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イブキちゃんの聖書入門#50 「ノアの箱舟は本当にあったの?⑰ 新たな出発」

"箱舟から出て来たノアの息子たちは、セム、ハム、ヤフェテであった。ハムはカナンの父である。
この三人がノアの息子たちで、彼らから全世界の民が分かれ出た。"
創世記 9章18~19節

★ハムの子カナン

⭐︎神は「大洪水」から唯一助け出された人類、ノアとその一家から、人類を再スタートさせることを決められました。

「大洪水」から命を救う為に作られたのは、いわゆる「ノアの箱舟」ですが、その箱舟の中に入っていた人類であるノアとその一家の当時の人員数は、計8人です。

そのメンバー構成をおさらいしたいと思います。

1:ノア(家長)

2:ノアの妻

3:セム(長男)

4:ハム(次男)

5:ヤフェテ(三男)

6:セムの妻

7:ハムの妻

8:ヤフェテの妻

"ノアは息子たちや自分の妻、それに息子たちの妻とともに、大洪水の大水を避けるために箱舟に入った。"
創世記 7章7節

「大洪水」の後にはノアには子供が誕生していないと聖書は記録しています。

つまり、今現在、地球上に生きている人類、約80億人は、ここで記されたノアの息子たちである、セム、ハム、ヤフェテから増え広がって行ったのです。

(ノアの子孫と日本人についての簡単な解説を、このシリーズの第1回目で行っております↓)

⭐︎18節で「ハムはカナンの父である」と書かれており、いきなり「カナン」という人物が紹介されています。

カナンはハムの息子であるようで、この聖書の書き方から察するに、カナンの方がよく知られた人物、またこの創世記が書かれた時代において重要な人物であったようです。

「あのカナンの父親がハムなんだよ。カナンの出自はここにあるんだよ」
というニュアンスがこの箇所にあります。

「あれ、箱舟に入っていたノアの家族は8人じゃないの?カナンを含めれば9人になっちゃうけど」

と思われるかも知れませんが、ノア一家が箱舟から出て来た当初の段階では、まだカナンをはじめ、ノアの息子たち(セム、ハム、ヤフェテ)には子供は生まれていません。

カナンはノアたちが箱舟から出て、新しい生活を始めて後に誕生しました。

創世記の執筆者である「十戒」などで有名なモーセは、ノアの時代より約1,000年も後に生きていた人物であるので、当然、カナンという人物が歴史の中でどのような役回りをするのか知っていたので、未来の視点をもって予め、ここで未だ誕生していないはずのハムの息子、カナンの名前を記したのです。

★イスラエルの敵対者

⭐︎では何故、それ程までに「カナン」という存在が、モーセにとって重要だったのでしょうか。

それはモーセと、彼が属するイスラエル民族が置かれていた当時の状況(BC1,500年頃)に由来します。

「カナンの地」

という言葉に聞き覚えはありませんか?
日本人でも一度はどこかでそれを聞いたことはあるかと思います。

「約束の地」とか、「乳と密の流れる地」とか言われることもあり、聖書的な背景のない日本人にとっても、どこかパラダイス的な、憧れを抱かせる響きを持った言葉として捉えられるのかも知れません。

モーセが生きていた当時、イスラエル民族はエジプトで約400年間、苦しい奴隷生活を送っており、ある時に神によってリーダーに立てられたモーセによって、イスラエル民族はエジプトを脱出し、神が示された土地、彼らイスラエル人の先祖が暮らしていた土地である「カナンの地」を目指すことになります。

「カナンの地」とは、場所的には、いわゆる今の中東のパレスチナ地方(地中海とヨルダン川・死海に挟まれた地域一帯)であり、聖書的には「南はエジプトの川(ナイル川の東端の支流)から北はユーフラテス川まで」となります。

"その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。エジプトの川から、あの大河ユーフラテス川まで。
ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、
ヒッタイト人、ペリジ人、レファイム人、
アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の地を。」"
創世記 15章18~21節

アブラムとはイスラエル人(ユダヤ人)の先祖であるアブラハムであり、神はモーセが生きていた約500年前に、アブラハムに対して、彼の子孫(モーセたちイスラエル人)に「カナンの地」を与える、と約束されていたのです。

神はその約束を覚えておられ、奴隷状態であったアブラハムの子孫、イスラエル人を、エジプトから「カナンの地」へと導いたのでした。

⭐︎「カナンの地」が何故、「カナンの地」と呼ばれるかと言うと、そこには「カナン人」が征服者として住んでいたからです。

上記に引用した聖書箇所に、「ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、ヒッタイト人、ペリジ人、レファイム人、アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人」と民族の名前が列挙されていますが、彼らは総じてざっくりと「カナン人」と聖書では呼ばれています。

というのは、彼らの全てはハムの息子カナン、または他のハムの子孫の流れを汲む末裔たちであるからです。

"カナンが生んだのは、長子シドン、ヒッタイト、
エブス人、アモリ人、ギルガシ人、
ヒビ人、アルキ人、シニ人、
アルワデ人、ツェマリ人、ハマテ人。その後、カナン人の諸氏族が分かれ出た。
それでカナン人の領土は、シドンからゲラルに向かって、ガザに至り、ソドム、ゴモラ、アデマ、ツェボイムに向かって、ラシャにまで及んだ。"
創世記 10章15~19節

「ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、ヒッタイト人、ペリジ人、レファイム人、アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人」という「カナン人」の大枠の中に、「カナン人」が出て来ていますが、この「カナン人」は「カナン人の代表格と認識されていた部族」ということでしょう。

⭐︎そしてこの「カナン人」たちは、ほぼ例外なくイスラエル人に敵対する偶像礼拝の民族でした。

イスラエル民族の祖である、アブラハム、イサク、ヤコブ、いわゆる「族長たち」が「カナンの地」に住んでいた頃は、多少の諍いはあったとしても、基本的には、「族長」と「カナン人」の両者は互いに距離を取り、互いの領域を侵犯しないようにしていましたが、イスラエル人がエジプトで400年間奴隷生活をしている間に、どうやらカナン人の凶暴性、排他性は増幅してしまっていたようです。

モーセに率いられたイスラエル人がエジプトから上って来ると、カナン人たちは、イスラエルの神が真の神で、あらゆる偶像よりも力のある神であることを見せつけられているにも関わらず、率先してイスラエル人に攻撃を仕掛け、また偶像礼拝に引き込もうと誘惑の手を伸ばして来ました。

イスラエル人は「約束の地・カナンの地」に入り、神が約束された「豊かな生活」を手に入れる為に、物理的に、また霊的に(言い換えれば、政治的に、宗教的に)数多の戦いを潜り抜けなければならなかったのです。

モーセが神の霊に促されて創世記を記していた時、まさにそういうカナン人との戦いの渦中にあり、また次の世代も、将来も、カナン人との戦いが予想されるという「カナン人との臨戦態勢」が続く状況でした。

当時のイスラエル人の日常において、「カナン人」という存在は大きく、重く、嫌でも意識をせざるを得ない、そのような相手であったのです。

ですので、モーセは、このノア一家が人類の新しいスタートを切ろうとする箇所で、イスラエル人にとって「目の上のたんこぶ」であるカナン人がどのような経緯で出て来たのか、また先祖であるカナンとはどのような人物であったのかをクローズアップし、強調して紹介しているのです。

聖書の記述に気まぐれで書かれたものは1つもなく、隅々に至るまで、意味と必然性をもって書かれているのです。

★父の愛

⭐︎通常、私たちが「神が約束された土地」と聞くと、この世の楽園のような、何の苦しみも悩みもないような場所をイメージするかと思います。

しかし、聖書において、神がご自身の選んだ愛するイスラエルの民に与えられた「約束の地」は、常に戦いがあり、悩みがあり、患難があります。

地理的にも、いわゆるパレスチナ地方は、アジア、ヨーロッパ、アフリカの「交差点」であり、様々な民族、文化、宗教、政治的思惑、イデオロギーが交錯する場所です。
混沌とするのは必然とも言えます。
それは今も昔も変わりません。

何故、そのような場所が「約束の地」なのでしょうか?

神はあえてイスラエルを虐めているのでしょうか?

答えは、当然「NO」です。

もし「約束の地」が平穏無事な場所、戦いに直面せずとも生きて行ける場所であったら、どうでしょうか。

十中八九、イスラエルの民は真の神である聖書の神の力を求めず、怠惰な緊張感のない生活を送り、やがて神など忘れたかのような生活習慣を採用し、偶像礼拝の民と変わらない集団へと堕落して行ってしまうでしょう。

私も夜眠れない程の困難にぶつかった時、自分の力ではどうしようもない難問に苛まされた時、逆境の時程、必死になって神に祈り求め、自分の罪を悔い改めています。

苦しい状況の時であればある程に、神を見上げています。

逆に順境の時は、思い返してみると、意識は自分の方にばかり向き、祈りも形式的になり、高慢になっています。
そこには霊的な成長はありません。

それと同じように、神は愛するイスラエルを物理的に、霊的に守る為に、成長させる為に、むしろ「一筋縄では行かない場所」に彼らを導いたのです。

ここに聖書の神が持っておられる「父の愛」があります。

"あなたがたは、罪と戦って、まだ血を流すまで抵抗したことがありません。
そして、あなたがたに向かって子どもたちに対するように語られた、この励ましのことばを忘れています。「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。
主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」
訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。
もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。
さらに、私たちには肉の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。
肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。
すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。"
ヘブル人への手紙 12章4~11節

⭐︎「クリスチャンとして生きる」ということは、「神の子ども」として生きる、ということです。

つまり、天地創造の神を「真の父」とし、神の御子であるキリストと共に日々を歩み、聖霊(三位一体の第三位格の神)の働きによって、聖書が示された世界観、価値観を持って生きることが出来るように変えられ続けられる、神の訓練を喜ぶことが出来る、ということです。

決して平穏無事な、全てのことにおいて上手く行く、ハッピーな人生を期待して歩むことではありません。
「困難からの解放」ではありません。

むしろ、どのような困難の中にあっても、例え自分自身に力はなくても、その渦中で確かな神の愛を見ることが出来る、希望を持って生きることが出来る、「困難の中にある勝利」、それがクリスチャンライフです。

⭐︎かつてイスラエル民族に与えられていた「神と共に歩む特権:霊の救いの祝福」は、今や全人類に差し出されています。

今のこの時代、「イエス・キリストの福音:恵みの福音」を受け取り、心から信じる人は誰でも「神の子ども」とされます。

「イエス・キリストの福音:恵みの福音」とは、

1:罪のない神であるイエス・キリストがあなたの罪を負って十字架につき、あなたの罪の裁きを代わりに受けて死なれた、あなたの罪はキリストが既に精算された、ということ。

2:十字架で死なれたキリストは墓に葬られた、あなたの罪は既に墓に葬られた、ということ。

3:しかし神は死では終わらず、キリストは3日後に復活された、ということ。

です。

神は今、この時、全ての人をご自身の元に招いておられます。

あなたもこの福音に現された神の愛を信頼し、「神の子ども」とされる祝福を自分のものとしてみませんか。

この世のいかなるものにも勝る真の「生きる力」が、困難に対する本当の解決が、あなたに与えられます。

心より、お勧め致します。

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