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俺たちは犯人じゃないのでこれはほぼ密室です

あらすじ

バラバラ殺人事件の捜査本部、容疑者としてモニターに映し出されたのは香坂の息子だった。

切断された首、両の手足、胴体は、すべて被害者と思しき男の部屋で見つかった。五階建てマンションの一室。部屋へ行くには、隣人の取り付けた隠しカメラの前を通らなければならない。殺害推定日に映っていたのは、息子の一颯を含む高校生の三人組だけである。

一颯の聴取を行うのは、香坂の後輩である吉高と決まる。父の立場を気遣い、自分が事件を解決すると息巻く一颯。対する吉高もまた、一颯から情報を引き出そうと手ぐすねを引く。

謎は三つ。遺体を切断した目的、顔や指紋を潰した理由、それからカメラを回避する方法。

さて、事件の真相は?

本文

 マンションの一室で切断された遺体が発見されてから三日、ようやくもたらされた糸口だった。
「本命の十二日に映っていたのは三人だけです。時間は十七時五十八分」
 捜査員が頬を紅潮させてパソコンを操作する。声は興奮に上ずっていた。
 隣人から提供された隠しカメラの映像だ。玄関ドアに設置されており、センサーが人を感知することで録画がはじまる。被害者宅へ行くにはこの前を通るしかなかった。
 二十二時を過ぎているのに、会議室には十名以上の捜査員が残る。彼らは押し合うようにモニターをのぞき込んでいた。香坂こうさかは一歩引いた位置で再生を待った。所轄の係長で、階級は警部補。近づけば場所を譲ってもらえる。実際、若い捜査員が気にする素振りを見せていたので、目配せで断りを入れた。今回は応援での参加だ。担当の班に遠慮して、前に出るつもりはなかった。
 そこに自身の息子が映っていなければ。
 先にカメラの前を横切ったのは少女だ。すくりと背を伸ばして勢いよく進んでいく。試合に臨もうとするような緊張と昂揚が見えた。くせっ毛を活かしたショートカットが歩みに合わせてリズムよく跳ねる。
 そのあとを背の高い少年が追った。しなやかに鍛えられてはいるが、体にはまだ厚みがない。表情だけがみょうに大人びていた。大きなストライドでゆったりと少女に追いつき、落ち着けとバックパックへ手をかける。
 続いた息子はふいに足を緩め、怪訝そうにカメラへ顔を向けた。年のわりに骨格が細く、頬は丸い。少年と比べたら子どもっぽさが際立つ。なにかを見つけたのか、大きな目がすうっと細くなった。躊躇もなくこちら側をのぞき込もうとする。少年が画面の端から戻ってきて腕を引っ張った。息子はカメラを気にしながらフレームアウト。しばらくして画面が暗転する。
 香坂はいつしかモニターに近づいていた。様子に気づいた部下が「香坂さん?」と声をかける。それを奥山のダミ声がかき消した。
「若いつっても限度があるだろうよ。いくつだ、こいつら」
 苦々しく吐き捨て、机に手を打ち付けた。奥山は本庁捜査一課の係長だ。岩のような体躯の持ち主で見た目通りに少々荒っぽい。そのわりに考え方は柔軟で、一部から生意気と評される香坂を気に入っている。
「高校生だといいですがね」
 応じた捜査員の顔も渋く、声には困惑がまじる。被害者は頭と両手足が切断されていた。事件の凄惨さに比して、画面に映るのは無邪気で真面目そうな子たちだ。
 多くの捜査員は、長身の少年が背負うバットケースに目を留めた。三人とも大きめのバックパックを背負っており、スポーティな格好だ。スポーツクラブの仲間ではないかとの意見が出る。
「次を再生します。被害者の部屋から帰るときの映像です」
 現場である五○七号室は角部屋だ。カメラの前を通り過ぎる人物は、必然、被害者に用があったことになる。「録画開始は十八時二十三分。三人の滞在時間は二十五分ということになります」
 ふたたび、息子の一颯いぶきが画面に映り込んだ。
「うちの子です」
 掠れ声のわりにはよく響いた。音を立てる勢いで全員の視線が集中する。静寂は一瞬で、衝撃が波紋を描くように広がっていった。そこへ奥山の怒声が投げ込まれる。
「どういうこった、香坂」
「わかりません」
 香坂はいったん口を閉ざした。一瞬で気持ちを切り替え、目に力を取り戻す。「三人目は私の息子です。香坂一颯、星和高校の一年。あとの二人は知りませんが、雰囲気からすると同級生でしょうね」
「息子って、あれか。でかくなったな」
 奥山がガシガシと自分の頬を両手で擦った。家族ぐるみの付き合いがあるので幼いころの一颯を知っている。「星和に行かせてたのか。名門校じゃねえか」
 星和は都内有数の中高一貫校で、過半数はエスカレーターで大学まで進学する。
「高校からですよ。中学の友人は顔を知っているので、おそらくは高校の同級生かと」
「参ったな。まずは管理官に判断を仰ぐ。香坂は待機だ。誰か見張っとけ」
 スマホを手に奥山が急ぎ足で部屋を出ようとした。その背に向けて香坂は声を張った。
「聴取は吉高よしたかにやらせてください」
「はあ? お前、意見なんてできる立場か」
 足音も荒く戻って香坂の胸ぐらをつかむ。奥山は怪力だ。細身とはいえ長身の香坂が持ち上がりかけた。周囲が取りなそうと集まるがすべて無視だ。香坂を揺さぶってがなり立てる。「いいか? 十二日に現場へ行ったのはこの三人だけなんだ。てめえの息子が最大の容疑者になってるってわかってんのか。俺はお前を気に入っちゃいるが、その飄々とした態度がクソほどムカつくこともある。今がそのときだ」
「もちろんわかってます。でも、対応を間違うと捜査をかき回されそうで怖い」
 拘束が緩んだすきに、香坂は一息でいった。
「お前……。ちょっとこい」
 胸ぐらをつかんだまま廊下へ引っ張り出す。後に続こうとする捜査員を一睨みで押さえつけ、声を潜めた。「どういうことだ? 簡潔に答えろ」
「遺伝上の繋がりがないと知られました」
 出産前に籍を入れたため、書類上は実子となっている。それでも薄々は感じ取っていたらしい。先日の法事で母親の身内が口を滑らせても、一颯は薄笑いでうまくいなしていた。「そのあとから距離を感じます。なにが変わったってわけでもないのに。以前なら、正直に話せと首根っこを押さえつけることもできた。でも、今は自信がありません。あいつはきっと、俺の立場を慮って嘘をつく」
「なんで吉高なんだ? お前の子飼いだからか」
「一颯が懐いているんですよ。古今東西の有名な事件を二人で考察したりしています」
 それだけで通じたらしい。眉をピクリと上下させると、奥山は襟から手を離した。
「吉高と同レベルで話せるってことか?」
「はい。隠し通すと決めたら、やり遂げるかもしれません。でも、吉高なら嘘を見抜けるし、一颯もそれをわかっている。小細工はしないかと」
 親しいことを話すのは賭だ。それを理由に外される可能性もあった。ただ、未成年相手の事情聴取は気を使う。管理官がまずは吉高をぶつけようと考えてもおかしくはない。
「俺らが欺されるっていうのか? 高校生のガキによ」
 香坂はネクタイを直しながら静かに微笑んだ。それが答えだった。「クソッタレ。上に相談はしてみるが、どうなるかわからんぞ。お前は戻ってろ」
 顎をしゃくって、隣の会議室へと入っていく。その背中に、香坂は深々と頭を下げた。

 通報があったのは七月十五日の昼頃だった。
 現場となった五階建てマンションは一LDKの賃貸で、社会人や学生の単身者が多い。都心への交通アクセスもよく、周辺にも戸建てや低中層のマンションが建ち並ぶ。わりあいに静かな地区だが、今はマスコミと野次馬がたかって大騒ぎになっていた。
 香坂にもすぐ情報は入った。殺人、さらに遺体損壊事件だ。合同捜査本部が立つのは明らかで、署内は沸き立ち、記者が蚊のように飛び回っている。ぶんぶんと煩いそれを後目に、香坂は書類仕事に勤しんだ。翌朝、課長に呼びつけられるまで、自分が駆り出されるとは思いもしなかったのだ。
「本庁から奥山さんのところがくるらしい。元上司なんだって?」
 香坂は察しの悪いふりで「ええ、まあ」と頷いた。合同捜査が決定し、名指しで香坂を出すようにいわれたのだろう。「奥山さんが可愛がっている若手、ほら、なんていったっけ?」
「吉高ですか」
「そう、それ。お前が育てたんだって? できるらしいな。うちに連れてくればよかったのに。奥山さんに取られたの? それとも自分の代わりに差し出した?」
 人員差配に嘴を突っ込まれてご立腹だ。課長は知能犯を扱う二課が長かったせいか、機嫌を損ねると回りくどく意地が悪い。香坂はいつものうすら笑みを貼り付けて受け流した。
「あれは狂犬ですよ。シュッとした見た目だからお利口に見えますが、なにをやらかすか怖くて。私の手には余ります。それよりも……」
 強行犯第二係の席をちらっと見る。所轄側の担当班だ。「私まで出るといい気持ちはしないと思いますが?」
 一報が入るや臨戦態勢となり、昨日から泊まり込みで捜査をはじめている。他班の係長である香坂が出れば、彼らのプライドを刺激するのは間違いなかった。
 香坂は語学の専門捜査官で、おもに外国人絡みの事件を担当している。所属は刑事課国際係。事件をメインで追うこともあるが、部下を貸し出すことや、ほかと合同で捜査することも少なくない。強行犯係からの協力要請はひっきりなしで、二係との関係悪化は避けたかった。
「私の知ったことじゃないよね? 国際からはお前のほかにもう一人出して」
 ひらっと手を振られて、香坂は大人しく引き下がった。
 一番の若手を連れて会議室へ向かう。階段を登り切ったところに吉高が待っていた。目が合うと笑みを浮かべて目礼する。連れには目もくれなかった。愛想のいいタイプなのでめずらしいことだ。話があると察して部下を先に行かせる。
「奥山さんから伝言です。多少の無理をしてでも周囲を固めたかった。すまん、と」
 それだけ難しい事件になると読んだのだ。いわれずとも香坂だってわかっていた。
「頭と両手足が切断されていたんだって? オブジェのように積まれていたって聞いた」
「ええ、浴槽の中で。胴は浴槽にもたれ掛かるように置かれ、前身頃に両足と両腕が立て掛けられていました。頭はその前です。両腕は関節で曲げられていて、頭を抱え込む感じでした」
「なるほど。切断されたのは五箇所?」
「いえ。もう二箇所。膝も切断されています。さらに、顔は潰され、指は火で炙られていた。猟奇的だと騒がれていますが、俺はむしろ……」
 吉高が言葉を切った。見立ての擦り合わせをしたいのだろう。上司と部下だったときにいつもしていた遣り取りだ。
「むしろ冷静で理性的。外へ持ち出して遺棄するためにやったとしか思えないからな。遺体を積んだのは容量確認のためだと考えたのか?」
「はい。ですが、被害者宅にはスーツケースがありましたし、結局、遺体は浴槽に放置されたままです。犯人の意図がまったく見えません」
 遺棄するための準備が万端整ったところで、遺体をそのままに犯人は消失している。たしかに不可解だ。奥山が信頼できる捜査員を揃えたがるのは当然といえた。
「被害者は細身で、身長も平均的。切断しなくてもスーツケースに入るんじゃないか。容量確認にしては手が込んでいる」
 香坂は促すように歩き出した。タタッと吉高が隣に並ぶ。フットワークの軽い男だ。大学でボクシングをはじめ、休みながらもいまだにジム通いを続けている。
「今日は昼から雨になるらしいですよ。合同捜査の初日なのに。やりにくくてしょうがない」
 事件は管理会社の通報で発覚した。四○六号室の住人から異臭の訴えがあったのだ。担当者は匂いを嗅いでピンときたらしい。よもや殺人事件とは思わないが、警察官立ちあいのもとで鍵を開ける。担当者の足は玄関先で止まった。両手を口にあて、蒼白な顔で首を横に振る。なかへ入り、浴槽を確認したのは警察官だった。
 検視官の見立てでは死後三、四日。十一日の夜、同じ階の住人が部屋から出てくる男の姿を見ているし、十二日までは電気の使用量が普段と変わりない。殺されたのは十二日中、せいぜい十一日の深夜と考えられた。
 部屋の住人は辻翔大という二十三歳の大学院生だ。周囲の評判は悪くなかった。服装こそ地味だが、優しげな容姿で物腰も柔らかい。ゼミの教授は真面目で優秀だったと惜しんだ。ただ、プライベートを知る親しい友人が挙がってこない。
 もう一つの顔はすぐに明らかとなる。辻はスマートフォンを二台持ちしており、片方のアドレス帳には暗号が並んでいた。メモ欄も充実しており、こちらはアイコンやアルファベットが多い。夜職のスカウトではないかとの声が上がる。さらにパソコンの中から肌を晒した複数女性の写真や映像が見つかった。なかにはベッドの秘事を隠し撮りしたものまであった。どの女性も髪が長く、危うげな雰囲気がある。どこで恨みを買っていてもおかしくない。
 大量のアドレスをチェックし、インストールされたアプリを解析する。だからといって大学やマンション周辺の捜査をおざなりにするわけにもいかない。これといった手がかりを掴めずに時間が過ぎていった。
 隣人の松本彩花まつもとあやかが気になると言い出したのは吉高だった。二十八歳の女性で、リラクゼーションサロンのセラピストをしている。できたばかりの大阪店へ十日から出向中だ。吉高が連絡したところ一ヶ月は戻らないという。なにかを告げようとして躊躇う様子があったこと、マスコミを気にしていたことを報告し大阪行きを願い出る。結果、玄関ドアに隠しカメラをつけていることを打ち明けられた。違法かもしれないと思って黙っていたらしい。
 彼女の許可を取り、急行した捜査員が室外に設置されたカメラを押収した。ところが、映っていたのは一颯を含む三人の高校生だけである。
 捜査本部は騒然となった。

 一颯の朝は早い。七時半過ぎに教室へ入り、宮森瑛みやもりあきらと一局指す。もしくは本を読むか、数学の問題集を解く。朝のラッシュを避けるためだ。
 七月十一日もいつもの時間に登校した。すでに日差しは強く、蒸し暑い。駅から歩くだけで汗がにじんだ。太陽を忌ま忌ましく睨んで足をはやめる。昇降口へと続くピロティの入り口に白いシャツが見えた。品のよい立ち姿は宮森だ。太い柱の影から動こうとしない。首を傾げながら近づくと、彼が振り返った。しっと人差し指を唇にあてる。一颯は瞬きして耳を澄ました。蝉しぐれにまぎれて誰かの話し声がする。覗き見ると、昇降口の前で女子生徒が向かい合っていた。
 一人は白石花積しらいしかづみだ。隣のクラスだが、高校から入学した一颯でも知っている有名人である。学年代表の一人で、成績優秀。さらに、体力テストで男子の上位と張るスコアを叩き出した。そのくせ天然で、性別を感じさせない外見も相まって、女子からの人気が高い。
「白石さんはわかる。もう一人は誰?」
「二年の心春こはる先輩」
 宮森は内部進学で友人も多い。それでも名前で呼ぶ女子は少数だ。それだけ親しいのだと察せられる。
「暑いからさっさと教室に入りたいんだけど。無理めな感じ?」
「白石は気づいてるっぽいし、しれっと出てってもいいけど」
 言葉とはうらはらに、宮森は腕組みして柱に寄り掛かった。「あの二人、幼馴染みなんだ。中学の頃は姉妹みたいに仲がよかった」
「今は仲がよろしくないと」
「どっちかといえばそう。白石が口うるさくいって、心春先輩が避けてた感じ」
 現状は逆転していた。心春のほうが逃げられないように白石の腕をつかんでいる。
「お前、白石さんと仲いいよな。助けなくていいわけ?」
「心春先輩と話したがっていたのは白石のほうなんだ。迷ってタイミングを逃した」
 なるほどと頷いて一颯は座り込んだ。宮森が首を傾ぐようにして見下ろす。
「ずいぶん詳しいな?」
「白石とは小学校も同じだからな。あいつ、人の顔を覚えるのが苦手でさ。中学に入ってしばらくは、俺と心春先輩にべったりだった」
「そっか。いいよ、付き合う。教室に入っても八時まではクーラーが入らないし」
 一颯は口角を上げて、抱き込んだ鞄へ顎を乗せた。宮森が嬉しげに笑う。
 待ったのは五分ほどだ。白石が振り切って校舎へ走り込んでいく。残された心春は昇降口の前に立ったままだ。来たばかりを装って二人が姿を見せると、ピクリと肩を跳ねて二年生の靴箱へ駆けていった。

 翌朝、いつものように登校した一颯は、昇降口の手前で足を止めた。階段で白石が仁王立ちし行く手を阻んでいる。右手に宮森のバッグを鷲づかみし、視線は一颯にロックオンだ。逃げたとして、体力オバケの白石に敵うはずがない。とはいえ、宮森が味方になってくれるなら別だ。確認するように視線を移すと、彼は虚ろな様子で口を開いた。
「ごめん。話だけ聞いてやって。お前と一緒じゃなきゃ話さないっていうんだ」
 一颯は基本的に知りたがりだ。話だけならと即答する。ようは興味が勝ったのである。
 三人は教室にバッグを置いて、ベランダから外階段の踊り場へと出た。太陽を背に、宮森が柵へ寄りかかる。一颯はその傍らにしゃがみ込んだ。白石は階段の一つに足をかけたり、柵から身を乗り出したりと落ち着きがない。宮森に促されて、ようやく口を開く。
 別れ話で揉めているという。一颯は白石を三度見してから、宮森をちらっと伺った。澄まし顔で野菜ジュースにストローをさしている。ぐいっと顔を白石のほうへ戻して、こう訊ねた。
「カレシいたんだ?」
 一颯の知る彼女はいつも女の子に囲まれている。差し入れのお菓子にはしゃぐ姿を見て、同級生が「ハーレム」と羨ましそうに揶揄しているのも聞いた。
「余計なことをいうなって。噛みつかれるぞ」
 宮森のひと言こそ余計である。白石がぷくりと頬を膨らませる。
「私にカレシがいたらおかしい?」
「俺はべつに驚いてない。なんで俺たちにその話をするのか理解できずにいるだけ」
「あ、そっち」
 白石はごまかすように笑って、ペタペタと髪を撫でる。「なんていうんだろう。よろしくない写真を撮られてまして、それを取り返したかったりします。相手の部屋までついてきてくれない?」
 宮森はゆっくりとジュースを一口吸い上げてから「いいよ」といった。一颯が目を剥く。白石もあっさりいくとは思っていなかったのだろう。息を飲んだあと、満面の笑みを浮かべて階段からジャンプした。その着地に合わせて、タイミングよく宮森が言葉を放つ。
「警察にならね」
 白石が着地と同時につんのめった。宮森は大きな溜め息を零してから、畳みかける。「俺に声をかけたのは護身術ができるから? 一颯のこともお前には話した。道場で仲良くなったことも、親が警察官だってことも。相手、相当ヤバいんだな?」
「たぶん。でも会うのは私だけ。二人は外にいてくれるだけでいい。人がいれば、相手も危害は加えないと思う。あと、もし私が大声を出したときは通報してほしい」
 宮森のポロシャツをつかんで、お願いと声を絞り出す。
「俺はいいよ。お前とは長い付き合いだし。でも、一颯を巻き込むな」
 表情こそ変わらないが、声には怒りが満ちていた。一颯は割って入るように立ち上がった。
「ちょっと待て。行くかどうかは自分で決めるって」
 それから、白石に向き直って言い聞かせる。「ただ、俺も宮森に賛成。警察に話したほうがいい。青少年保護育成条例もあるから、すぐに動いてくれるはずだ」
「警察はダメ。今日行けば、必ず画像を削除させてもらえる約束なの」
「あのさ、それほんとに信じられんの?」
 一颯の声はことさらに優しいが、眉間には深い皺が刻まれている。白石は唇を引き結んだ。
「信用できないってわかってんじゃん」
 宮森が彼女の頭を軽く小突いた。「警察を呼ぶことで、はらいせに画像をアップされるかもって怖がってんの? 可能性がゼロとはいわないけど、相談しないよりもマシだと思うよ」
「わかってる。警察にいってもいわなくても、流出の危険があることは」
「じゃあ、どうして」
 宮森が声を荒らげた。その勢いに白石が身を竦める。一颯は宮森の肩をつかみ、小さく首を横に振った。知ったからには見過ごすわけにはいかない。少なくとも、一人で行かせるわけにはいかなかった。ここで決裂して、頼ってもらえなくなるのが一番まずい。
「白石さん、もしかして学校へチクられるのを気にしてる? 父さんに聞いてみようか」
 秘密にしてくれるとわかれば、彼女の気持ちも変わるかもしれない。
「学校もだけど、親に知られるわけにはいかない」
 消え入りそうな声で白石が呟いた。暑さで汗ばんだ頬から少しずつ色が失せていく。「失望されて、見捨てられる。お前はもういいっていわれるの」
「そんなこと、あるはず……」
 ないとは言い切れなかった。一颯は白石のことをなにも知らない。助けを求めるように宮森を見る。
「それ……、中学受験に失敗したとき、心春先輩がいわれたんだっけ?」
 白石がコクリと頷いた。宮森が補足するようにいった。「心春先輩のとこ、開業医でさ。厳しいみたいなんだ。最低でも医学部みたいな。うちの系列には医学部がないし、本命は翔華女子だったから」
「ああ、そういう感じ。いわれたの小学生のときか。きついな。お前はもういいって」
 一颯はゆっくりと深呼吸して、なにかを振り切るように「よしっ」と声を上げた。「俺もいく。一人より二人のほうが安全だろ」
「バカなの? なにか起こったときは二人でも危険だよ」
 むくれた顔で宮森が睨み付ける。一颯はその肩をぽんぽんと叩いた。
「お前はついていくんだろう? 一人で格好つけてんじゃねえぞ」
「俺は仕方ないじゃん。白石みたいな天然バカ、放っておけないし。でも、お前はこなくていいって」
 言い合いになりそうなところへ、白石がダイブするみたいに割り込んできた。
「二人とも、ほんとうにありがとう」
 そのままの勢いでペコリと頭を下げる。気を削がれたのか、宮森は諦めた様子でがっくりと項垂れた。
 少しずつ生徒が登校しはじめていた。制服はまずいので、途中でジャージに着替えて向かうことにする。最後に放課後の集合場所を確認して、白石を先に校舎へ戻した。決行は本日だ。用心棒を手に入れて安心したのか、白石はタンタンと跳ねるように階段を駆け上がっていく。
「切り替えがはやいというか。緊張感がなさすぎじゃね?」
「そこが白石のいいところだから。それより、らしくないな」
 手すりにぐっと寄りかかって、宮森はジュースのパックを潰した。
「白石さん?」
「いや、わかってんだろ。こんなことに手を貸すなんてらしくないよ、一颯」
 日差しは強く、痛いほどに眩しい。一颯は空へ手を翳して目を伏せた。
「そうでもないと思うよ」
 しらばくれたら、宮森は「今日も暑くなりそうだな」と無理やりに話題を変えた。

 事件のニュースは十六日から取り上げられはじめた。アナウンサーが緊迫した様子で事件を伝えている。情報は少ないが、バラバラ殺人という言葉の威力は大きくて注目度は高い。リビングで一颯が見入っていると、母親に声をかけられた。
「お父さんとこの管轄よね?」
 この手のことは一颯のほうが詳しい。頷くと、母親は不安そうに時計を見た。二十一時を回っている。父はまだ帰らない。
 翌十七日の報道で、アナウンサーの後ろにマンションの一部が映った。一颯は画面を凝視したままスマートフォンへ手を伸ばした。時を置かず宮森からの着信が入る。同じニュースを見ていたらしい。
 警察が接触してきたのは十八日の午前中だった。
 三限目がはじまる直前、英語教師の担任が忙しなく体育館へ入ってきた。一颯だけを呼んで外へ連れだそうとする。出口でとっさに宮森を振り返った。すでにこちらへ足を踏み出していたので、来るなと首を振って伝える。
 連絡通路から校舎へ入るところでチャイムが鳴った。廊下はガランとしていて音をよく響かせる。
「警察の方がこられてる」
 一颯の顔が強ばったのを見て、担任は早口につけくわえた。「香坂の証言がほしいんだって。いきなり警察とかいわれても驚くよな。同席を申し入れたんだけど断られた。平気か?」
 学校にはなにも伝わっていないらしい。一颯はほっと息をついて、いえと首を振った。
「父が警察官なので慣れているというか。一人で大丈夫です。ありがとうございます」
 笑って見せると、人のよい担任は「そういえばそうだ」と素直に胸を撫で下ろした。
 連れて行かれたのは視聴覚室だ。担任がノックしてドアを開ける。
「ああ、どうも、先生すみません。お手間を取らせました」
 愛想よく担任に話しかけたのは吉高だった。一颯は目を瞠り、えっと声を上げる。「久しぶりだな、一颯」
 軽く手を上げ、わしゃわしゃと頭を撫でる。担任に知り合いかと尋ねられ、一颯は狐につままれた様子で頷いた。
 視聴覚室は三人で使うにはもったいない広さだ。三百人を収容できる部屋なので閑散としている。ドアを閉めると外の音もあまり聞こえない。空調のうなり声だけが大きかった。
 スクリーンと座席の間に置かれた長机に、四角くてゴツい男性が座っていた。近づくと男が立ち上がる。吉高に促され、一颯はぎこちなく二人の向かいへ座った。
「決まりだからいちおうね。警視庁捜査一課の吉高です」
 警察手帳を見せながら席に着く。もう一人も同時に手帳を出した。「こちらは俺の上司で、奥山警部。香坂さんの元上司でもある。単刀直入にいう。学校にはお友達二人の写真も見せていないし、事件についても伏せた。聴取は俺がメイン。こちらがどれだけの配慮をしているか、わかるな?」
 淡々と詰めるような口調だった。呼応するように一颯の顔が引き締まっていく。
「それを配慮というってことは、俺は犯人だと疑われているんですか?」
「お利口で助かるよ。いいか、一颯。すべて隠さず話せ。香坂さんの立場を考えて嘘をついたりするなよ」
「警察相手に偽証なんてしません」
 睨むような目で見返したのは、受けて立つという気持ちの表れだ。
「どこまで信じていいのか迷うんだが」
 吉高の目がわずかに細まった。ひと呼吸の間を置いて続ける。「時間も限られているから早速はじめよう。あの日、五○七号室を訪ねた理由は?」
「友人についてきてほしいと頼まれたからです。別れ話でもめていると」
「一緒に映っていた女の子? ジャージを着て、でかいバッグを背負っていた」
 吉高がクリップボードから写真を三枚抜き出した。それぞれが映った隠しカメラの静止画だ。白石の写真を前に滑らせ、指の背で机を軽く打つ。一颯は頷いた。「試合会場へ向かっているような勇ましい雰囲気だったけど」
「俺もそう思いました。やる気に満ち溢れていて、悲痛な感じは欠片もないですよね。ところで先に少しだけこちらの話を聞いてもらえませんか?」
「なんだこのクソガキ」
 ここまで黙っていた奥山がキレた。まあまあと宥めに回った吉高にも噛みつく。「お前もお前だ。友だちと話してんじゃねえぞ。殺人事件の事情聴取だぞ。わかってんのかよ」
「もちろんです。奥山さんこそ、香坂さんの息子と思って怒鳴り散らしたらだめですよ」
 奥山は身内に対して沸点が低い。普段の聴取で感情を露わにすることはめずらしいので、知り合いの息子という意識を切り離せずにいるのだろう。情が深いのは彼の長所でもあり、欠点でもある。自覚はあるようで、奥山はしかめっ面をさらに歪めて腕組みした。
「まあ、話してみろ」
 両足を踏ん張ってむんっと睨めつける。まるで達磨のようだ。一颯はそっと視線を逸らした。睨み合ったら負ける。
「一緒だったのは宮森瑛と白石花積。どちらも俺の同級生です」
 名前をいうときに手で写真を示した。「昨日のニュースに現場が映ったことで、もしかしてと思いました。放課後、三人で警察へ行こうって話していたんです」
 そこまで決まってはいなかったが、しれっと嘘をついて先を続ける。「あの日、俺と宮森は外で待機していました。ドアホン越しに男から入ってくるなといわれたので。白石にもそういう約束だからと言い含められました」
「相手の顔は?」
 吉高の問いに、一颯は首を横に振る。
「見ていません。鍵を開けると、相手はすぐになかへ引っ込んだので。白石の鞄に通話状態のスマホを仕込んでて、悲鳴が聞こえたら部屋に飛び込むつもりでした」
 幸いなことに鍵は開いていたので、いつでも乗り込める状態だった。「あとで録音を提出します。男の声はほとんど入っていなかったけど。頷くばかりで、あんまり喋らなかったみたいです」
「提出できんのかよ。聞こえないのと入ってないのはべつもんだぞ。専門家に任せれば、耳に聞こえないような小さな音も拾える」
 奥山の挑発に、一颯はうっすらと笑って見せた。
「白石の声だけで偽の音声を作るなんてことはしていません。データのタイムスタンプを見れば、いつ録音されたのかわかるはずです」
「わかった」
 吉高があいだに入って話を進める。「データはあとで貰うとして、話の内容は?」
「写真をたてに脅されていたみたいなんです。お金を渡して、データを消去させてもらったんだと思います」
「いくら払った?」
「わかりませんが、そう安くはないと思います。それから、白石は相手が焦っていると感じたみたいです。逃亡資金だったのかもしれない」
「白石さんがなかにいた時間は?」
 隠しカメラによると三人の滞在時間はおよそ二十五分。写真を消すだけにしては長すぎる。
「十分くらいです。ドアホンを押す前に少し三人で話しました。合わせると、三十分くらいになると思います」
「外にいた時間のほうが長いな。どんな話をしていたんだ?」
「もう一度だけ警察に話すことを薦めて、でも白石が折れなかったから、なかへ入ったあとの注意事項を再確認しました。十分経っても出てこなかったら警察を呼ぶとか」
「それだけ警戒していたのなら相談しろよ。俺でも、香坂さんでもさ」
 じろりと睨まれて、一颯は首を竦めた。「まったく……。ところで隠しカメラだけど、よく気づいたな。俺たちだって気づけなかったのに」
「最初は真夏にリースを飾るなんてめずらしいって思っただけなんです」
 ペールグリーンにイエローの差し色が映えるリースで、大小様々の花がこんもりと盛られている。カメラは親指サイズで小さく、ベース材のスモークツリーに埋めこんであった。ぱっと見で気づくのは難しい。
「完全に同化していただろう?」
「そうなんですけど、どうやって吊しているのか気になって」
 部屋側からテグスで吊られていることはすぐにわかった。「よくみたら造花じゃなくてプリザーブドフラワーっぽいし、外に飾るのはもったいないなって」
「それでカメラを見つけて顔を近づけたと。そのうち不審者で通報されるんじゃないか」
「反省してます。こうやって、俺だけ真正面から顔を撮られているわけだし」
 一颯は鼻に皺を寄せて、ついっと自分の写真を爪弾いた。「今頃、べつの警察官が校門を見張っていたりするんですか?」
「どうして?」
 吉高は意味ありげに笑ってから、質問で返した。
「ただの事情聴取なら、父にいって俺が登校するのを止めていたんじゃないかなって。俺たち三人をまずは学校に閉じ込めようとしていません?」
 一颯は吉高の顔をじっと見た。やすやすと表情を読ませてくれる相手ではない。
「そうだといったら?」
「角部屋で、隣の部屋には隠しカメラ。部屋を訪ねた人物はもれなく録画される。映っていたのは俺たちだけなんですね? だったら密室ってことだ」
「残念ながら密室にはならないな。お前らが映っているんだから」
 あえて情報を与える。三人しか映っていないことを伝えて、一颯に自身の立場をはっきりと自覚させるためだ。
「でも、俺たちじゃない」
 一颯はきっぱりと言い切った。
「それをすんなり信じるわけにはいかないんだよ。お前らが映っていなければ、ほぼ密室状態なんだから」
「そうはいっても、俺たちに犯行は不可能だと思うんですけど? 警察だってわかっているんじゃないですか」
 一颯はちらちらと二人の様子をうかがい見た。奥山がくいっと顎で先を促す。「バラバラ殺人であることは報道されています。でも、名前どころか、被害者が部屋の住人かどうかも伏せられている。俺たちが疑われているんだから、訪問した十二日は死亡推定時刻の範囲内に入っているはずだ。発見までに顔が腐り落ちたとは思えません。顔が潰されていたんじゃないですか?」
「お前な……。秘密の暴露だって疑われるレベルだぞ?」
「考えれば誰だってわかるレベルです。遺体をバラバラにするのは、恨みによる暴走か、死体遺棄のため。どちらにしろ、顔が原形を留めていない可能性は高い。もし遺棄するためなら、身元を隠すために顔だけでなく指紋にも手を加えているはずです」
 淡々と答える一颯に、吉高はこれ見よがしの溜め息をついた。
「お前の容疑は晴れるどころか深まるばかりだが?」
 言外に、推察が正しいことを認めている。一颯は「やっぱり」と呟いて、口元にうっすらと笑みを浮かべる。
「俺たちがカメラの前を通って、戻ってくるまでの時間は長くても三十分。男を殺し、切断し、顔と指紋を潰して、証拠を隠滅する。自分たちの身だしなみを整え、写真を消去する時間も必要です。実際には白石しか入っていませんが、三人でやっても無理だ」
「物理的には不可能じゃない。それが、香坂さんと俺の結論だ」
 吉高は組んでいた手をほどいて一颯の目許を指さした。「ほら、一瞬だけ緊張が見えた。お前も気づいている。かなり無茶だができなくはないって」
 一颯は吉高の手を払って、小さく舌打ちをした。
「隠しカメラがあってよかったのかもしれない。父は大丈夫ですか? 息子が容疑者なんて辞表を書かされていてもおかしくない」
「さあ、どうだろうな?」
 吉高の顔に浮いているのは喜色だ。一颯は確実に推理戦へ乗ってくる。少なくとも、父親の立場を守るために嘘をついて捜査を混乱させるようなことはしない。
 一颯は深く息を吸い込むと、自身を奮い立たせるように眦を鋭くした。
「情報を下さい。俺がここで犯人の目星をつけます」
「くっそ生意気に育ったな」
 奥山のがなり声に一颯の細い肩が小さく反応する。それでも負けるわけにはいかなかった。奥山を真正面から見据えて奥歯を噛みしめる。
「奥山さん、そういうの好きでしょう? 俺も、香坂さんも生意気ですよ」
 どこか楽しげに、吉高が援護射撃をする。
「力があるから許しているだけだ。勘違いすんな」
 奥山は吉高の椅子を軽く蹴って、懐古するように一瞬だけどこか遠くを見やった。「最後に会ったのは二つになる前だったか。当時のかわいさは欠片も残っちゃいねえ。香坂はどういう教育をしてやがんだ」
 怒れる達磨がにっと笑みを刷く。「よーし、聞くだけなら聞いてやる。つまらない話だったらキレるからな?」
 こうして一颯の戦いが幕を開けた。

 最初に確認しておくべきは現場だ。一颯には当日の記憶と白石がらみのアドバンテージしかない。二人から情報を引き出しながら推理を進める必要があった。
「五○七号室を訪ねると、必ず隠しカメラに映る。これは間違いないですか?」
「死角もあるにはある。ただ、人が通れば必ず映ると考えていい」
 詳細な検証はこれからだが、吉高の実験では映らずに通り抜けることはできなかった。
「あれ、センサー式ですよね?」
 吉高がどうしてわかったのかと視線で訴えてくる。「本体が小さいから、バッテリーに割ける容量は限定的です。フルで録画していたとは思えません」
「人感センサーが反応すると一分ほど録画する」
 一颯に書くものがほしいと頼まれて、吉高はボールペンと予備のメモ用紙を渡した。
「人感センサーって、玄関の電球なんかについているやつですよね」
「お前の家はそうだな」
「昨日、隠しカメラのスペックをいくつか調べました。センサーの感知範囲は広いもので百二十度。設置されていたカメラは、わずかに下向きでリースにはめ込まれていました。高さは俺の身長と同じくらいだったから、おおよそ百六十五センチ」
 フリーハンドでセンサーが感知する範囲を書き入れていく。立体的に見るとカメラから円錐形に広がるので、広角の懐中電灯で照らせる範囲と考えればわかりやすい。
「水平方向はわりと死角があるけど、近づくほど人の通れる幅じゃなくなるんだ」
 吉高がカメラの中心付近に指を伸ばす。「上下方向、といっても下側だな。そっちはさらに逃げ場がない」
 かりに本体の伏角が二十度とすると、センサーは伏角八十度まで感知できることになる。
「ドアぎりぎりのところをしゃがんで移動しても映りますか?」
「小柄な捜査員でもだめだった。ちなみに、撮影範囲はセンサーのそれより広い。感知されたら必ず映る」
 スペックを調べた時点で見当はついていたため、一颯に落胆はなかった。
「Wi-Fiに繋ぐとクラウド保存ができるタイプですよね」
「そう。スマホに通知も飛ばせる。ただ、隣人はITに疎くて、機能は使いこなせていなかった。そもそもスマホがあれば事足りるらしくて、部屋にインターネットを引いていないんだ」
「つまり、録画映像はMicroSDに保存されている分だけ?」
 吉高が頷くと、一颯は怪訝そうに小さく首をひねった。「ストーカー対策でカメラを仕掛けたのかと思っていたんですが、そのわりにはちょっと雑かな。使いこなせなかっただけかもしれないけど」
「詳細は省くが、カメラを取り付けるだけの理由はある。ただ、ストーカーはいない。そいつが事件に関わっている可能性は考えなくていいよ」
 差し迫った理由があって隠しカメラを設置していたわけではないらしい。少し前までグレーゾーンのメンズエステに務めており、仕事終わりの待ち伏せや付きまといがあった。職場を変え、引っ越しをしたので、しらばくは以前の客が追ってこないか神経質になっていたという。録画データは小まめに消しており、別の媒体に移すこともしていない。
「わかりました。カメラについてはこのくらいかな」
 一颯は視線を左下へ向け、見落としがないか確認する。それから顔を上げて話題を切り替えた。「ほかにも、今回の事件には大きな謎があります。遺体を切断した理由です」
 バラバラにする利点は幾つかある。まず、運びやすい。大きさによっては燃えるゴミとして出すことさえ可能だ。遺棄するなら、複数の場所に分けることで捜査を攪乱することもできる。さらに身元の特定を遅らせ、事件を広域化することも。顔や指紋を潰したのは身元を隠すためと考えるのが自然だ。それなのに、遺体は部屋に放置されている。明らかにおかしい。
「どこかに埋めるつもりが、面倒になったんじゃないか?」
 奥山が試すように茶々を入れた。面倒になったというのはさておき、途中でやめたという可能性は充分にある。
「切断したあとで不測の事態が発生したのかもしれないですね」
 交通規制や検問で目的地までいくのが難しくなったとか、犯人が怪我をして断念したなど、事由を上げるのは簡単だ。「遺体損壊はフェイクで、真の殺害方法を隠すためだったのかも?」
「死因は確定していて、痕跡もちゃんと残っていた。切断箇所とは無関係だ」
 吉高が答えた。頭蓋骨が陥没しており、致命傷はそれだと確定している。
「だからお前らなんだ」
 奥山が三人の写真を指で示した。「普通、遺体が切断されていたら外に持ち出すためだって考える。だが、逆の発想をするとどうだ? お前ら、運び出すためではなく、運び入れるために切断したんじゃねえのか」
「やっぱりそれか」
 一颯は呻くようにいった。そのわりに表情からは余裕と自信が消えていない。
「被害者は細身の男だ。切断して三等分すりゃ、運び込めただろう? 三人とも、ずいぶんでかいリュックをしょってる」
 奥山はとくに大きな宮森のバックパックに指を置く。一颯は気合いをいれるようにふっと息をはいた。
「俺、隠しカメラに気づいていたんですよ。作戦を中止して、べつの場所へ遺棄するに決まってます。そもそも、バラバラ死体の入ったバックパックを背負うなんて無理だ」
 吐き気を押さえるように口を押さえる。
「そういわれてもな」
 吉高が口を挟んだ。「バラバラにできるなら背負えるだろ?」
「だからやってないって。バックパックに入るってことは、小さく切り刻まれていたってことですよね? 考えただけでぞっとする」
「そこまでじゃないよ。胴体がちょっと大きい気もするが、うまくやれば入るだろ」
「白石はバスケ部で、宮森はサッカー部なんです。部活はサボったけど、荷物は持ってきていたから」
 白石はともかく、宮森は話を持ちかけられたのが当日の朝なのでどうしようもない。
「宮森くんは野球部じゃないのか?」
「ああ、バット? 武器になるから借りてきたって。万一のときは投擲するっていってました。意外と凶暴でびっくりしたけど」
「お前、付き合うやつは選べよ」
 死因を知っている吉高は、思わずといった様子で顔に手をあてた。
「本気で使う気なんてなかったはず。宮森はいいやつだ」
 一颯は拗ねたように唇を尖らせた。「そもそも行きと帰りでバックパックの形状はほとんど変わっていません。重さだってそう。映像があるんだから調べてください」
「それは俺も思ったし、香坂さんも気づいている。でも、風船を膨らませたり、重りを入れたりすれば偽装できなくもない」
「できないって。十二日もちゃんと学校へいって授業を受けました。俺らには殺害して、バラバラにする時間なんてなかった」
「夜中に家を抜け出したのかもしれない。もしくは、殺害と切断はお前ら以外の人間がやった可能性もある。死体遺棄だけなら、寝る時間も学校へ行く時間も充分にあるだろ」
「そんなに逃げ道を塞いでこなくても。父さん、ものすごく怒ってるんだ……」
「警察は徹底的にやるもんだ。ただ、今回はさらに念入りにやるっていってたけどな」
 吉高の苦笑いに、一颯は父親の本気を悟った。情けない声を上げて机に突っ伏す。
「バカだな」
 奥山がその頭をごりっと撫でた。「とことんやって、お前が関わっていないって証明したいんだろうよ。捜査から外されているのに、頭ん中はこの件ばっかりだ。親父を心配させんじゃねえよ」
 一颯はゆっくりと体を起こした。その顔がくしゃりと歪んでいる。奥山はどこか満足げに頷いた。

 やるべきことは変わらない。一颯の目的は新たな容疑者を導き出すことだ。
「亡くなったのは十二日で確定ですか?」
「死後三、四日って見解だから、十一日だったとしてもおかしくはないが」
 吉高はちらっと奥山に視線を投げた。「俺の判断で話しても?」
「お前が責任を取るなら構わんぞ」
 奥山はふんっと鼻を鳴らした。もちろん同席しているのだから奥山も連帯責任になる。ずいぶんと甘い裁量だ。吉高への信頼がうかがえる。
「電気が十二日まで使われていた形跡がある。検視でも十一よりは十二日だろうという見立てだ。さらに、同じ五階の住人が、十一日の二十一時頃に五○七号室から辻さんらしき男が出てくるのを目撃している。ただ、目撃者はすぐに部屋へ入ったので顔までは見ていない」
「辻さんは隠しカメラの前を通っているはず。映像で顔を確認できなかったんですか」
「カメラがあることを知っていたんだ」
 吉高は苦々しい表情で首を振った。「普段から顔が映らないようにしていたらしい。その日も、レンズに向けて死角からスマホを翳していた。帽子も被っていたから、顔はまったく見えない。無防備に顔を晒したお前とはずいぶん違うな」
 吉高のからかいに、一颯はすんと鼻を鳴らして半目になった。
「顔が見えないのなら、その男が辻さんとはかぎらないのでは? そいつが犯人ってことはないんですか」
「十一日に人が映っていた映像は二回。辻さんらしき男が出かけるときと、帰ってきたところだけ。それ以降は、お前ら三人をのぞくと出入りはない」
 映像の男が辻ではないのなら、戻ってきたあとで、再度外へ出なければならない。結局、カメラを掻い潜る必要がある。
「あれ? 今、人が映っていた映像っていいました? ほかにも映像があったんですか」
 一颯が食いついたので、吉高はにやりと笑った。
「ハトがときどき映っている。誤作動も何度か。感度は低く設定されていたが、日に数回はあるんだ」
「カメラに使われているのは赤外線センサーですよね?」
「そう。物体は基本的に赤外線を放出していて、温度が高いほど線量が多い。センサーはその変化と動きを計測していて、一般に温度差が四度を超えると反応する」
 人を含む動物は体温が高いのでほぼ引っかかるし、そうでなくとも変化が規定値を上まわれば感知する。たとえば、熱された空気が風で日陰に流れ込んでもカメラが起動する。
「なるほど。映像が何日分残っていたのか教えてもらえますか」
「九日の夜から残っていた。自分も映るから小まめに消していたらしい。ちなみに、隣人は九日から今日に至るまで仕事で家を空けている」
「隣人は不在……。時系列を少し整理しても?」
 一颯はペンをくるりと回してメモ用紙をもう一枚破った。吉高が正確な時間を教えてくれたので、それも書き込んでいく。「十日にはだれも映っていなかった?」
「午前中に宅配業者が来て、本人のサインを貰っている。荷物の炭酸飲料も部屋の中から見つかったし、滞在時間も三分ってところだ。おかしなところは少しもない」
「殺すことはできても、それだけで精一杯か。ほかに何か気になったことはありますか?」
「無関係だとは思うが、十二日の深夜、四○六号室の前に女の子が立っていたらしい。両手を結んでいたから、お祈りをしているように見えたって」
 四階に住む大学生が目撃している。遅い時間だったので心配になったらしい。かといって声をかければ自分のほうが不審者扱いされかねない。大学生は大人しく部屋へ入った。
「四○六の住人を待っていたんですかね」
「俺もそう思った。ところが住人は心当たりがないっていうんだ」
「たしかにへんだ。そういえば、現場の真下、四○七は空き部屋ですよね?」
 奥山になぜ知っているという目を向けられ、「住宅情報サイトで調べました」と答える。
「あきれ果てて言葉もでねぇ」
 奥山はぎょろりと目を見開いて、吉高に心の内を訴えた。

【メモ】================================
九日  カメラの映像がリセット。隣人が家を空ける
十日  午前中に宅配。本人が受け取る。
十一日 二十一時頃 五階の住人が辻さんの出かける姿を目撃。
    カメラによると二十一時七分に外出し、五十一分に帰宅
十二日 十七時五十九分 三人で訪問。白石が住人と会う。滞在は二十五分
    深夜 四○六号室の前に女の子
    この日まで電気が使用されている(生活の痕跡?)。
十五日 昼頃に事件が発覚。捜査がはじまる。
=======================================

 一颯は十二日に丸を付けると、すぐそばに「犯行日か?」と書き込んだ。ざっと見直してからペンを置き、唇をむんと左右に引っ張る。
「死角からカメラの電源を切ることはできませんか?」
「難しいな。人体が赤外線を発しているせいか、横から手を差し入れるように伸ばしても反応する。電源を切るときはいいさ。あとでデータを消去するわけだから。問題は電源を入れるときだ。リースの後ろ側から手をいれれば、感知されずにスイッチをオンにできる。でも、抜き出すときに感知されるんだ」
「センサーが反応するのは四度差。あの日もずいぶんと暑かったですよね。体温と周辺温度に差がなければ、感知できないこともあるのでは?」
「理論的にはそうだし、実際に製品の仕様書にも注意がある。ただ、マンションは北西向きの外廊下で、西日こそ入るが基本は日陰だ。十日から十五日の気温は高くても三十一度。生きた人間の体温は三十五度を超えている。それにセンサーは赤外線で物体の動きも検知できるから、気温が高くてもおおよそ反応するらしい」
 ないという前提で考えたほうがいい。一颯は頷き、体操服から出た細い腕をさすった。広い部屋なのでようやくクーラーが効き始めている。
「あの日、玄関を開けたときに風が抜けたんです。あとで白石に聞いたら窓が少しだけ開いていたって。警察が入ったときはどうでした? 鍵は開いていたんですか」
「そのままだな。窓も開いていたし、鍵も掛かっていなかった」
「だったら、そこから出入りできたってことだ」
 一颯の口元がわずかに上がる。期待と緊張の入りまじった表情はなにか思いついたときのものだ。
「いいよ。お手並み拝見といこうか」
 長机に頬杖ついて、吉高がいった。

 一颯がまず行ったのは疑問点の整理だ。
「俺が重要だと思っているのは三つ。遺体を切断した目的、顔や指紋を潰した理由、それから、カメラを回避した方法」
「そうだな。異存はないよ」
 吉高が頷くと、一颯はほっとしたように小さく息を零した。「緊張してるのか?」
「するに決まってます。吉高さんだけならまだしも、その上司までいるわけだし」
「顔が怖いから気になるだろうが、置物だと思え?」
 なかなか失礼な物言いに、奥山が鼻を鳴らして威嚇する。吉高はさらりと無視して腕時計を外した。「制限時間はチャイムが鳴るまでだ」
 時計を長机に置く。残りは二十九分。一颯は追い立てられるように口を開いた。
「白石の話を聞くかぎり、あの男は複数から恨みを買っていてもおかしくない。自分の身を守るために、彼こそが殺人を犯したという可能性はありませんか」
「たとえば襲われて反撃したとか、自分の身代わりを用意して殺害したってケースだな」
 吉高も一度は検討した推理だ。一瞬だけ視線を上向かせて、「とりあえず話してみろ」と先を促した。
「隠しカメラのことを考えると、後者の身代わり説が有力だと考えます」
「俺もそう思う」
「この場合、疑問点のうち、二つが簡単に片付きます。顔や指紋を潰したのは、死んだのが自分だと誤認させるため。被害者の身元を割り出すことも難しくなって一石二鳥だ。切断したのは、体格の違いを誤魔化すためだと考えています。似ていたとしてもまったく同じってことはない」
「警察が身元を確認しているあいだに逃げると。なるほどね」
 一颯は頷いた。うまくいけば自身が死んだことになって、犯行が露見しないとまで考えたのかもしれない。
「辻さんはカメラのことも知っていた。だからこそ利用できたともいえます」
 今回の犯人は隠しカメラの存在を知っていた可能性が高い。辻が犯人であればその点もクリアできる。
「まあ、そうだな。ただ、カメラの存在を知っていたのは彼だけじゃない。一緒に出かける機会があれば、彼の挙動がおかしいことに気づいたはずだ」
「たしかにそうですが、今はいったん辻さんに注目します。おそらく彼は、充分な準備をして決行したはずです」
「カメラを回避するためにだな?」
「はい。被害者が九日よりも前に部屋を訪れ、そのまま居着いていたとしたら? 被害者はカメラに映りません」
 知り合いかもしれないし、家出中の少年を拾って部屋に置いていた線も捨てきれない。辻が計画的だったなら、徹底的に掃除をしてから被害者を招いただろう。自分の手にマニキュアを塗り、髪が落ちないように気を付けて生活すれば、被害者の痕跡こそが住人のものと判断される可能性もゼロではない。
「長期であるほど髪も落ちるし、指紋も残る。生活の痕跡が多ければ住人と誤認される確率も上がるか」
 吉高は腕を組んで、推理を検証するように独り言ちた。「そうなると、彼は隣人がカメラの映像を小まめに消していると知っていたことになる」
「知らなかったともいえない」
 一颯が苦々しく顔を顰めた。吉高の追撃はさらに続いた。
「部屋に指紋があるんだ。遺体の指紋も残したほうがよかったんじゃないか」
「顔だけを判別不可能にすれば疑問を持たれると思ったのかも」
「無茶なところもあるけど、まあいいか。そうなると、お前たちが訪ねたとき、被害者も部屋にいたってことだな」
「はい。その時点での生死は不明ですが」
 人が訪ねてきて金銭を授受し、写真を消去する。殺すつもりなら先に手を打っておいたほうが面倒はない。反面、遺体が見つかれば言い逃れできなくなる。一長一短だ。
「問題は辻さんの逃走経路だな。どう考えた?」
「ベランダ。鍵が開いていたのは、そこから出たからだと考えています」
「マンションの五階だぞ? ベランダ側も通りから見えるし、近くにはマンションや家も多い。目撃される可能性が高すぎる。非常用の梯子を使った形跡もないし」
 周囲は夜でも明るい。街灯はもちろん、各部屋からの灯りもある。暗闇に紛れるのは難しかった。
「ロープ一本で一階まで降りたとは思っていません。でも一つ下の階に降りるくらいはできたんじゃないかなって」
「ああ、空き部屋だからな」
 吉高は首を横に振った。「四○七号室は確認した。窓も破られていないし、ドアにも鍵が掛かっていた。住人が引っ越したあとで鍵も変更されていて、元の複製は使えない」
「人が寝静まってから一階まで降りる……。いや、難しいか」
 一颯の表情が曇った。今のままではピースを無理やりにはめ込んだ歪なパズルだ。
「ないとはいわないが……」
 吉高はちらっと奥山を見た。自己判断で喋るのを迷う情報なのだろう。気づいた一颯が先んじて口を開く。
「被害者が辻さんだと断定されているんですか?」
 奥山が盛大な舌打ちをして、ガシガシと頭を撫でた。
「そろそろマスコミにも伝わる話じゃあるが。こっから先は独り言だ」
 腕を滑らせて前のめりになった。声も心持ち小さくなる。「顔や指紋がなくて困るのは、身元の取っかかりがまったくないケースだ。今回みたいにまずは部屋の住人だろうって場合は、DNAや歯科所見なんかで決め打ちできる。そうはいっても、諸々調整してたら発表なんて遅くなるんだよ」
「とっくに断定されてたってことか」
 一颯は長机に両腕をついて、がっくりと肩を落とした。強引だとわかっていたのだ。それでもこの推理を組み立てたのは、被害者情報がまったく流れなかったからだ。吉高ははじめからこの推理に乗り気ではなかった。一颯が恨みがましい目を向けると、吉高は苦笑まじりに小さく手刀を切った。
「これで終わりじゃないんだろう?」
 一颯は当然だと頷いた。密室で顔を潰されていたらまずは入れ替わりを疑うべきで、これは様子見のジャブに過ぎない。

 先ほどの推理では収穫があった。一つは殺されたのが辻だとわかったことだ。そして、四○七号室が逃走経路から除外できたことである。
「隠しカメラがあるから現場は密室になっている。そう考えると、隣人が気になりませんか。カメラを設置したのはアリバイ工作だったのかも」
「彼女は九日の夜以降、ずっと不在だったのに? 家に戻っているならカメラに映るはずだけど」
「ITに疎いふりをしていただけで、カメラとスマホを繋いでいたかもしれない。遠隔でカメラをオンオフできる機能があるはずです」
 スマートフォンと繋ぐのはそれほど難しくない。アプリをダウンロードして、説明書の通りにアクセスキーやパスワードを入力していくだけだ。インターネットを部屋に引いていなくても、フリーWi-Fiを使うか、ポケットWi-Fiをレンタルすればすむ。
「そういう話も出たけど、彼女にはアリバイがある。容疑者から外して構わないよ」
 吉高が大阪まで出向いたのは彼女を疑ったからだ。結果として、彼女はほとんどずっと店で待機していたことがわかった。開店したばかりで経験のあるスタッフが少なく頼りにされたらしい。東京へ戻るのは不可能といえた。
「だったら、次に疑うべきは五階の住人です。カメラに映らず移動できます」
「ベランダか」
 すかさず吉高が答えを口にした。「ロープを使うよりも現実的だな。捜査で必要にかられてやったことがあるけど、二、三階なら楽に越えられる。五階になると命綱なしでは怖いが、高所恐怖症でなく、身軽な人間ならやれるだろうな」
 各階のベランダは繋がっていて、部屋ごとに仕切りがある。火事の際は破って避難するタイプだ。どの部屋も破損はないので、手すり壁を伝って行き来したことになる。
「よくポンポンと筋読みすんな? やっぱり、こいつが犯人なんじゃないのか」
 体を吉高のほうへ傾けて、奥山が真顔で耳打ちする。
「聞こえてますから」
 一颯は口を尖らせて、話の流れをもとに戻した。「十一日も、十二日もとても暑かった。辻さん部屋にいたならクーラーを入れていたはずです。普通は窓を閉める。鍵だってかかっている確率が高くなります。だったら、被害者は辻さん本人に招き入れられたんじゃないかと思うんです」
 隣人なら、部屋の中で辻さんが窓を開けるのを待てばいい。だが、ほかはそうもいかない。五○七、または五○六号室のベランダに忍んで待つのは、七月の炎天下では辛いものがある。いつ窓が開くかは運次第だ。侵入するまでのリスクが高すぎる。
「五階ともなれば、窓を開けたまま外出する人もそれなりにいる。空き巣狙いで侵入して鉢合わせた可能性は?」
「ないと思っています。同じ五階の住人なら、辻さんが外出したのを確認しやすい。侵入中に戻ってきたとしても、ドアガードをしていれば脱出の時間は稼げます。廊下を歩く足音だって聞こえるし、よほど不注意でなければ逃げ切れるはずです」
「なるほどな。じゃあ、被害者である辻さんが招き入れたとしよう。どう読む?」
「さっきの推理と途中までは同じです。彼は身代わりを仕立てて、自分が死んだように見せかけようとした」
 画策した辻が、逆に殺されてしまったという筋だ。
「五階だぞ? どうやって犯人を丸め込むんだよ」
「犯人に、辻さんを殺す動機があったのかもしれません」
 互いの思惑が偶然に一致しなければならず、さすがに苦しい。一颯も自信がなさそうに答えた。
「まあいいか」
 吉高は笑いながら続ける。「その推理が正しいなら、犯人の目星がつくな?」
「辻さんと背格好の似た男性で、同世代」
 身代わりとして選んだのならそうでなくてはならない。「五階にそういう住人はいますか?」
「いるにはいるが、十日に手を怪我しているんだ。体を支えられたとは思えない」
「小さな怪我ではなく?」
「指の骨に罅が入ったと聞いている。ゲーム中にネットが切れてイラッとしたらしい」
 住人は高校生で、母親との二人暮らしだ。オンラインの対戦ゲームにはまっている。中毒といってもいい。白熱の接戦を繰り広げていたときに通信が途切れ、衝動的に拳を打ち付けたという。通信速度が遅いことにも不満を募らせていたようで、積もり積もった苛立ちが爆発したのだ。
「回線落ちか。キレて骨折なんて嘘っぽいけど、あり得るんだよな」
 一颯は苦笑した。やらかしそうな友人が二、三人はいる。彼自身はオンゲー特有の人間関係が苦手だ。暗黙の了解も多くて面倒なので、リアルの友人としか繋がらない。
「ベランダを使ったのなら、カメラに映らず行き来はできる。でも、切断した理由をどうつける? 遺体を背負ってベランダを飛び越えるのは厳しい。五階だ。普通は怖くてできないよ」
 腕や頭はまだしも、胴体は二十キロを超える。フィジカルに自信のある吉高でさえ背負って越えるのは難しい。
「持ち出していないんだから、運ぶつもりはなかったんですよ。おそらく、突発的に切断する必要ができたんだと思います。辻さんが用意していた解体セットを見つけて、それをまるっと使ったのかもしれない」
「そんな用意はなかったと思う。彼の部屋はキッチンが充実していたから、包丁は部屋にあったものを使ったとみているけど」
 辻と大学外で付き合いのあった男は、料理で女の子を釣っていたと揶揄したくらいだ。「ノコの出所はまだわからないが、五階の住人ならどうとでもできたはずだ」
「ああ、そうか。五階の住人なら、自宅を経由して買いにいくこともできるんだ」
 一颯は唇に手の甲を押し当てて考え込んだ。
「ちょっといいか?」
 奥山が声を上げる。「今、犯人は遺体を運び出すつもりはなかったっていったよな。だったら、どうしてバラバラにしたんだ?」
「切断したのも、顔を潰したのもフェイクだと思ったんです。殺害したときに爪で引っかかれていたとしたら?」
 一颯は左の指先に右手をあてた。「犯人は被害者の爪に残った血や皮膚片を消し去ろうとしたはずです。でも、手だけを細工すれば、目的が見破られる」
「たかがそれだけのために遺体の解体をしたってのか? 人を切り刻むんだぞっ」
 奥山が腰を浮かせて詰め寄る。一颯は椅子の足を浮かせて仰け反った。
「俺より、警察のほうがよく知っているはずです。なにを禁忌とするかは人による」
「それはそうだが、そこまでやるか?」
 ただでさえ厳つい顔がさらに強ばる。「指だけを持ち去ればいいだろ?」
「俺が犯人なら、そこまでやったと思います。同じ階に住んでいるんです。しばらくは警察の出入りも多い。怪我に気づかれたら終わりだ」
 冬なら服で隠せるが、今はそうもいかない。隠し事があると長袖を着ることさえ躊躇われる。怪我をしたのが手の甲ならさらにどうしようもない。「ゲーマーくんの怪我は、本当に骨折なんですか?」
「包帯でひっかき傷を隠しているんじゃないかって?」
 吉高が感心とあきれのまじった声でいった。よくそこまで思いつくと顔に書いてある。
「さすがに包帯の中まで見ていないでしょう?」
「まあ、そうだけど。診断書を取ればすぐにわかる。そんな嘘はつかないよ。それに、十二日の夜はアリバイがある。母親が夜勤で、一晩中ゲームにログインしていたらしい。ボイスチャットでゲーム内の仲間と通話していたっていうから誤魔化しようもないよ。出勤までは、母親が一緒だったっていうし」
「十二日の夜だけ? どうして……」
 一颯は心底不思議そうに零したあとで、あっと目を瞠った。
「犯行時間が限られるだろ? 白石さんの言葉を信じるなら、辻さんは十二日の夕方六時過ぎまで生きていたことになる」
 一颯の目が泳ぐ。怪訝な顔で、吉高は釘を刺した。「わかるな? お前たちの証言はものすごく重要なんだ」
「辻さんと最後に会ったのが白石ってことになるわけですね」
「そう。俺たちだって五階の住人はしっかり調べた。十二日の夕方から夜にかけては全員のアリバイがある」
 家族や恋人の証言も多く、完全に白と言い切ることはできない。ただ、捜査員の心証として嘘はないだろうとの報告が上がっている。
「怒らないで聞いてほしいんですが……」
 しどろもどろな口調で一颯は二人の顔色をうかがった。
「怒るかもしれんが話せ。少しでもはやく口を割ったほうが身のためだぞ?」
 もはや悪役の台詞である。一颯がなおも躊躇っていると、奥山は急かすように貧乏揺すりまではじめた。
「白石なんですが、辻さんの顔を知りません」
 瞬間、奥山が椅子を跳ね上げる勢いで立ち上がった。
「このクソガキ……。時間外だったら、一発殴り倒してる」
 奥山は怒りを発散しようと手のひらを机に打ちつけた。一発の威力があまりに大きすぎる。一颯は悄然と身を竦めた。

 人には裏の顔がある。そんなことは一颯もよくわかっていた。それでも、「よろしくない写真を撮られた」という白石の言葉を信じることはできなかった。前日に心春との言い争いを見ていたからなおさらだ。写真を撮られたのは心春のほうだろうとはじめから疑っていた。
「だからか」
 吉高が頭痛を耐えるように顔をしかめた。「お金をいくら払ったかわからないといったとき、おかしいと思ったんだ。お前だけじゃなく、白石さんも知らなかったんだな」
 もちろんそれだけではない。辻のライブラリに残った写真はすべて髪が長く、少女特有の病的な美しさを持つ子ばかりだった。白石の健康的な可愛らしさとは真逆だ。吉高もずっと引っかかっていたのだ。だが、白石が辻の顔を知らないとまでは読み切れなかった。
「白石の感触を頼りにすると、おそらく三十万から五十万ってところだと思います」
「待ちやがれ。お前ら高校生だろう? そんな金をどうやって用意した」
 怒りの気配を漂わせたまま、奥山がドスンと座り直す。未成年の参考人ではなく、完全に知り合いの息子を相手どる態度に変わっている。堪忍袋の緒が切れたらしい。
「わかりません。ただ、中高一貫校なので、お金持ちの子はけっこう多いです。白石に頼んだ相手は一つ上の先輩で、家は開業医だと聞いています」
 辻経由で春を売るバイトをしていた可能性もある。一颯は口を噤んだが、警察なら遅かれ早かれたどり着くだろう。
「どうして最初にそのことを話さなかったんだ?」
 吉高の声は固く、それでいて一颯への優しさが滲んでいた。はっと息を飲み、一颯は両手をハーフパンツの上で握り締めた。自然とこうべが落ちていく。
「知らない男の部屋に入るのは怖かったと思うんです。それでも白石はやり遂げた。心春先輩が親にばれたくないっていうから頑張ったんだと思います。それが無駄になるなって……」
 それだけではないが、嘘でもなかった。「いつもの俺なら父に話していました。らしくないと思いながら引き受けてしまったのは、先輩がうまく縁を切れたら、すべて丸く収まるような気がしたから」
 事件を知ったとき、白石は床に蹲ってごめんなさいと繰り返した。宮森が抱え起こそうとしても座り込み続けた。疎遠になっていた心春に頼られ、仲のよかった頃に戻れると期待したのだ。中性的な白石は、女の子から疑似カレシ、もしくは憧憬の対象として見られることが多い。頼れる学年代表で、かっこいいのにどこか抜けているキャラクター。イメージ通りの言動を求められる彼女にとって、ほんとうの白石らしさを知る心春は貴重な存在だった。
「そのあたりは香坂さんにガツンと叱られな。それよりもだ。お前も気づいているな?」
「白石が見たのは犯人かもしれないってことですよね。その可能性を考えなかったわけではなかったんだけど、でも……」
 急激に現実味が増していく。一颯は震えるように身を竦ませた。細く頼りない肩を右手で抱える。
「とにかく、その子に顔を確認させよう。何組だ?」
 奥山が白石の写真をつかんで突きつける。一颯は小さく首を傾いだ。
「どうかな。白石、人の顔を覚えるのが苦手だって聞いています」
 心春はそれを知っていた。だから白石に頼んだのかもしれない。じわじわと一颯の顔に血色が戻ってくる。怒りだった。
「そうはいっても、聞かないって選択肢はねえよ」
 奥山のいう通りだ。一颯が白石のクラスを教えると、香坂とこの後の段取りを確認する。「次の休み時間に呼んでもらおう。覚えててくれたらいいが」
 人の記憶はあてにできないと奥山はよく知っている。一度会っただけの男を覚えていられるのは少数だ。顔を覚えるのが苦手なら、なおさら期待はできなかった。
「事件を知ったとき、ちょっとだけ思ったんです。利用されたのかもしれないって」
 一颯がぽつりと零した。瞳には悔しさと悲しみがまざり込んでいる。
「どういうことだ? すべて話せ。親父のためにも犯人を挙げたいんだろう」
 奥山が声を荒らげるのも仕方なかった。香坂は現在、針のむしろに座らされている。本人はそれほど堪えていないが、情に厚い奥山はひどく胸を痛めていた。
「ほかに犯人がいると思いたかった。だって、警察は俺たち三人の写真しかもっていなかったから。先輩はカメラに映っていない。だから違う。部屋に入れたはずがないって。でも、先輩が関わっていたという前提で推理を組み立てるなら……」
 声はひどく上ずっていた。ひくりと鳴った喉に手をあて、一颯は深く息を吸い込んだ。「俺、たぶん真相に近いところまできていると思います」
 まだすべてのピースを正しい場所に収めきれてはいない。しかし、情報だけは完璧に揃っているという確信があった。
「一颯、リミットまであと十分だ。やってみろ」
 不満を露わにする奥山を押さえ、吉高がいった。これがラストチャンスだ。一颯は力強く頷いた。
「俺たちが部屋を訪ねたとき、辻さんは亡くなっていたはずです。事件が起こったからこそ、先輩は白石を巻き込んだ。自分たちのアリバイを作るために」
「自分たち? まあ、複数なのは確実だよな」
 吉高が口の端に獰猛な笑みを浮かべた。「先に確認させてくれ。白石さんと先輩の二人が共謀していた可能性は? お前と宮森くんは男に会っていないんだ。白石さんの自作自演かもしれない」
「ドアホン越しに男の声を聞いています。足音やドアを解錠する音も。誰かが部屋のなかにいたのは間違いないです」
「だったら、白石さんと先輩、男の三人が共犯って可能性はどうだ? 否定できるか」
 一颯は十一日の朝を思い出していた。白石と心春の口論を見ている。人気のない場所で心春のほうが縋っていた。仲間割れというよりも、白石が何ごとか頼み込まれて断っている雰囲気だった。
「確証はありませんが、白石は無関係だと思います。犯行時刻さえ確定すれば、深夜でもないかぎり白石にはアリバイがあるはずです。学校に部活に塾。あいつ忙しいから」
 ここまではよいかと、一颯は二人を見回した。「では、辻さんはいつ殺されたのでしょうか」
「見立てからは十一日か、十二日のどちらか。そんで、白石さんって子が危険なお使いを頼まれた時間よりも前だ。白石さんに聴取できれば、少しは絞り込めるだろうよ」
 応えたのは奥山だ。「どっちにしても、どうやってカメラを避けたのか皆目見当もつかないんだが」
 苛立たしげに顔をゴシゴシと擦る。
「おそらく犯行は突発的だったと思うんです。たとえば、写真を消してもらう交渉がうまくいかず、誤って辻さんを殺してしまう。そこから偽装工作を考え出した」
 一颯は十一日の朝に見たことを簡単に説明した。吉高と奥山の表情が一変する。「想定外ですよね? 辻さんが亡くなったのは十一日から十二日の予想なのに、殺されたのは十日の可能性が高くなる」
「たしかにそうだな」
 吉高の表情は厳しい。十日の深夜と考えれば十一日に擦るが、本命は十二日とされている。看過できないズレだ。
「犯人はカメラを回避できず、おそらく映ったんだと思います。でも、隠しカメラの記録媒体はMicroSD。映像を消去することが可能だ」
「どうやって?」
 奥山と吉高の声がかぶった。視線でゆずりあったあと、奥山が口を開く。「犯行は突発的だったんだろう? 犯人はどうやってデータを消去したんだ。パソコンを持ち歩いてたってのか」
「ああ、そっちか。パソコンよりも身近なものがありますよ」
 吉高が自分のスマートフォンからMicroSDを抜き出した。「機種にもよりますがカードスロットのついているものは多いです」
 スロットがなくともカードリーダーを接続して操作することもできる。奥山もIT関係は苦手らしい。ばつが悪そうに続けろと顎をしゃくった。吉高が口を開く。「カメラの電源を切り、カードを取り出してデータを消す。ここまでは簡単なんだ。でも、電源を入れるのが難しい。どうやってもセンサーが反応してしまう」
「ですよね。こうなると、Wi-Fi接続でクラウド保存されていたほうが簡単だったかも。犯人はジャミングの装置を持っていただろうし」
 日本でも安いものなら数万円で購入できるし、海外から輸入すればさらに安い。心春はなんとしても写真をアップロードされたくなかったはずだ。準備していてもおかしくない。
「結局、最初の謎に戻るんだ。カメラに映っているのはお前たち三人だけ。そこが崩れないかぎり、容疑は晴れないんだよ」
「ずっと、気になっていたんです。十二日の深夜、四○六号室の前に女の子が立っていたのが……」
 唇に手の甲を押しつけ、一颯は凍ったように動かなくなった。自問自答するように呟く。「すり抜けることができるのかもしれない」
 すべての答えが見えていた。はじめから再検討するように考え込む。瞼でさえピクリともしない。はたから見ていても、頭のなかで目まぐるしく推理が構築されていくのがわかる。一颯は瞬きした。目には一抹の躊躇が残る。それでも気づかなかったふりはできなかった。ぐっと顎を引き、自らを鼓舞するように二人を見据える。奥山はその内心を正確に読んだ。
「いいか、よく聞けよ? お前が黙っていたとしても、俺たちは真相にたどり着く。必ずだ。だから、犯人が捕まるのはお前のせいじゃない」
 はっとした様子の一颯に向かって、奥山は笑いかけた。目尻が垂れると途端に優しげな顔つきになる。
「推理が間違っていたら?」
「俺たちが責任をもって見極める。あとのことは俺たちに任せろ。親父の仕事がどんなもんか、ちっとはわかったかよ」
 一颯は痛みを耐えるような表情で言葉を噛みしめた。
「どちらが主犯かはわかりません。ただ、犯人は先輩と男の二人組です。そして、辻さんが殺されたのは十日だったと考えます」
「まあ、そうなるよな。白石さんに先輩が接触したのは十一日の朝なんだから」
 吉高が顎に手をあてて考え込む。彼もまた一気に推理を押し進めていた。
「それから、ゲーマーくんが回線落ちを食らったのも十日でしたよね。犯人が辻さんの部屋を訪ねたとき、ジャミングを展開したのかもしれません」
「なるほど。裏付けはあとでやるとして、まず崩すべきは二つだ。カメラの回避方法と死亡推定日時」
 吉高が一つ、二つと指を折り曲げていく。
「すでに吉高さんも同じ結論にたどり着いてませんか? その二つが崩れたら、遺体を切断した理由も自ずとわかる」
「さあどうかな。でも、一颯はお父さんのために犯人の目星を付けたいんだろう? 花を持たせてやるさ」
 吉高が余裕の表情を見せる。負け惜しみでないことは一颯にもわかっていた。吉高がコツコツと時計を爪弾く。タイムリミットが迫っていた。
「犯人は死亡推定日時を誤魔化すために遺体を切断したんだと思います。顔と指紋に細工をしたのは、それに気づかせないためのフェイク、もしくは、爪に犯人の痕跡が残ってしまったから。辻さんの家はキッチンが充実していたんですよね? 一人暮らしとはいえ、冷蔵庫も超小型ってことはなかったはずだ」
 吉高がしっかりと一つ頷いた。正しい筋を進んでいると確信する。一颯は力強く言い切った。「成人男性でも切り分ければ冷蔵庫に入ります」
 冷やせば腐敗を遅らせることができる。犯人は十日に辻を殺して冷蔵庫に入れたのだ。十一日の夜には辻の服を着て外出し目撃者を作る。さらに十二日、白石という訪問者を仕立て上げる。白石が帰ったあとで遺体を冷蔵庫から出せば、死亡推定日時は実際よりも遅くなるはずだ。
「冷蔵庫の血痕まで調べてないが、どうせ残っちゃいないだろうな」
「後片付けがたいへんになるので、ゴミ袋かなにかに入れてから冷蔵庫に詰めたと思いますよ。そのためにも、切断は必要だった」
「まあ、そうだろうな。これで、遺体を部屋に放置していったことも説明がつく。外へ遺棄するために切断したわけじゃなかったって単純な理由だ」
 吉高は現場写真を思い出していた。オブジェのような遺体の置き方にも意味があった。紫斑やパーツの接触痕を合わせるために、冷蔵庫に入れたのと同じ置き方をしたのだ。
「十日に殺害したあと、先輩は外に出て、男は部屋に残ったんだと思います。十二日まで電気が使用されていたのはそのためです」
 事件のピースがカチリ、カチリと音を立ててはめ込まれていく。だが、ここからが正念場だ。一颯は気持ちを引き締め直した。
「あとは隠しカメラだけになったな。十日と十二日に出入りした映像を消す必要がある」
「吉高さん、いいましたよね? 後ろから手を入れればセンサーは反応しないって」
「いったな、ただ、抜き出すときに感知されるともいったはずだけど?」
「でも、もしカメラの後ろにスペースがあったなら?」
 センサーの死角は広くなり、抜き出すときに感知されなくなる。吉高の表情を伺いながら、一颯は続けた。「隠しカメラはリースに埋め込まれていました。リースごと前方に移動させればいい」
 一颯は図を書きながらさらに説明する。「カメラの映像を処理したあと、カメラをリースにセットし直します。リースはドアの向こうから糸で吊されていた。テグスを用意し、吊り糸の向こうに潜らせる。あとはテグスの両端を四階まで垂らせばい」
「リースではなく、吊り糸に引っかけるのはカメラが垂直を保てるようにか?」
「そう。十二日の深夜、四階にいたのは先輩だと思います。落ちてきた糸を引っ張ってリースを浮かせる。犯人は後ろから電源を入れ、壁伝いに離れればいい」
「男がセンサーの範囲外に逃れたところで、カメラをゆっくり戻して糸を引き抜いたと」
「センサーは温度差と動きを見ているんですよね。深夜になれば、壁や大気に極端な温度差はない。前方にあったものを、ゆっくりと少しずつ後方に下げるだけなので動きも感知しにくいはず」
「万一、戻している途中に反応しても男はすでに逃げているから姿は映らない。なるほど、女の子はテグスを操作しているときに目撃されたってわけか」
 吉高が頭に手を置いて、ふっと息を吐き出した。
「知らない人が見たら、空に祈っているように見えたと思います」
「とはいえ、状況証拠ばっかりだな」
「そうですね。ほかにも状況証拠はあって、俺がカメラに気づいて、警察が気づかなかったのもそうだと思います。隠しかたに違いがあったんだと」
「さすがにそれは状況証拠にもならないよ」
 吉高が苦笑する。「まあ、いい。証拠なら俺たちが探すさ」
「必要なものがあれば、四階から差し入れしていたはずです。先輩の目撃証言がほかに出てきてもおかしくない。それに、カメラの記録媒体は警察の手にある」
「復元だな。こればかりは祈るしかないが、腕のいいやつに頼むよ。十一日に外出した男の映像もある。顔は見えないが、辻さんに間違いないか鑑定依頼は出しているんだ。急いでもらうさ」
 じきにチャイムが鳴る。吉高は机に置いていた時計を腕にはめた。「最後にもう一つ」
「まだ、足りないピースがありますか」
 すべて話し尽くしたあとだ。一颯は身構えるように顎を引く。
「事件とは関係ないよ。香坂さんに話さなかった理由を知りたいんだ。どれだけ考えてもわからなかった。友達の気持ちをくんだのはわかった。それでも、いつものお前なら話してくれただろ?」
「あっと……」
 一颯はちらっと奥山を見た。おそらく吉高は秘密を知っている。一颯は過去に一度だけ失言したことがある。自然にスルーしてくれたが、気づいたはずだ。しかし奥山はどうだろうか。
「今、香坂さんとの関係が噛み合っていないのは聞いているし、俺も奥山さんもその原因をおおよそ知っている。ただ、お前は前から気づいていたはずだ。急にどうした?」
「取り立ててショックだったわけじゃないんです。ただ、俺が知っていることを、父さんが知っているって状態が怖くなった」
 吉高が首を傾げるのを見て、一颯はやけくそ気味に笑った。「理解できないですよね。自分でもうまく説明できない。なんだろう。実の子でないのに育てて貰ってるって顔をしなくちゃならない気がして。でも、どういう顔なのかわからなかったんです」
「それが答えだと思うんだがな」
 ぽつりと奥山がいった。重なるようにチャイムが鳴り、奥山が声のボリュームを少し上げる。「自分の感情まで型にはめてどうするよ。そんな面を香坂が喜ぶとでも?」
「わかっているんです。でも、不安でしょうがなくて」
 一颯は深く椅子にもたれて、顔を天井に向けた。ギシリと金属の軋む音がする。「白石がいったんです。親に嫌われたくない、失望されたくないって。たぶん、心春先輩の言葉だと思います」
「お上品なガキどもだなぁ」
「そうですか? でも、同じだなって思っちゃたんですよね。いつも以上に良い子になろうとして、父さんとの距離感を見失って……。そんなときに、血の繋がった親子でも俺と同じようなことを考えていると知った。すごくほっとしたんです」
「なにいってんだ、お前」
 奥山がカラカラと笑った。「見知った吉高相手とはいえ、刑事に喧嘩を売りやがったくせに。そんなことをしても、最後には香坂に許されると思ってんだろ?」
「あ、いや……」
 言葉を失って、一颯は目をぱちくりとさせた。指摘されてみればその通りだ。怒られるとしても、許されないなどと考えもしなかった。
「家に帰って、一発殴られてこい」
 フンと鼻を鳴らして奥山がいう。
「今どき、拳で語り合うなんて古いですって」
 吉高が揶揄かうように笑って、奥山からそこそこ力の入ったパンチを貰っている。
「一発で終わるなら、殴られたほうがましかな」
 一颯が身を竦めて溜め息まじりに零した。然もありなん。奥山と吉高は職務中の香坂を間近で見知っている。
「仕方ないな。親ってのは怒ると怖いもんだ。そのうえ、お前の親父は刑事だからな」
 奥山が笑う。吉高は気の毒そうに一颯の肩へ手を置いて、頑張れとエールを送った。

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