なぜ僕は表現するのか。
2024年元旦。1人で夕食を済ませ、皿を洗っていた。皿とフォークを洗って、最後に油のついたフライパンに手をかけたときのこと。それまで優しかったお湯が一瞬冷たい水になって、きゅっと肘が縮んだそのときに、詩の一節が僕の頭を通り過ぎた。
『生きているということ いま生きているということ』
僕が小学6年生の頃だったか。「6年生を送る会」という行事に、送られる側として参加をしていた。なにやら学年の代表者が一節ずつ読み上げて、皆でひとつの朗読作品を演じたことを記憶している。床の冷たい体育館で、当時は後輩という意識すらない下級生らや、感謝という感情すら認識していない親たちに向けて発したのではなかったか。
なんの詩だったかと思いたって、先の一節をGoogleで検索した。
谷川俊太郎さんの『生きる』という詩だった。
ある谷川氏のインタビュー映像で、インタビュアーの女性が「谷川さんの詩を読んでいるときは、音楽を聞いているときのようだ」と言った。
それに対して彼は嬉しそうに「僕は音楽が理想なんですよ。言葉はどうしても意義があるから音楽になれないでしょう。だから意味のある言葉を使って、意味のない音楽のような美しさをつくりたい。今のところの理想で、それは無理な理想なんですけどね」と言った。
意義のある言葉で、意味のない音楽のような美しさを作る。なんて素敵なんだろう、と心が動いた瞬間だった。
耳が聞こえずとも鑑賞できて、楽器を扱えずとも演奏できる音楽ということだろう。
何かをつくり出せるひとは、その美意識を具現化できるひとだ。
「美しい」とはどういうもので、「きれい」であるということとはどう違うのか。僕は、どんなものを美しいと感じるのだろうか。
そういったものを、僕が在る証として、何かに残しておきたい。
誰のためではなく、自分のために。
何のためではなく、ただ僕が生きているということのために。
それが僕が表現したいと考える所以です。