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仕事つらいと感じたことない人生は、稀有な家庭から

仕事がつらい。そんなこと、
1度も思ったことがない。

そんな稀有な人生を送っている。

バイトも何種類かしたことがある。
高校生の初バイトは、
年末年始の鏡餅を、手でつくることだった。
最低賃金より時給が少ないけど、
アットホームな環境で面白かった。

大学時代は、高級料亭のバイトもして、
百貨店のパン屋さんのバイトもした。

休学中にした塾の講師のバイト。
このバイトが、
私の仕事の倫理観をつくったと言っても
過言ではなかった。

卒業後、就職もした。
転職もした。
一時期、秘書のようなこともしたことがある。

結婚・出産を機に、
パートにも行くようになり、
一時期はライターとして栄養の知識を発信する仕事もした。
今や、個人事業主として「自分で仕事をつくること」をしている。

それだけいろんな業種を経験し、
いろんな人間関係の中に浸かっては出て、を繰り返した。
今一度、深く深く考えても
「仕事がつらい」と、1回も思ったことがないのだ。

いろんな人がいた。
人ひとりの記憶にとどめるには、
もったいないほどの人たちであふれていた。
 


なぜ「仕事がつらい」と思ったことがないんだろう。
そう考えたとき、ひとつだけ心当たりがあった。

家がハードだったのだ。

北海道の片田舎。
ペリーが黒船で来航し、開けろと命じた港町。そこに住んでいた。
父は根っからの人好きで、お酒を飲みに出ては遊び歩いていた。
母は子どもが大好きで保育士を仕事にし、家のことも私たちのこともきちんとしている人だったように思う。
 
父の武勇伝は、本当に数が多すぎで、何が武勇伝なのかもわからなくなってくる。
武勇伝の基準も上げなくてはいけない、かもしれない。
子どもの私が知っているだけでも、多すぎて3冊くらいのエッセイになる。なかなかに過激な家庭で育ったのだ。
私は敬意もこめて【アクティブな家庭】と呼んでる。
 
文字にすると、インパクトが強いかもしれない。
パワーワードが並ぶのも避けたいため、できるだけ事実だけをならべてみようと思う。
 
1日3リットルは当たり前。
これが通常運転。
500mlのビール6缶。
3缶目からは同じ部屋にいてはいけない。
逃げないと、絡まれる。絡み酒なのだ。
何をしていなくても、
上手に何か探し出し、大声で指摘される。
つまり怒鳴るのだ。
颯爽と、こっそり逃げるが勝ちなのである

絡む理由なんて、なんでもよかった。

すこしだけ咳をした。
すると、テレビが聞こえないと低い声でにらみを飛ばす。

冬にこたつでみかんを食べた。
その匂いでビールが不味くなる、と大声を出す。

私が少し太って、後ろ姿が大きくなったのだろう。
「その体型。自己管理できねぇやつは、仕事もできねぇ馬鹿だ!」と持論を展開する。

テーブルの上に、読みかけの本を置いてみよう。
早く片付けろ! と、叫ぶのだ。


私が小学生のときから、こんな感じなのだ。


父の帰宅時間が迫ると、
家の中はあわただしくなる。
当時はLINEやスマホがここまで普及していない。
つまり、おおよその時間しかわからないのだ。
残業で遅れるのならまだいいが、
少し早く終わると大変だ。

父の帰宅時間は、
子どもにとっては緊張感のある時間だった。

これは、自分の荷物を部屋に、
ダッシュで持っていく時間なのである。
叫ばれないよう、怒鳴られないよう、
自分のできる精一杯で対応する時間なのだ。

小学生のうちは、たしかに怖かった。
一緒にテレビを見ていても、お酒が進むにつれ、私の中で警報が鳴る。
いい感じのときに部屋に退散するのだ。逃げ遅れないよう、父の観察は必須だった。おかげさまで、早寝早起きだったし、部屋にテレビもスマホもタブレットもなかったので、漫画と図書館の本が私の娯楽だった。

言いなりになれば平和だと勘違いしていたときもある。
でも違うのだ。
言いなりになっていても
「自分の意志はないのか!」と怒鳴られるのだから。


結論、何をしても怒られるのだ。


そして、決定的なのは、
この記憶がすべてないのだ。
本人は幸せである。
自宅でのひとり飲み会なのに、
記憶が飛ぶまで、飲むのだ。
 
いま、大人になって思うが、
ひとり自宅飲み会で記憶を飛ばすのは、
なかなかに至難の業である。

楽しいお酒は、好きな人と飲みたいし、
会話も楽しみたい。
悲しいお酒のときもあるが、
途中で気持ちがいっぱいになり
お酒が進まない。
大人になった私には、
いまだにできない芸当である。


小さかった私も、中学生になった。
小学生のときとは違い、闘うようになったのだ。
とはいえ、言い返すだけ。
まだまだかわいいものである。

思春期は大人になる第一歩と言われるが、
私の中の「身近な大人」は間違いなく、
この父だった。


こんな人に頼るもんか、と思った。
こんな人、父親じゃないと思ったときもある。
人としてどうなのよ? と言い争いになったとき「俺は、反面教師じゃ!」と叫んでいた。この人とは、理解しあえない、と察した瞬間だった。

酔ったあとの被害は、おもしろいくらいだった。
現実が小説の中のようなのだ。

朝起きて、リビングに行くと、
被害状況がわかる。
名探偵コナンの頭は必要ないくらい、
あからさまだった。
一般の小学生でも推理できるだろう。

土鍋の蓋も割っていた。陶器だから割れるのだな、と思って見てた。

こたつの脚も折った。こんなに太い木でも、折れるのだなぁ、と半ば放心状態で見ていた。

カラーボックスにも、穴を開けていた。

壁に穴が開くのは、普通だった。
「今日は1つか、先週は2つだったな」なんて笑ってた。
祖父が大工で本当によかったと思う。穴はすべて直してくれたのだから。

2階にある父の部屋。
そこで寝るにも、酔って歩けず、階段から落ちてきたこともある。
1度や2度じゃない。
朝、階段の下で、青たんをつくっていびきをかく父。
なんともいえない哀愁が漂うのだ。

父は、私が引きこもりになったら、
外から板を釘打ちして
「もう出てくるな!」と言いそうなタイプなのだ。
絶対に、不登校も引きこもりもできないなぁ、と思い込んでいた。



そんな私の処世術は、弱みの排除。



つまり根掘り葉掘り聞かれ、
いろいろ絡まれるのが面倒だったから、
徹底的に弱みを見せないよう排除した。

小学生のとき、
95点以下はとったことがない。
中学生のとき、生徒会役員。
成績は上位10位以内。
高校は市内でも優秀と有名な高校で、
部活も成績優秀。
国体地区予選突破、
全道大会に出場するし、
勉強も上位にいるのは常連。
友達もそれなりにいて、彼氏もいる。
偏差値65の大学に試験のみで受かるという、
ちょっと嫌味な感じである。
いや、かなり嫌味だろう。

でも、
これは全て自分を守るための手段だったのだ。

勉強・部活動など、
なにか1つ突出した才能のない私には、
マルチ分野で上位に食い込むのが精一杯だった。
そうまでして、
やっと嫌味を言われなくなった。
お酒を飲んだときに、絡まれなくなった。
ある意味、父のおかげである。
ありがとう、お父さん。

これだけみると、残念賞大賞の父に見える。

しかし、外では、
とてもいい人で仕事ができたりするのだ。
だから、公務員だったし、
公務員になる前も、営業職で、
20代初めに営業所所長(支店長)にまでなったらしい。
一緒に仕事をしたことがないので、
正確には分からないが、
実績が物語っている。

しかし、
そのいい部分をすべてなしにできるほどの、マイナスすぎる家庭内所作だった。

暗黒期は、
母に語ってもらったほうがいいかもしれない。
私はやはり子供の立場なのだ。
夫婦ではないからこそ、見えない部分が多い。
一時期、母と2人でホテルに逃げたこともある。1週間ほどホテル生活もした。
そのあと、ホテルから自宅には1回だけ帰宅。
夫婦、大喧嘩の末、父に住所は知らせずに、家を出た。
祖父に協力してもらい、母の友人に協力してもらい、家探しから引っ越しまですべて行った。

一度は、父とは音信不通になったが、
私が道外で結婚することとなり、
親への挨拶という形でつながることになった。


父娘の縁は、やはり、それなりに太いらしい。


私は、地元ではなく、
仕事で行っていた関西で
婚姻届けを出すことにした。
地元の役所に電話をして、
戸籍を取り寄せたのだ。

きちんと確認して手続したはずだった。
戸籍が届いたが、なんと切手の代金不足。
寮のおじさんが、10円足して払ってくれ、事なきを得た。

なんで不足?

役所にも確認してから、
返信用封筒に所定の切手も張り付けた。
でも確かに、なぜか分厚いのだ。
戸籍2枚(使う分と予備)にしては、
厚すぎる。

父はバツ2。
私の母と結婚する前に、
一度結婚しているし、
そこの方との間に子はいない。

そのせいなのか?

おそるおそる開封する。

ホチキスで止まったA4用紙が2部出てきた。
1枚目は、
1人目の女性との結婚・離婚のこと。
そして母との結婚、離婚の日付が書かれていた。
2枚目をめくると、そこには「ジュンコ」(仮名)と書かれており、婚姻が約1年前

さすがの私も、予想をしていなかった。

娘に内緒で父が再婚しているとは、思いもよらなかった。
音信不通状態だが、LINE もメールもつながっているし、電話番号は変えていない。なのに、連絡なしって……。


「誰よ!! ジュンコって!!」と叫んだのは、仕方ないと思う。


これが小説だったらよかったのに、
と何度も思うが、
すべて現実社会に起こった私の人生なのだ。



あの日から約12年経つが、いまだに父は変わらない。

ちなみに、ジュンコとは離婚して、慰謝料を払ったという噂を聞いた。
ジュンコが置いていったハイブランドの鞄は、私のお下がりとなった。
ありがとう、ジュンコさん。

60超えた父は、
今でも、普通に彼女がいたり別れたり、
恋愛の中で生きているらしい。
私に子どもが生まれ、
さすがに「会わせない」という選択肢はないと思い、
会わせるようになった。
が、安心して孫を預けることは、
今でもできないのだ。


飲めば記憶をなくす。
忘れているので約束は守らない。
守れば奇跡。
私の誕生日はおろか、孫の誕生日すら覚えておらず、祝いはない。
一緒の空間にいられるのは、もって2時間。
以前は、飲酒運転は当たり前。
そのせいで免許取り消しにまでなっているし、飲酒運転でうちの子2人を乗せてきたときは、大喧嘩になった。


私の娘は、
そんな父を面白がって、
からかって遊ぶが、
息子は「無理」の2文字で切り捨てる。


私や孫に、暴力を振るわないだけ、マシ。

という、「人として、それ、どうなの?」という判断を下してしまいそうになる。
とはいえ、居てくれないと、
私は生まれないし、
子どもたちも生まれないので、
感謝しているのだ。

しかし、
人として尊敬したことは、
ほとんどないし、
惜しい人だな、と思うときもある。 
「やさしいおじいちゃん」という生き物ではないのだ。


 
酔って記憶をなくしてタクシーを蹴って、
3日ほど拘留されたときもあった。
コンビニの前にいる若い子たちに、絡んだこともあった。
なににそんなに怒っていたのか、まったくわからない。
でも、その怒りの矛先が家庭になってから、母がかわいそうで仕方なかった。


そんなアクティブな家庭だったのだ。


はじめてバイトで失敗したときも、
会社で上司に怒られたときも、
すごく楽だった。

上司は理不尽に怒ることは、
それ程多くない。

怒ったとしても、怒鳴るだけ。
蹴られることもなければ、
目の前で机をたたかれることもない。
パソコンを壊そうとしたり、
椅子を倒されたり、そんなこともない。
そういうちょっと暴力的なことをされることがないからこそ、
会社ってお金ももらえて、
家より楽だなって思ったのだ。


「苦痛に感じて耐え難い事」を「つらいこと」と言うらしい。


しかしである。

小説のような家庭で育った。
しかも、家庭という狭い世界である。
これしか知らなかったのだ。

この家庭が私のすべてであり、
私のリアルであり、
私の人生の大半を占めていた。

「家庭ってこんなもんでしょ?」

その感覚がすごく強かった。
こんな家庭以外知らないのだから。

だからこそ、
社長や会長、直属の上司の怒りや指摘に対して、
つらいという感情がなかったのだ。
仕事ができないのは、まだ慣れてないから。私のせいなのだ。そのくらいに思ってた。

お酒を飲んでいない、普通状態の父は、
「お金とは、血と汗と涙の結晶だ」
とよく言っていた。

塾のバイトをしていたとき、
塾長に「人間関係も仕事のうちだ」と言われていた。
給料+α、少しだけ多く働くのがいいことだ、と教えてもらった。

ただ個人事業主という仕事に
シフトチェンジをしたとき、
仕事やお金は感謝の対価だと思うようになった。
生徒さんとのやり取りは楽しい。
レッスンに来てくれる子どもたちの成長は、本当にうれしく思うのだ。


「人を喜ばせることが仕事」


そう実感することしか起こらない。
だからこそ、こんな家庭で育ってよかった、と思うのだ。
いろんなものに耐性がついた。
優秀に育ててもらった。
あとは、この経験を生かして、
たくさんの人に「なんとかなるよ」と届けるだけである。

やはり、
仕事はつらいと感じられないまま、
生きていくのだろう。
きっと、それでいいのだ。

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