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カリキュラムとは歩いてきた道のこと

カリキュラムという言葉から、何を連想しますか?
日本では「教育課程」を意味することがほとんどですが、語源を調べてみると、「歩いてきた道」という意味合いととらえた方が本質的です。そうなると、両者の意味合いは、正反対のように思えます。

神奈川方式で中学生から勉強漬け

僕は公立中学校に通っていましたが、週3回、学習塾に通っていました。別に珍しいことではなく、そういう競争の激しい時代でした(30年ちょっと前の話)。

時代だけではなく、地域性もありました。僕が子ども時代を過ごした神奈川県では、中学2年生の三学期にアチーブメントテスト(通称「ア・テスト」)という一斉試験があり、その成績によって「入学できる高校の上限」がほぼ決まるのです。神奈川方式と呼ばれていました。

神奈川県では、中学2年生の夏休みの前日、先生から進学の条件などの話を聞かされます。高校受験は入試の割合は5割に過ぎず、残りの5割は内申点やア・テストの結果によって評価されること。ア・テストで相応の成績を収めるためには、明日から始まる夏休みの過ごし方が重要であること。次々と説明されます。

夏休みの前日に、思いっきり冷や水をぶっかけられる感じです。

自分はとても不安な気持ちになったのを、いまでも覚えています。なんだか、突然たった一人で、社会に放り出されたような気がしました。

求める人材を養成するためのカリキュラム

大学に入って、僕が最初に興味をもったのは教育学でした。独学で勉強していくと、教育方法論やカリキュラム論のなかで、「カリキュラムとは歩いてきた道のことだ」という考え方に出会い、意味の違いに驚きました。

僕にとってのカリキュラムとは、やらなければならない課題でした。それは自分など関与出来ないところで全て決まっていて、それをこなせるのかどうかという勝負だということ。さらに、相対評価で評価されるので、同学年どうしのレースだということ。

自分がそこで勝者になるのは難しいと思えましたし、人生ってきっと大変なんだな…と感じて、希望は感じられませんでした。

でもそれは、僕ではない誰かが、僕ではなく国や社会のことを考えて、求める人材を養成するために定めたものなんだ──ということも、教育投資論などにふれ、知ることが出来ました。

自分の選択が道をつくる

別に、公教育を否定しようとは思いません。ただ、公教育とは、国のことを考えられてデザインされているということを、みんな知るべきだとは思います。

誰かが決めたコースに追い立てられて、中学生の僕は、萎縮してしまいました。そこで活躍できる人がいることも知っていますし、そういう人にとってはよかったと思います。

でも、そんな時代はもうおしまいです。定められたコースなどというものは弱体化して、それを信じて走ってみても、それが本人や周囲の幸福に結びつくのかは大変疑問です。言われた課題をこなしていても、もうどこにも行き着きません。

それよりは、本来の意味に立ち返り、その人のその人らしい選択が道をつくり、その道を歩くことがその人をつくる、そんな考え方で人生を見つめる必要があるのではないでしょうか。少なくとも僕は、その方が元気が出ます。あなたは、どう思いますか?

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