寝たきりの親友と語り合っていた「寝たきりでも誰かと出会えて、誰かの為に仲間と働ける未来」
たとえ寝たきりでも誰かと出会えて、誰かの為に仲間と働ける未来を作ろう
寝たきりだった亡き親友、番田雄太とOriHimeでそんな話をした。
寝たきりで社会人経験もないのに無理だと呆れられ、夢だと言われ、それでもやりたいんだと動き続け、5年半。
2021年6月、たとえ寝たきりでも働ける「分身ロボットカフェ」常設実験店がオープンした。
分身ロボットOriHimeを自宅や病院からリモート操作して働き、新たな働き方、社会参加方法を研究する実験カフェだ。
OriHimeを遠隔操作して働いている人は約60人。
突然難病になり身体のほんのわずかな部分しか動かせなくなった人もいるし、生まれつき寝たきり状態の人、突然の事故によって頸髄損傷になり首から下が動かせなくなった人や、臓器移植を待機して入院している人もいる。
また、当時者ではないが介護する為に外出ができない、あるいは海外に住んでいる人もいる。
共通することは「移動困難により、就労できていない人達」という事。
こうしたメンバーが生身の身体ではなくロボットを遠隔操作し、生身で来店したお客さんからオーダーを受け、注文の品を運び、時に談笑したり、お客さんの好みに合わせて遠隔で珈琲を淹れるバリスタなども行い、働き、給料を貰っている。
今年6月にオープンしたこのカフェの名前は
「分身ロボットカフェ DAWNver.β 常設実験店」
たとえ外出困難になっても、新たな働き方を研究し、改良を繰り返す”実験カフェ”だ。
オープンから3ヵ月経過した今も、休日になるとオープン時から賑やかなお客さんが来店し、毎日多くのパイロットが働き、そんな中で新たなロボットやシステムが投入されたり改良されたりしている。
パイロットを含めた総勢100名以上が関わるこのプロジェクトは5年前、たった1人の寝たきりの男との雑談から始まった。
4歳から20年以上寝たきりで、学校にも行けず、友達もほとんどいない。
人とも上手く話せないし、気に入らない事があるとすぐに怒り、協力者を呆れさせてしまう。
それでも私は番田と話すのが好きだった。
「心が自由なら、どこへでも行けるし、なんでもできる」とうたい、寝たきりでも自由に生きれる世界を目指し、28歳の時に亡くなった親友、番田雄太。
私と番田のたった2人の妄想から始まり、常設カフェが生まれるまでの話をしたいと思う。
長くなるかもしれないが、お付き合いいただければ幸いだ。
2016年春
三鷹駅の南の小さなオフィスで、私と番田雄太はカメラを向けられインタビュー取材を受けていた。
番田は私の1歳年下の友人で、一緒に全国を講演するよき相棒だ。
吉藤&番田コンビの講演活動はありがたい事に人気となり、全国から年間50回近く呼ばれるようになり、こうして取材も受けるようになっていた。普通の講演と違ったのは記者の目の前に番田の身体はそこにはなく、代わりに番田が遠隔操作するOriHimeというロボットがいた事だ。
番田雄太は盛岡の自宅から動けない寝たきりなのだ。
元不登校である経験から「孤独の解消」をテーマに掲げて研究し、分身ロボットOriHimeを開発していた私と、4歳のときに交通事故に遭い20年以上寝たきり生活の番田は、ネットで番田が私の研究を見つけ、Facebookで連絡をとってきた事から意気投合した。それ以来、「孤独とはなにか。孤独から解放されるには何が必要か」等について語り合うようになっていた。
私は小学5年~3年半、不登校/ひきこもりで友達もほとんどおらず耐えがたい孤独だった経験がある。毎日の授業にも行けず、体調を崩して遠足にも行けなかった。「もうひとつの身体があればいいのに」と思った当時の私が欲しかったものとしてOriHimeという遠隔操作型のロボットを開発した。
このOriHimeを使えば、入院している子どもが学校へ通ったり、友達と共に遠足やお祭りに行く事ができる。私が欲しかったものだ。
2013年12月、OriHimeを開発している私のところに番田雄太が突然Facebookメッセージを送ってきたところから番田との交流は始まった。彼は首から下が感覚もなく全く動かせず、顎を使ってPCを高速に操作して私と毎日メッセージをやりとりしていた。
「私みたいな寝たきりは外に出る事すらできないし、外出したいとお願いしても許してもらえない事が多い。」
「外出ができない人生は、出会いと発見が何もないってこと。それが一番の障害なんだ。」
私は分身ロボットの研究と改良のため、遠隔地にいる寝たきりの番田を”OriHimeパイロット”として私的に雇う事にした。
可哀そうだからではない。番田はそう思われる事をとても嫌がった。
まったく社会と接点のない寝たきりの番田が自分の意志で様々な人に会いに行けたり、社会に参加できるようになるツールを創れれば、それは番田だけじゃなく、同じような後輩の寝たきりの人達、将来外出できなくなるあらゆる人達の「選択肢」になる。力を合わせて実現しよう。
そう2人で意気投合したからだ。
突然、会ったことも無い寝たきりの人を雇うと会社の仲間に話しても理解が得られなかったし資金調達もしていない会社としてそんな金銭的余裕も無かったので、私がポケットマネーで払う事にした。
毎日自分の身体の一部のように使って改善点を見つけ、使い勝手をフィードバックしてくれるのが番田の役割。それは私が食費を削ってでも対価を払うに値するとても大切な事だと思った。
はじめの2,3日、三鷹の小さなオフィスに、番田はOriHimeで出社し、意見をまとめた。ただ、「OriHimeを毎日動かしてくれ」といっても”目的”がない事に気付いた。
毎日オフィスの中を動かし、見回すだけ。はじめは楽しいが、そのうち番田も飽きた。
目的もなくこれといって仕事もなく、オフィスにいるのもお互い気まずかった。やがて番田はOriHimeの重大な欠点として、「僕のようにOriHimeで行きたい居場所がない人に、OriHimeだけあっても意味がない。孤独は、解消されない。」と報告してきた。
グサッときた。
と共に、ハッと思った。
私は「入院していても学校に通いたかった」という自分の考えでOriHimeを作っていたのだが、生まれてずっと寝たきりで、学校やどのコミュニティに所属もしていなかった番田にとって”通うべき場所””行きたい居場所”はどこにもなかったのだ。
では、24歳までほぼ学校に通えず、居場所をもたない番田はどうやってその関係性をこれから得ていけばよいのか。
OriHimeを操作する番田と会議室でよく語り合った。
人が存在するためにはなにかしら”居る理由”が必要だ。
いくら、周りが「毎日来てくれていいよ」「好きにしてていいよ」と言っても、本人がそれで気まずいと思ったらそれは居場所ではないんだ。
「どうしてここにいるの?」と聞かれたとき「ここが僕の席だから」「僕の役割はこれだから」と言える事は大切だ。
たとえ周りの人が「あなたには死んでほしくない。生きていてほしい。生きてさえいてくれたらいい。」と言ったところで、本人が”自分が生きている事で誰かが喜んでくれているという実感”がなければ、それは生きているのではなく生かされているだけだ。
生きれるだけ贅沢だと言われるかもしれないけど、それは生きてはいないんだよ。
いろんな事を話し合ううち、私は番田と一緒に講演活動を始めた。
はじめ、番田は20年の寝たきりの話なんか誰が聞きたいの?と自信なさげだったので演出も考えた。
「分身ロボット」という概念がまだ理解されない2014年、私の声に反応したり、お客さんに手を振り返したりするOriHimeをみてお客さんは認識力の高いAIのロボットだと思い込む。しかし番田が寝たきりで、自宅から遠隔操作しているのだと言うと会場が驚きの顔に変わりザワザワしだす。オーディエンスがどういうことか理解しようというモードに入るのだ。
そこから番田のスピーチが始まった。
「事故にあってからこれまでの20年は、明日少しでも長く生きる為に何もするなと言われた20年だった。同じ病室で、外の世界を見る事もなく亡くなっていった子ども達に、寝たきりの私は手を伸ばしてあげる事も、傍へいって声をかけてあげる事すらできなかった。私は、彼らは、生きたと言えるのでしょうか。生かされただけなのではないでしょうか。
私は、たとえ明日死んでしまうとしても、今日好きな事をやりたい。それぞれ皆がもつ、想いのカタチを、実現させられる世の中を作りたい。」
番田のスピーチは多くの人に応援された。
はじめからスピーチが上手かったわけじゃない。学校にもほぼ通っていない番田のスピーチははじめめちゃくちゃだった。それでも何度も講演を重ねるうち、徐々に自分の考えを言葉にできるようになっていった。
それはお客さんのリアクションがある事、相手の顔が見れる事も、ずっと病院にいた番田には大きかった。目の前で喜んでくれる人がいるという事は大きな成長をもたらす。
番田の声にハリが生まれ、自信に満ちた声を出すようになった。
たとえ寝たきりでほぼ全く社会人経験がなくても、人は役割とリアクションによって成長できるのだと、実感した。
やがて講演のスケジュールを番田が担当するようになり、メールの窓口にもなり、取材対応や原稿チェックなどもするようになった。徐々に講演料も沢山貰えるようになり、地方に講演にいくときは高いお土産を「お祝い」として番田に郵送するようになった。
2015年夏までは私のポケットマネーで雇っていたにすぎなかったが、創業仲間や株主達にも認められ、そこからはオリィ研究所の”契約社員”となり、オリィ研究所、”広報兼秘書” が番田の正式な肩書になった。
仕事も徐々に覚え、まだ私も月に20万円くらいしか受け取らない小さな小さなスタートアップベンチャーだったが、番田も数万円くらいではあるが無理なく出社しながら受けれる仕事も増やしていき、稼いだ報酬で母親に沢山服をかってあげたり、私と会うたびに数千円もする寿司をご馳走してくれるようになった。
当時、”寝たきりで働いている人”はほとんど居なかったし、おそらく働けるとは全く世間からは思われていなかった。しかし番田は秘書として、こういう方法であれば働けるという前例を作っていった。
私達は誇らしかった。
一方で、様々な課題もあった。
私と番田はこの頃、東京都立の特別支援学校の外部アドバイザーに就任していた。これも、寝たきりの人が遠隔で、しかも東京都の公的な施設でこうして役職を貰える事は異例の事だ。
そんな事もあり、特別支援学校を訪問したり講演を行っていた際、番田は身体障害をもつ生徒の親御さんに「大丈夫です!寝たきりの私でも、こうやって秘書として働けますし、講演や外部アドバイザーにもなれますよ!」と伝えた。しかし、その時に言われた事は「ありがとう。でも私の子にはたぶん無理よ。オリィさんや番田さんじゃないもの(笑)」だった。
私達は落ち込んだ。
たしかに秘書や講演はだれでもできるわけじゃないかもしれない。番田も何度も失敗を重ねながら成長できる環境があったからここまでこれた。番田が仮に複数人いたとしたら、全員が同じ仕事を得られたかというと再現性はかなり低いだろう。
障害者が皆、たとえば芸能人の乙武さんやホーキング博士、国会議員の舩後さんなどの一部の大活躍している人のようになれるかといえばそんな事はない。希望ではあっても、自分もそうなりたい、そうなれると思えるような憧れのロールモデルには成りえないのだ。どうすればいい。
そんな課題を考えつつ、日々の取材をうけたりしてる中で「もっと番田さんにやってもらいたい仕事はなんですか?」という何気ない記者さんの質問に対してふと、
オフィスの玄関の呼び出し鈴がなった時に来客者を玄関まで迎えに行き、番田のいる会議室までお通しし、お茶を出したりしているのが自分だと気付いた。
あれ、これ本来アシスタントたる番田にやってほしい仕事なんじゃと思った。
「まるで私が番田の秘書みたいだよな。たまには珈琲でも淹れてくれよ」
といつもの軽口で言ったところ、
「いいよ。じゃあ、そんな身体つくってよ(笑)」
あーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
それだ!
その瞬間思った。
たまにこういう瞬間がある。
さっそく衝動的に発泡スチロールのブロックを購入し、ガレージで高さ80cmの人型の移動型OriHimeのイメージを彫り出した。
会社に発砲スチロールを削っていい作業場なんてないから、借家のガレージを改造し、工房化した。
発泡スチロールや石膏やパテを使い、その後は3DプリンタとFRPを使いながら手作業で少しずつ開発する私の横にはOriHime姿の番田がいる。
「将来、店やろう。私が肉を焼くから、番田がサーブしてくれ。ついでに自分の口にも運んで、自分で自分を介護できるようにしよう。」
「いいね。買い物にもいくよ」
そんな雑談をしながら、ボディをひらすら削った。
このころ、番田はこれまでずっと世話になりっぱなしだった両親を自分の介護から解放したいと、東京近くで独り暮らしをする方法を模索していた。
ストレッチャーは自動走行で自由に家の中を番田の意志で移動できる。介助者がいなくてもある程度の事は自分でやれて、介助者の人達や遊びにきてくれた人達のために玄関をあけてあげて、冷蔵庫をあけて料理をふるまえる。そんな家にしよう。
その1階部分は飲食店になっていて、番田はこの新型OriHimeでサーブして働くのだ。
さすがにそんなに広くて都合のいい家があるとは思えないが。2016年のセミの声が聞こえる暑いガレージの中で、番田とそんな妄想を語りあっていた。
番田が特別アイデアマンというわけではなかった。ただ、番田と話していると不思議といつも次々にアイデアが湧いてくる。それを番田は「それいいね」「それは違うね」「アイデアはいいけど僕としてはなんか嫌だね」などと言う。それは私にとってとても有難い事だった。
当時、一緒によく語り合っていた仲間のWITHALS(https://withals.com/)の武藤や、意思伝達装置OriHime eyeを一緒に作ったALS患者の藤澤さんにもこの構想を話し、大きなOriHimeができたら寝たきりでも働ける未来が来るよねと、何度も談笑を重ねた。
2016年の冬からは「寝たきりでも働くための作戦会議」をスタートし、仮説を立てた。
肢体不自由の特別支援学校を卒業した生徒の就職率は10%未満だ。
身体が動かない人の雇い方を企業はしらない。そして生徒や保護者、学校の先生たちは何のスキルを身に付ければ雇ってもらえるのかを知らない。
しかし、肉体労働であればどうだ。
普通の高校生も、いきなり身体を動かさず頭脳だけでできるアルバイトを探すのは簡単じゃない。多くの人が肉体労働から始まり、徐々に仕事を覚えていく中で頭脳労働を求められるようになってくる。
それが足りなかったのではないか。
社会に参加できない寝たきりの人達に足りないのは肉体労働だ。
肉体労働で働きはじめ、そのうち仕事を覚える中で後輩を教えたり、頭脳労働をする事もできるようになり、いずれOriHimeがなくても働けるようになる。
必要なのは、肉体労働できるテレワークツールだ。
ものづくりを学びたいと来ていたインターンの学生達を巻き込みながら制作を続け、3DプリンタやFRPやポリパテなどの材料を駆使して10ヵ月くらいかかり、会社ではなく個人のプロジェクトだったのでポケットマネーも家賃を払えないくらいに底をつきたが(肘のモーターひとつ壊れたら家賃が払えなくなるところだった)翌年2017年の2月には自走式の新型OriHime、「OriHime-D プロトタイプ」の開発に辿り着けた。
番田と考えたコンセプトは「だれかの為に何かできる自由」
人が居なくても勝手になんでもやってくれるロボットではない。
このロボットを使い、他の誰かに何かをしてあげられる、そして何かをしてもらえる”相互関係性による自由”目指した。
このロボットを使い、番田はエントランスまでお客さんを迎えにいき、なにげない雑談をしながら私の待つ会議室まで誘導し、お客さんにお茶を運び、名刺交換したり握手を交わしたりする。
床を掃除したり、カーテンをあけたり、届いた荷物を担当者の席まで運んだりし、一緒に働く社員らとも仲間意識を育む。
そんな未来はすぐそこだと思った。
その矢先、
2017年の夏、私たちのよき理解者で、顧問にもなっていただいていた藤澤さんが亡くなった。そして、その葬儀に参列したかったであろう番田も、その時すでに意識はなくなっていた。盛岡の病院に行き話しかけ続けたが、会うたびに状態は悪化し意思の疎通すらできないまま、親友は旅立った。
立て続けに2人の仲間の葬儀に出る中、OriHime-Dの開発はストップしていた。2014年から3年間ほぼ毎日OriHimeを操作し、OriHime-Dを一番操作してほしかった相棒はもういない。葬儀で徹夜でなんども書き直した弔辞を読みながら、せっかくここまで来たのにこの挑戦は全て無駄だったのもしれないと本気で思った。
しばらく開発が止まり、プロジェクトのメンバーらもいったん解散し、もうこのOriHime-Dの開発も、カフェ構想も辞めてしまおうかと思った。
自分でも驚くほどの無気力状態が続いたが、番田が言っていた
「このままでは無駄に死んでしまう。こんな身体だからこそ、何か生きた証を遺したい」という講演のスピーチを思い出した。
新たに村田望さんという現在もOriHimeパイロットをしてくれている番田の後輩にあたる仲間や、藤澤さんと開発した視線入力装置「OriHime eye」を私生活に導入され視線入力で絵を描かれるALSの榊さんとの新たな出会いもあり、もう一度やろうと思うようになった。
そんな中でたまたま出会った日本財団の方にOriHime-Dプロトタイプを見せ、番田との構想を語ったことから助成を得られる事になり、本格的にカフェの実証実験に向けて動き出す事になった。
課題は山積みだった。お金周りの事や、イベント運営の事、ロボットの量産の事やPRの事、様々な制作物など、はじめは私と番田の”わがまま”に多くの人を巻き込むわけにはいかないとすら思い、少人数でやろうとしたが仕事量がどう考えても私の許容量を越えていた。
時間はせまってくるが足りないものが多すぎる。ヤバい。焦りが顔に出ていた。
そんな時、生前の番田を知る多くの仲間が次々と「その夢、自分にも関わらせろ」と、仕事を休んで手弁当で手伝ってくれた。(そのうち数人がのちにオリィ研究所に入社する事になる。)
時間が迫る中、揃っていないものが多すぎるくせにやりたい事はもっと多い。もっと早く仲間を巻き込むべきだったと人生で最も深く反省する日々が続き、2018年11月、10日間だけの分身ロボットカフェは実現する事になった。
たった10日間だが、理想のカフェの内装もデザインし、用意した。
動画も3本つくった。働いてくれるパイロットもTwitterで呼びかけただけだったが30人以上応募があり、zoomで面接して10人を選出した。
OriHime-Dも5台作り、クラウドファンディングも実施して協力者兼来場してくれる研究協力者も募った。パンフレットやグッズも作り、記者への呼びかけも行った。
なんとかたどりついた番田と語り合っていた店だが、けしてゴールではない。
・分身ロボットによる接客で、お客さんは満足してもらえるだろうか。
・ものを運ぶだけならAIロボットを導入した方がいいと言われないか。
・ここで働くパイロットは働き甲斐があるだろうか。
・パイロットの顔が写真だけな事に文句はでるだろうか。
・番田と同じように、社会人経験がなくても一歩目を踏み出せるだろうか。
・いきなり10人ものパイロット達と働く事ができるか。
・その10名らと、一緒に働いている仲間意識を得る事ができるだろうか。
・お金を払ってもらえるだけの価値提供になるだろうか。
私と番田の妄想の、仮説検証の場だ。
新しい事の全てがうまくいかない事や、うまくいかなかったときに酷い事を言われる事、痛い失敗を浴びる事になるのはこれまでの経験から解っているが、寝たきりになっても社会に参加できる方法の研究にヒントを得る事はできると信じ、10日間の実験に挑んだ。
運営としては反省だらけで、仲間からめちゃくちゃ怒られる事もあったし、本番直前でロボットが動かなくなるなど問題だらけで、寝れない夜ばかりだったのだが、お客さんは想像以上に満足してくれ、働くパイロット達の反応も非常によかった。
身体障害の重さだけでなく年齢や社会人経験などできる限りバラバラの10人を選考していたが、ほぼ働いた経験のない人も働ける事が解ったし、視線で操作し、働ける事もわかった。
番田が渇望した仲間意識を、パイロットや現場スタッフ全員に芽生えていたのを感じる事ができた。
1年後、私たちは更にメンバーや規模を増やし、30名のパイロット達と共に、別の場所、大手町と渋谷それぞれでも分身ロボットカフェの実験を実施する事になった。
運営体制を大幅に強化し、OriHimeやOriHime-Dのシステムも見直して強化した。前回は「オーダーを聞いてものを運ぶ」だけだった役割を細分化、新たな役職も増やした。
・前回の実験は1回目で珍しかっただけではないか。2回目、3回目で飽きられる事はないか。
・新たな働き方、OriHimeでできる役割をどれだけ増やせるか
・30名になった時にどんな課題がでるか
・我々が作った特殊なカフェ空間ではなく、通常の飲食店でホールスタッフと共同して働けるか
・何もしらないお客さんから受け入れられるか
・このカフェでの接客トレーニングは、実社会への就職に結びついていくか
これに加えて技術的な課題もある。
検証したい、しないといけない仮説リストも山積みだった。1回目もそうだったがアンケート作りも毎回かなり時間をかけている。
そんな時、この大手町の実験では、実験とは別にとても大きな手応えも得られた。
カフェで働いた人達がカフェだけではなく、他の企業からお誘いを受け、OriHimeで働きにいく事例も生まれたのだ。
企業も、これまで雇い方がわからなかった重度障害者が働いている様子をみて、OriHimeと一緒に雇用したいと言ってもらえるようになった。
いまでは約20名のパイロットが、このカフェをきっかけに他の企業や自治体に就職しOriHimeで働いている。
2020年1月、予定していた全ての実験計画が終了して成果を整理したとき、私達はこれを常設化する事に決めた。
常設の計画を作り、カフェチームを強化する為に仲間にも入社してもらい場所の候補地を探し始め本格的に動き出そうと思って準備をはじめた。
・・・多くの困難がある事は覚悟し、トラブルを想定しても、想像以上のトラブルは尽きないものだ。
コロナ時代の到来だ。
計画が全てひっくり返される事になってしまう。
先行きが解らない中でスポンサーも得にくくなり、借りれるかもしれない場所も白紙になる。準備してくれていたメンバーやパイロット達にもそれを伝えなくてはならない時はとても辛かった。
心が折れそうになる時、支えてくれるのはいつでもこれまで一緒に活動してきた仲間だ。それは亡くなっていった仲間も含む。
ここには書ききれないほど多くの出会いと支えがあった。金銭的な見返りではなく、本気で人生をかけて協力してくれる人達が集まっていた。
「こんな身体だからこそ、生きた証を遺したい」
番田と始めたプロジェクトは、そんな人達を仲間にしてくれていた。
できる事をやろうと、計画をすべて白紙に戻してゼロからスタートした。
時間ができた事で、よい事もあった。
これまでクラウドファンディングや、私や番田の講演会に来てくれた人達から「何か一緒にやりたい、力になりたい」と言ってもらっていたのに何もできていなかったが、私の普段の活動を密に発信し、カフェができるまでやそれからの開発を配信し、実験に応援してもらえる「オリィの自由研究部」を立ち上げたところ、数百人が入ってくれ、力を貸してもらえる事になった。
料理や内装、飲食店経営についても良き仲間に巡り合えた。
過去4回の分身ロボットカフェの実験を行った際、力を貸してくれていた人達が入社したり、アドバイザとして関わってくれる事になった。
常設店の場所探しも大変だったが、諦めず理想の場所を探していたところ理念に共感していただける理想的なパートナーと意気投合し、新日本橋駅徒歩1分、東京駅からも1kmで行ける良い立地を得られる事になり、オフィスも同じビルへ移設する事になった。
ALSや身体表現性障害になってしまった元バリスタの2人の意見から、パイロットが珈琲を淹れる「テレバリスタ」システムも、パートナー企業と共に1年をかけて開発し、準備する事ができた。
常設店ではパイロット達はコーヒーを運ぶだけではない。誰かの為に、一杯の珈琲を淹れる事ができるのだ。
2021年、「分身ロボットカフェ常設実験店」計画を発表。
クラウドファンディングでは1000万円を目標に、2000万円集まれば有難いと考えていた我々の予想に反し、なんと約4500万円もの支援を集める事ができた。
計画は加速し、パイロットは初回から50名を迎える事ができた。飲食の専門家、飲食店内装の専門家、カフェのベテランの店長、凄腕のエンジニア、デザイナー、不動産会社、多くの人達がプロジェクトに賛同してくれ、仮にOriHimeや実験など関係なくとも空間や飲食店として成立できるようなクオリティを目指した。
”実験”というにはあまりに贅沢な、番田と語り合っていた理念に賛同してくれる最高のチームで常設のカフェを開発する事ができた。
ここでは、毎日が世界初だ。
日本中や、海外からもパイロットが一瞬で通勤してくる。
店内を自由に走り回り、あるいは店内のOriHimeとOriHimeを乗り移ることで瞬間移動をしながら接客する。
感染のリスクがないから、お客さんも店員であるパイロットとは会話を楽しむ事ができる。
身体を動かせない人にとって大変な着替える必要もないし、雨に打たれる心配もない。1日1時間から働く事も可能で、通勤時間は1分だ。
それゆえに誰かが直前で体調を崩してしまっても、代わりの人が即座に入ってサポートする事もできる。
寝たきりでも珈琲を淹れる事もできるし、お客さんの前でパフォーマンスをして拍手を貰う事もある。
地下には開発室があり、1Fのカフェで得られた失敗をすぐに改善し現場へ導入し、実験する事ができる。
課題を発見してはそれを解消し、高速にトライ&エラーを回していく、サービスの現場と研究が一体となった公開実験カフェだ。
働くパイロットや、オリィ研究所として働くエンジニアやスタッフも随時募集している。ストレッチャーに乗った寝たきりの小学生の女の子がカフェに来店し、七夕の短冊に願い事を書いた。
働く姿は、次世代に憧れを与えている。
未来的すぎるものではなく、特殊な仕事ではなく、
「私にもできる」 そう思ってもらえる仕事を作りたい。
番田と悩んだ課題に、カフェはひとつの可能性を提示できたかもしれない。
これが広がっていくかは、まだわからない。まだまだ実験段階で、課題や仮説のリストは山積みだ。
病気で生まれてきた子や、事故にあって動けなくなってしまった人も、心が自由なら、どこへでもいけて、なんでもできる。
将来寝たきりになった時、ここで働きたいと思える場になりうるだろうか。
「寝たきりの先の憧れ」
それを研究するための実験店を重ねていく、常設の実験場である。
未来では、寝たきりでも働ける事が普通になる。
5年前、親友とたった2人の雑談から生まれ、多くの仲間を巻き込んで失敗と改良を重ね続けながら挑戦を続けるカフェは、まだまだ始まったばかりだ。
2021.9.27
吉藤オリィ
追伸、
【オリィの自由研究部(β)】
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日々の挑戦や実験の様子や挑戦を発信し、資金は全て研究開発に投資していきます。
【分身ロボットカフェ】
DAWN ver.β 常設実験店