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今、どんな時代か、というはなし

これからどんな時代になっていくのか。

いつの世も、色々なところで語られている議題だけれど、ここ最近、よりこうした話をしたり聞いたりする機会が増えてきた気がする。

つまり、数年前から「こういう時代になる」とさんざん語られてきた時代が、いよいよやってきた、あるいは目の前に迫ってきた、ということなのかもしれない。

それとともに、だいたい世間で語られることが固まってきたので、一度備忘録的な意味も込めてまとめておこうと思う。
(個々の話は見飽きた人も多いと思うけど、まとめられた記事って意外とないんじゃない? という緩い打算)

今回は、一つひとつについて解説や言及はあんまりしない(ように努める)。
深く取り上げておきたいものについては、後々改めて記事にするかもしれない。

1.貨幣経済中心から、評価・信用経済中心の社会へ

これについては、「これから」というよりも、もうけっこう前に変わっている。
ここ2年くらいで発信のハードルが極端に下がって、さらにコロナの影響で一層顕在化した、というだけのことだ。

※なお、信用経済と評価経済の違いについては僕はよくわかっていないので、分かる人はぜひ教えてほしい。
(ニュアンスレベルの違いなのかな?)

要するに、貨幣じゃなくてその人への評価や信用がその人の資産となって、世の中にも流通していくよ! ということである。

厳密に言うと、お金は消えないけれど、評価・信用で容易に代替できるようになった、ということ。
評価・信用をお金に変えることができるようになったけれど、逆はできないので、当然ながら貨幣の価値は下がっている。

コロナの影響でより一層この傾向が加速して、焦っている人(や企業)は多いのではないだろうか。
正直なところ、僕自身、意識はしつつもサボってきた側の人間だと思うので、焦る気持ちはある。
毎日noteを始めたのも、(手探りではあるが)ここを意識して、という側面があったりする。
#意外と考えて行動している

「ギブ」の考え方がここ最近ブームっぽくなってきたのも、この影響によるものだろう。

これが実に大きな時代の分かれ目で、以下に挙げる2つの変化も、この変化が前提となって起こっている変化と言えるかもしれない。

2.個人の時代からコミュニティの時代へ

ブログから始まり、SNS、YouTube、各種ライブツールと、誰しもが発信できる時代が熟してきて、そろそろ個人の時代が終わりに向かっている。

上手に発信するための情報はどこにでも溢れていて、そのためのツールも、ほとんどお金をかけずに誰でも使えるものが増えてきて、クオリティは均一化してきた。
当然ながら「個人で何かをやっている」ことの希少価値ももうない。

これは、何もSNSやYouTubeで発信するようなコンテンツだけの話ではなくて、プロダクトも、飲食物も、サービスも同じことで、あらゆるもののクオリティにはもう差がなくなってきている。
(正確には、ほとんどのモノやサービスが、大半の人が十分満足できるレベルにもう達した、ということだが)

じゃあ、自分の時間とお金を投じる先をどこから選ぶか? あるいは、自分がモノやサービス、コンテンツをどこに提供するか
となったときに、コミュニティに属していることが大切になるよ、という話だ。

単純に考えれば、自分と同じ趣味や考え方を持った人たちと一緒に過ごすことは快適なわけで、そういう人たちからモノを買いたいし、そういう人たちにサービスを届けたい、となるのは自然なことである。
今までは「地域」というコミュニティくらいでしか実現していなかったけれど、今は自分の好きなコミュニティでそれができるようになった、ということだ。

コミュニティ化の動きは、この先1〜2年くらいでもっと加速していきそうな気がする。

思えば、たまに覗く程度だったFacebookを、半年くらい前から少しずつアクティブにしていっているのもこの変化の影響である。
#意外と考えて行動している

ということで、僕自身ももう少しコミュニティを増やしておかないとな、と思っている。

3.「過程」がコンテンツへ

提供されるもののクオリティの差がなくなってきた話から派生して、「完成品」の価値が相対的に低下してきた。

それを受けて、完成品だけでなく、
「そのコンテンツに誰が絡んで、どう作られてきたのか」
「できあがったものをどのように広めて、どう売るのか」

といったこと自体を含めて「コンテンツ」とするケースが増えた。

ここからさらに「制作や宣伝、販売にユーザーを参加させる」というところまで踏み込んだビジネスも見られるようになってきていて、今後はこっちが主流になるかもしれない。

この戦い方で有名なのは誰かなぁ、と考えると、秋元康さんが浮かんできた。
先に取り入れた人はもっと前にいるだろうけれど、日本全国規模でこの手法を圧倒的に大成功させたのは間違いない。

よくよく考えれば、アーティストや映画の「メイキング」を見せる手法は昔から行われていて、その需要はすでにわかっていたはずだ。
スポーツ選手の練習風景とか、あるいは工場見学も近いニーズに応えたものかもしれない。
(完成品の公開前、あるいは完成前に見せる、という形に切り替えたのが決定的だった)

この考え方の肝になるのは、「過程を見たり参加したりしたコンテンツは、結果(完成品)を知りたくなる」ということだ。
言われてみれば当たり前なのに、聞いたときは膝を叩いたものだ。

余談だけれど、例えば、ジャッキー映画の定番だった(今でもやってる?)本編後のNGシーン集を、本編公開前のCMとして出していたら、劇場に足を運ぶ人は増えたかもしれないな、と思ったりした。

時代に置いていかれないで

もう少しいくつか書きたいネタがあったはずだけれど、忘れてしまったのと、これ以上書くとまた長くなるので、気が向いたときにでもまた続きを書く(かもしれない)としよう。
(「シェアの時代」とか、いつか書きたいな)

繰り返しになるが、いずれも、数年前から何度も何度も目にしているし、聞いていることだ。
しかし、いざ自分の仕事や生活に落とし込んで適応させていこうと思うと、これがなかなか難しい。

強引にやろうとすれば、どこかに歪みが生じるかもしれないし、軋轢が生まれるかもしれない。
だから、無理に急ぐことはないのだけれど、取り残されれば生きづらくなる(というか、生き残れなくなるかも)ことは確実である。

少なくとも、頭の中にはしっかり入れておいて、これからの行動を決めるうえでの指針にはしておく必要があるだろう。

そして、僕がこんなことを書いている間にも、次の時代が刻一刻と迫っている。
時代についていくのは大変だし、ついていかないと生きづらくなる。

生きていくのって、実にむずかしいものである。

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