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vol.66「イマココを揺さぶる」(『ロウソクの科学』ファラデー 竹内敬人:訳/岩波文庫/2010年刊)

vol.66「イマココを揺さぶる」

みなさんこんばんは。
今週は岩波です。

ほんとうは、今読んでいる本について書いて、「ローカルということ」について書こうと思ったのですが。今日が前期の授業の、最終レポートの提出日で。読書している場合ではないのでした。よって読了できず、扱う本を変更いたしました。不覚…。

ろくに本を読まずに一日が終わる。ほんとうに、時間というものは容赦なくすぎゆくもので。夏休みだって、8分の1も経過してしまいました。授業が終わる前に。
こんなことでは、あっという間に寿命が来てしまいます。アプリ「読書メーター」を見て気づいたのですが、僕は先月、約5000ページ分しか本を読んでいない。この数値はけっこうシリアスに、「人生中に読了できる本の冊数」の限界を知らしめてきやがります。

ちょっと、もうそろそろ、やることも読む本も、習得したがる能力も、絞った方がいいかもしれません。現在僕は、

読書と料理とギターとピアノとウクレレと、アニメ作画とプログラミングと数学と、英語力とブログと読書会と知恵の輪と、ブッカー掛けとルービックキューブとゲーム制作とゲーム評論と統計と水彩画と筋トレと空手、とオセロ

…が、できるようになりたいんですけれども。すべて大学に入ってから始めたので、時間が分散して、なにひとつ誇れるものになっていません。

大学生というかなりのヒマ人状態で、このありさまなのですから、仕事を始めちゃったらもう…。ちょっと真面目に起業を考えて、時間を自分のものにすることを考えた方がよいかもしれません。それか、学者にでもなるか。

でも、学者になると、授業をやらないといけない。つまり、学生という「他人」に時間を使う羽目になります。そう考えると、教育って損です。授業料はとれたとしても、授業で偉人を作り出したとして、「人間に対する」特許はとれません。教育という営為に「死ぬほど」努力を傾けても、「死ぬほど」報いがあるわけではなく、授業は定額です。

だのに、どうしてあなたは教育熱心になれたのですか?

ファラデー、『ロウソクの科学』。
では、どうぞ…。

「ファラデー定数」という単語は、文系の僕でも知っていました。

ファラデーとは、イギリスの王立科学研究所で活躍した、19世紀の科学者です。そして本書は、王立科学研究所の所長にまで上り詰めて、出世の限りを尽くしたファラデーの晩年、クリスマスから正月にかけて、少年少女たちに特別講義をした記録です。
扱っている内容は「酸化」「電気分解」など、中学生の理科の教科書、冒頭部に載っている範囲です。じっさい、日本の理科の教科書はここまで欧州基準だったのか…、やっぱり近代科学は西洋中心なのか…と思わせるくらい、内容が同一です。

ファラデーは、子どもたちに科学の話をしてあげるのが、とっても好きだったのだというのです。本書に収録されている特別講義は、ファラデー最後の講義なのですが、これをやったときファラデーは70歳。ろくに声が出なくて、いよいよパフォーマンスに限界が来た。ということで、ファラデーは引退します。つまり、引退スレスレまで、少年少女相手の特別講義をやっていたようです。ちなみにファラデーは、このクリスマスの特別講義を33年間継続して実施しています。すご…。

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どうして「他人に教える」ことに、そんなに努力できるのか。それは、ファラデーの出生に関係がありそうです。ファラデーは労働者階級の出身。19世紀当時のイギリスは身分格差が大きかったので、労働者は「最低限の読み書き」ができたら、教育はおしまい!働きにでなさい!という世の中です。
で、ファラデーも同じく、さっさと働きに出るのですが、就職先がなんと「製本業者」。勤務中に偶然、電気関係の本が目に入り、これがファラデーを科学に目覚めさせます。

そのあとは、知人に高名な科学者の講演のチケットをもらったり。そのときにとったノートを当の科学者に送って、じっさいに会うきっかけになったり。ちょうどその科学者の研究室から退職者が出て、すぐに助手が必要だ!という状況になって、みごとファラデーが後釜に収まったり。たくさんの運命のいたずらがあって、ファラデーはとうとう科学者になります。

もちろん、ファラデーはプロの科学者になる前から勉強熱心だったそうです。とうぜん、すでにある程度のノウハウを持っていないと、研究所の助手なんて白羽の矢が立つわけもありません。努力という「具体的行動」につながる情熱が、運命にぶつかったとき、ファラデーという稀代の科学者が生まれたのです。

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ファラデーは、自分のキャリアの「偶然性」を自覚していたのではないでしょうか。報われない努力なんて、世の中にはいくらでも散らばっていますし。実力だけでつかみ取った地位だとは思っていなかったでしょう。そして、イギリスの身分制下にある人間にとっては、そういった「偶然」はますますありえないものだったはずです。

その点、現代日本は、起業ブームにクラウドファンディング、クラウドソーシング。自分の運命を切り開くチャンスは遥かに多い。しかし、それはどこまでいっても可能性の話で、現に「切りひらけていない」人間にとって、慰めにもなりません。それでも、努力を重ねている「その瞬間」は、そういった「偶然性」、努力が報われるターニングポイントを期待していられます。

そういった意味で、努力を重ねること、勉強することには、「現実をゆさぶる」力があるのではないでしょうか。勉強を続けることは、まず「ココではないどこか」に関する知識を与えてくれますが、それだけでなく、自分が「ココではないどこか」に行けるのではないか、という並行世界を期待させてくれます。

僕だって、

SNSで神絵師になったり。オセロやルービックキューブの世界大会に出たり。街中に突如出現した暴漢を、マイ空手で制圧したり。プログラミング能力を買われてゲーム会社にヘッドハンティングされて、「世界のKOJIMA(メタルギアの)」に並ぶクリエイターになったり。統計リテラシーを買われてどこぞのシンクタンクに…

4にたくなってきたので止めますけれども。努力をしている最中、僕は「今ここにいる僕」ではなく、「望ましい時を得た僕」になっています。普通に考えて、

とつぜんエヴァンゲリオンに乗って戦わなきゃいけなくなる、とか。空から女の子が降ってくる、とか。空中を走る列車がやってきて、「仮面ライダー電王になって戦うのよ!」なんて言われる…

とか、よりはずっとリアリティある「非日常への想像力」です。そして、この文脈に則れば、「教育する」ということは「他人の現実をゆさぶる」ことに他なりません。

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ファラデーが少年少女たちに科学を教えるということ。それは、個人単位で考えると、基本的に「ファラデーから子どもたちに対する、無条件の奉仕」なのですが。教授者と学習者が同じサイドに立っているとすれば、真に立ち向かっているのは「この現実そのもの」です。

まだまだ科学的思考が行き届いていない、19世紀イギリス。自己実現をはばむ壁が数多く存在する、現代日本。それと対立しているのが、教える者と学ぶ者。このとき、両者はともに「現実を揺さぶる者」「並行世界をめざす者」になります。

自分が「教えたのか」「教わった」のかに拠らず、現実を破壊した前例が多いほど、「現実を揺さぶる者」にとっては好都合です。成功例も失敗例も共有すれば、それだけノウハウが貯まるわけですから。なるほど、オープンソース・フリーソフトウェアの理念って、こういうことなんですね。

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そんなわけで本稿では、

「現実を揺さぶりたい者」「夢を見ていたい者」にとって最大の敵は、この現状そのものであり。対して、現実を破壊したがる側の戦力は多い方がいい…。ゆえに、敵の敵は味方。

という理論で、教育のモチベーションを見いだしてみました。後ろ向きだと思われるかもしれませんが、「人にモノを教えること自体が好き!」という人は、キケンだと思います。「教えてあげたい」という欲求は「自分よりモノを知らない人間」に依存していますから、本当に「教えてあげてる生徒」が自分を超えそうになったとき、必ず足を引っ張る選択をするはずです。
「教育」という行為は徹頭徹尾「過程」であり「手段」なので、それ自体を目的にすると、永遠に「イマココ」「この現実」に拘泥することになります。それは、夢がない。つまり、夢を見なければならないほど「イマココ」「この現実」で虐げられている人を、搾取しています。

だから、「教育」に携わる人は、もっと利己的に、しぶしぶしてても、いいのではないのかな、とは思います。教育学部的に。その代わり、もっとギラギラして、欲望に忠実で、「現実を揺さぶる」ためなら生徒に超えられてやる、なんだってしてやるって姿勢になればよろしい。そうしたら、たぶん授業は相当面白くなります。まず、上から目線にはなりませんし、一方的な「教え込み」「教科書の朗読だけ」ってことにもなりません。そういう授業方法ほど、教える側にメリットがありませんから。そういう授業をしたがる人は、やはり、上記に挙げた「教えること自体が好き!」な人でありましょう。

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そろそろ本稿を閉じて、勉強に戻ります。レポートの提出に追われて、今日の分の自学自習のノルマ、たぶん達成できないので。すこしでも取り返さないと。
ファラデーだって伝記やウィキには、子ども思いの教育熱心、みたいに描写されてますけれど。たぶん僕が書いたような、もうちょっと「欲の匂い」がする人だったのではないかと思います。人間のそういう側面ほど、歴史は脱臭したがるもの。そのほうが単純化できますしね。
でも、ライフスタイルが自由になることは、それだけ社会が複雑になるということです。未来、歴史の教科書が作られるとき、「21世紀の日本、なんてまとめたらいいのよ!こいつら自由すぎるわ!?」って編纂者を泣かせられたらいいなと思います。

(おわり)

ファラデーの死に様は、僕としてはうらやましいもので。自宅の椅子にもたれたまま、眠るように息をひきとった、ようであります。ウィキ調べ。
いいですね。「椅子で眠るように」という、死に際が他人から分からないようなのは、かなりいいですね。

でも、こういった臨終は、あまり「欲の匂い」がしない…静かなものです。自説が怪しくなってきました…。

でも、「欲がギトギトしてて、騒がしいもの」って、多分に偏見ですよね。

ファラデーがした「何事もないかのような」旅立ちは、生前においても「現実を揺さぶり続けた人間」だけの特権のような気がします。死ぬも生きるもないくらい、人生をぐちゃぐちゃに出来たらいいなあ。ああ、うらやましい。

では、次の水曜日にお会いしましょう。

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東北大学/「エキマエ読書会 by東北大生’s」のオーナー/ 「読書生活のサンプル」をお送りします(毎週水曜日)
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