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子どもの能力、見えているか?

もうすぐ、子どもが1歳になる。
もうあれができる、もうこれができる、と驚く日々のなか、あれよあれよの間に1歳である。

言葉もそれなりに理解していて、たぶん、口の構造的にしゃべれるようになれば、そこそこしゃべれるんだろうな、と思うことがよくある。

「お茶飲んで」と言ったら近くにあるお茶の入ったマグマグを手に取る(飲む気があれば)し、「じゃあ行ってくるね」と言っただけで、「だいだい」と言ってバイバイのジェスチャーをしてくれる。
あとはもう、歯が生えたり、舌をうまく動かせるようになれば、つまり身体的な能力の部分さえ整えば、それなりに言語での意思疎通ができるのだろう。

つまり、子どもがしゃべれるようになる時は、知能がそこに達したときではなくて、身体的にうまく声を発せられるようになった時だということになる。
言い換えれば、しゃべれるようになったときは「話すことに関する知能レベル1」からのスタートではなく、すでに「5」くらいになっているかもしれないのだ。

そこから、例えば小学生くらいの子どもでも、思考力的には充分に大人と渡り合えるというケースもけっこうあるんだろう、という想像をした。

知識とか経験が足りないがゆえに、大人の発言に対して適切なアプローチや返答ができないだけで、その背景などをしっかり説明して理解してもらい、極力大人と同じ土俵に立って同じ課題について思考することができれば、その思考力(論理性や回転の速さなど)は大人が想像する以上のレベルに即座に達するのではないだろうか、と思うのだ。

もちろん、議論が展開すればまた新しい知識や経験値がものを言うようになるわけで、「大人と同じ土俵に立って」という部分が非現実的な仮定に過ぎず、結局は僕の想像止まりになってしまうのだが、「たぶんそうなんだろうなー」くらいの、漠然とした感覚がある。

下の世代のほうが優秀である、というのはよく言われることだけれど、僕も基本的にはそうだと思っている(時代への適応性も含まれるから、当然といえば当然だが)。

つまり、下の世代が僕らの土俵に追いついてきたように見える頃には、すでに思考の面では僕らの遙か先を行っている可能性が高いのだ。
知識や経験値が充分についてきて、僕らと同じ目線で議論ができるようになる頃には、僕らと同じ「思考レベル10」ではなく「15」くらいになっていてもおかしくない、ということだ。

しかも、先人たちが積み重ねてきた経験とデータがある以上、子どもが成長して、当時の大人たちと「同じ土俵」にたどり着くのは確実に早くなっていく。

僕は今年で31歳になった。
今までは上に追いつけ追い越せの精神だったけれど、もうそろそろ下の世代の突き上げが本格化してくる。
歳を重ねたなりの闘い方を、少しずつ考えていかなければならない時期に来ていると言えるだろう。

と同時に、自分の子どもに対しては、自分が見えているよりも上の思考の中で生活している、ということを意識しておかなければならない。

そうすると、「理解できてないから」と思って子どもの前で軽率な行動をとるようなこともなくなるだろうし、子どもの知能に心地よい刺激を与えながら育てていけるように思う。

もちろん、その程度の問題は個人差もあるので各々考えなければならないけれど、お子さんのいらっしゃる方は、一度「思ってるよりも色んなこと考えてるかも……」という意識をもつと、接し方がまた変わるかもしれない。

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