、ピンクとオレンジが混ざった色。色彩心理学では、子宮の内壁の色 ・・・ね、凄いでしょ? この、後悔感。笑 私は、この家に生まれてとってもガッカリしていたんだ!と言う事が、30年以上たって明らかになったのだった。お腹の中から出直ししたいと思っていたに違いないと、この時納得したのだった。

このカラー年表の作り方はとても簡単で、カラーカードと記憶さえあれば、誰にでもすぐ作れる。が、色彩心理の知識がないと自分では出来ないので、カラーセラピーをしてる人に診断を頼むのも良し、本で勉強して自分でやるのも良し。誰でも、一度はカラー年表を作ってみる事を私はお勧めしたい。新しい発見で、心が納得し心が自由になるかもしれないから。












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