君を「意識高い系」とバカにする友達となんてサヨナラしちゃえば?
「意識高い系」という言葉が、揶揄する、バカにするようなニュアンスを含んでいるという話を、立て続けに聞いた。「だからなんなの?」と思ったのだが、よく聞くと、「意識高い系」というレッテルを貼られることで、若者たちが、NPOなど社会的な活動への参加を躊躇しているという。
「意識高い系」という言葉は、当初は純粋な褒め言葉だったが、いつしか「揶揄する(バカにする)」ニュアンスが加わり、いまではすっかり悪口になったという。
多用されるカタカナ語、高尚にみえる趣味、ボランティアや社会貢献活動、そして起業など、様々なことを“アピール”してくるところも、バカにされる所以らしい。ふぅん。
20年前の「意識高い系」より
僕は、20年前「意識高い系の学生」だった(と思う)。
と言っても、ビジネスで一角の人間になろうとしたのではなく、「社会活動」という海のものとも山のものともつかないことを、仕事にしようとしていたのだ。当時、大卒は就職が当たり前。NPO法人格もない時代に、こういうことをやるのは、自分で言うと本当に馬鹿みたいなのだが、なかなかの意識の高さである。
僕が活動を始めた1990年代初頭、「意識が高い学生」というのは、純粋な褒め言葉だった。でも、そういえば、よ〜く思い出してみると、馬鹿にされたこともあった。
いまの学生と、1990年代の学生では、様々な条件が異なる。こういう考え方もあるんだねと、楽しんでもらえたらうれしい。
「自分を出す」と世界が自分用に調整される
意識の高い・低いにかかわらず、「自分の意見をはっきり述べる」「自分を発揮する」ということは、周囲に影響を及ぼす。
「みんなとおなじ」をやっていた人が自分を発揮し始めると、変化が起こり、「去って行く人」と「新しく出会う人」がいる。
「去って行く人」は、いま近くにいる人たちのだれかだ。別れには痛みが伴うかもしれないし、せいせいするかもしれない。これから出会う人は未知の人だから、人が離れていくことが気になりがちだ。
でも、感情的にならず、客観的に考えることが大切だ。
自分に合わない人が離れていき、自分に合う人が近寄ってくる。それはつまり、自分用に世界が調整されるということだ。調整が一段落すれば、そこに広がるのはオーダーメイドの世界。つまらないことで馬鹿にしてくる友達など、そこでは石ころ以下の存在だ。石ころなどどうでもいい。
頭1つ出ると叩かれる 頭3つ出ると叩かれない
同調を求めけん制し合うような集団では、頭ひとつくらい出ると、使い古された「出る杭は打たれる」という言葉の通り、いろいろ攻撃される。
昔のことをくどくど書きたくないので、具体的なことは割愛するが、「意識高い系」だったために、僕もいろいろ攻撃された。「ただのイジメなんじゃ…?」と思うような強烈な嫌がらせもあった。嫌がらせというのは、上手な人は本当に上手なものなのだ。
そのときは胃のあたりがきゅぅ〜っと縮みあがって、悔しさや怖さが湧き起こった。それがトラウマに? ならないならない。
とはいえ、僕は確かにちょっと傷ついた。正直2〜3日ビビってしまったこともあった。でも、それより重大な問題があったのだ。「意識の高さ」故にはじめた活動を、軌道に乗せるべく、邁進しなければならなかったのだ。
頭ひとつ出るくらいの中途半端さが、一番攻撃されるのだ。ちょっとがんばれば、同じところまで引きずり降ろせそうだから。でも、頭みっつくらい出ると、そういう人たちは沈黙する。あんなに積極的に絡んで来ていたのに、すっかり静かになってしまう。
周りからとやかく言われて嫌な場合の対策として、「もっと前に進んでしまう」という方法がオススメだ。
本音なのか? それとも建前なのか?
さて、「意識が高い」故のあなたの言動は、君の本音だろうか? それとも、ただの建て前だろうか?
もしかして、「意識高いグループ」のよくある言動をコピーしているだけ? つまり、どこかのだれかをマネしているだけ?
これは非常に重要なテーマだ。例をあげよう。
「困っている人たちを助けるボランティア活動」に行くことにした。その活動こそ自分のやるべきことだと思った、というほどではないが、もちろん関心はあった。説明会に出たら、タイプの女の子に出会ってしまう。おかげで活動中はその子のことや、その子とのあんなことやこんなことばかり考えてしまい、正直「困っている人」のことなどだんだん上の空に……。しかもある夜、彼女が、その会のリーダー的存在の恋人だということが分かり、目の前が真っ暗になる。ボランティア? 俺、いまそんな気持ちじゃないんだけど──みたいな話はよくある(?)が、この例から学ぶべきことがある。
まず、これが仮に君自身だとすれば、好きな人のことばかり考えている君も、困っている人を助けたい君も、どちらも本当の君だということだ。だから、どちらかを否定したり、抹殺したりしてはいけない。
社会活動に参加する学生には、「健全」という偏見に、注意を払ってほしい。だれからの偏見って、自分のなかにある偏見だ。「教師は健全だ」「宗教者は健全だ」「ボランティアは健全だ」──このような偏見を、僕は「たてまつり型の偏見」と呼んでいる。「意識高い系」への偏見は、こうした「たてまつり型の偏見」の亜種でもある。
「え? そんな活動しているの? へ〜 すごいね〜 えらいんだね〜」
生身の自分を否定すると(つまり自分に嘘をつくと)、本音と建て前の区別がつかなくなるのだ。
社会通念を相対化し自分の頭で考える
「社会通念上好ましくない」という言い回しがあるが、「社会通念」というのは、どこかでだれかが議論したり、投票をしたりして、定まったものがあるわけではない。だから僕は、「社会通念に照らして」みたいな無責任な言い回しが嫌いだ。「社会通念」などという曖昧なものを持ち出さず、まっすぐに論拠を示し、自分の考えを述べればいい。
社会通念というのは、一度、相対化されなくてはならない。
ろくに吟味もせず、「なんとなく」「みんなそう思っているから」ということで採用している考えを、ギリシア哲学の言葉でdoxa(ドクサ)という。doxaは、その人が本当に思っていること、その人のアイデンティティであるself(セルフ)を覆い隠すものと考えられている。目玉焼きに例えれば、白身がdoxaで黄身がselfだ。
社会通念にまみれて生きれば、自分が見えなくなってしまう。
僕はもう44歳(1972年生まれ)なので、若い人たちみたいにキラキラしていないけれど、はっきり言って意識は高い。ものすごく高い。そのへんの妙に老成した若者など、比べものにならない。常に、静かに、高い。
何が言いたいかというと、そんな状態でも、なんとか生きて来られたよ、ということだ。社会通念を相対化し、自分で自分の生き方を選びとることで、こんな僕でも生きてこられた。
「どっきり系」のTV番組で、天井近くに置かれた隠しカメラからの映像が流れるが、僕はあんな感じで自分をイメージする。ときには、上空のドローンからの映像みたいな感じで、生活圏とそこにいる自分を眺める。必要ならもっと高くして、上空1万メートルから眺めてもいい。意識だけでなく、目線も高くするのだ。
君の近くで「意識高いね〜」なんて言ってくる奴なんて、もうどうでもよくないだろうか?
意識が高くて何が悪い
いま気になること、いまやりたいことが、やるべきことだ。
ちょっと周りに何か言われて、自分を「被害者」だととらえるのは簡単だし、それが普通だろう。でも、そこでこそ、意識と目線を高く持とう。君は意識が高いのに、普通に対処してどうする?
人は一人ひとり違う。みんなに好かれる人など、この世にいない。
社会通念を相対化するというのは、無視するということではない。アナーキーでサイコで危険な人になるということではなく、責任を持って自分の頭で考え、自分の考えを持つということだ。社会通念に出くわしたり、知らない間に自分がとらわれている社会通念に気付いたら、なぜそれが「正しいこと」とされているのかを自分の頭で考えるのだ。結果「確かにその通りだ」と思えたら、それはもう社会通念ではなく「自分の考え」だ。
他人からどう思われるかなど、本当はどうでもいいのだ。親や、友だちや恋人からの期待など、どうでもいいのだ。他人の期待でもなく、社会通念でもなく、自分自身を生きるのだ。意識が高いって、そういうことだと思う。
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